第34話 屋上の亡霊
誠が店を出た瞬間、背筋にぞくりと冷気が走った。
それはまるで、魂の芯を誰かに握られたような感覚だった。皮膚ではなく、骨の奥が軋むような不快さ。身体がふわりと浮いたような錯覚に襲われた。
「……なんだ、この感覚は……?」
風でも視線でもない。空気の流れ自体が変質している。透明な薄膜のようなものが全身を覆い、世界の境界が揺らぎ始めている……まるで異物が現実に染み出してくるような、異様な違和感。
……干渉空間。しかも、自分以外の法術師によるものだ。
誠の直感が告げていた。
そのとき、店の扉が乱暴に開き、ランが飛び出してきた。
「神前、下がれ! そいつはマズい。今のお前じゃ手に負える相手じゃねー!」
鋭く叫ぶと同時に、彼女は子供用のようなウェストポーチから小型拳銃・PSMを迷いなく抜いた。あまりに自然で無駄のない動きだった。
周囲の通行人が悲鳴を上げ、店内もざわつく。
「司法局です!危険ですので頭を低くして避難を!」
誠はとっさに身分証を掲げ、法術による干渉空間を展開した。見えない領域を制御下に置きながら、現実と非現実の狭間を封じていく。
……戦闘は始まった。誠はそう実感した。
店の中のアメリア達は警戒しながら外の様子を見守っている。カウラとアメリアはまだ丸腰だが、かなめは常にスプリングフィールドXDM40を携帯している。
誠は目に見えない索敵用の干渉空間『テリトリー』を展開し、気配を探った。
そしてその巨大すぎる力の大きさに驚きながら背後に立つアメリアに振り返った。
「雑居ビルの屋上です!あそこに干渉空間の中心があります!」
誠はその巨大な敵の存在をアメリアに即座に報告する。
「よしよし。敵の能力が分からないときは感覚通信を控える……よく覚えてるな。鍛えた甲斐があるってもんだ!」
ランは感心したように言うと、店から出てきたアメリアに手をかざし制止のジェスチャーを示した。
「クラウゼはベルガー連れて避難誘導。西園寺、お前は現状把握までこの場で待機。勝手に撃つな、いいか?これは敵意と断定できる段階じゃない。材料が足りないうちはトリガーを引くな!」
ランはそう指示を飛ばしながら、驚いた軽トラックの前をすり抜けて駆け出した。
誠も銃を手にする。先日、嵯峨から受け取ったモーゼル・モデル・パラベラムに初弾を装填し、ランの後を追う。
「神前、今回はなかなか的確じゃねーか。もう少し早く『テリトリー』を出してりゃもっと楽だったがな!」
ランは皮肉っぽく笑うと、非常階段の踊り場で扉を開けた。誠が反射的に銃を構えると、雀荘から出てきた大学生風の若者が声を上げる。
「違う!そいつじゃねえ、敵は屋上にいる!」
ランはすぐに銃口を下げると若者を退避させ、誠を叱責する。
「不用意に人に銃を向けるな!戦場じゃ常に銃口は下向けて動く!お前は西園寺か!? 東和宇宙軍はそんな基礎も教えねえのか!それともお前がサボってただけか、バカ!」
罵声を浴びせると、ランは風のように非常階段を駆け上った。空間が歪んで見えるほどのスピード……『身体強化』法術の本領発揮だ。誠も必死に追いつこうとする。
「どうだ?相手は動いてるか?その点の再確認。戦場じゃ当たり前の常識だぞ」
余裕をかましてランはそう言うと階段を今度は三階まで一気に駆け上った。ようやく追いついた誠は息を切らせながら神経を先ほどの法術師のいた場所へと向けた。
「感覚的にはそういう感じはしないですね。しかし、この空間制御力は……やはりクバルカ中佐が言うように、相当な使い手ですよ。以前僕が襲われた法術師とは桁が違う。凄い人です……こんな人が市街地で暴れたら……本当に何人人死にが出るか分かりませんよ」
そう言いながらランの後ろにぴったりとついて誠も階段を上る。ランも超一流の法術師であることは初対面の時にわかっていた。しかし、ランは今回は一切力を使うそぶりも見せない。
法術師同士の戦いでは力を先に使った者が圧倒的に不利になる。初動の法術は往々にして制御能力ギリギリの臨界点で発動してしまうことが多いため、最初の展開で術者の能力は把握されてしまうのが大半のケースだと司法局の研究者から聞いた言葉が頭をよぎった。
司法局実働部隊に間借りしている法術特捜の主席捜査官、嵯峨茜警部を交えた法術訓練の成果がランの行動の意味を誠に教えていた。
「このまま一気に屋上のお客さんのところまで行くぞ!急げ!状況は常に動いてるんだ!臨機応変に状況に合わせて対応する!これも常にアタシが訓練の時に言ってるセリフだぞ!何度同じことを言わせれば気が済むんだ!もう少し勉強してくれ!」
ランが切削空間を発動し、二人は転移で屋上へ到達する。
屋上には、もう敵の姿はなかった。
そこにいたのは、『特殊な部隊』と同じ水色の制服をまとった金髪の女性。手にサーベルを持ち、手すりをなぞるようにしていた。
「到着が遅すぎましたわね。容疑者はすでに転移して逃走済みです。……つまり、手遅れですのよ」
穏やかにそう告げたのは、法術特捜・主席捜査官、嵯峨茜警部だった。ランと誠を見て、どこか疲れたような笑みを浮かべている。
「逃げたっていうより……気まぐれで立ち去ったってとこか?あんな力を持ってりゃ、別に逃げる必要なんかねぇしな」
ランは拳銃をポーチにしまいながら言う。
「あれだけの干渉力……神前だけじゃねぇ。アタシにも分かったよ。名前も知られてないってのが信じられねぇ」
「ふふ……クバルカ中佐のおっしゃる通り……本当に『名のない』人物であればいいですわね……」
茜はそう言って、静かに視線を屋上の外に向けた。
『アメリアさん、状況は収束しました。相手は転移して逃げたようです』
誠は耳の通信機を通じて連絡する。
『助かったわ。あの店、壊されたら困るもの。折角の思い出が一つ消えるのは悲しい事だから』
アメリアの冗談とも本気ともつかぬ声がひびいた。
『まったく、つまんねーなあ!暴れてくれりゃ銃撃戦できたのによ。久々にやりたかったのに』
割り込んできたかなめの発言に、誠は苦笑するしかなかった。
『冗談抜きで、今回は例の北川とか言う『革命家』とは格が違いますよ。クバルカ中佐でも危ういかもしれません。銃じゃどうにもなりませんよ』
茜は通信を終えた誠に声をかける。
「初動捜査、きちんとできているようで安心しました。『特殊な部隊』の皆さんも、最低限の手順は理解されているようですわね」
茜はそう言うと、誠がさきほど敵の気配を感じた場所へと近づき、床にしゃがみ込んだ。
彼女の眉間が僅かに動く。それを見て誠は……『ただ逃げられた』では済まされない何かがそこにあることを悟った。




