第27話 友情と裏切りの境界線
「失礼いたします」
木陰から静かに声がした。振り返ると、詰襟の制服に赤い腕章を巻いた小柄な中年男が立っていた。
左腕の文字は『憲兵』。その鋭い視線に、嵯峨は手を合わせるのをやめ、ゆっくりと顔を上げた。
かえではその姿を見て、すぐにその男の正体を思い出しかけていた。その横で嵯峨は、合わせていた手をゆっくりと下ろし、黙って男を見つめ返した。
甲武陸軍の大佐、高倉貞文……。名将・醍醐文隆の腹心であり、遼帝国の脱走兵鎮圧における苛烈な処置と冷徹な作戦運用で知られる人物だった。
現在は陸海と治安局の憲兵組織を再統合した新設部隊、「甲武国家憲兵隊」の隊長を務めている。
その高倉を前にしても、嵯峨惟基は表情を変えなかった。帯に手を伸ばし、慣れた手つきで禁煙パイプを取り出してくわえる。
「やあ、高倉さん。ずいぶん久しぶりじゃないですか」
嵯峨は口元に笑みを浮かべたまま、軽く禁煙パイポをくわえる。
高倉は目を細め、無表情のまま軽く頷いた。嵯峨に対する心得た反応だった。
同業者、そして醍醐家の主君と被官ということからか、いつもの間の抜けた表情で嵯峨は話を切り出した。
「醍醐のとっつぁんは元気してますか?しばらく会ってないなあ、そう言えば。とっつぁんも良い年だ。もうそろそろ隠居を考えた方が良いんじゃないかと俺が言ってたと伝えといてくれませんかね?」
そんな嵯峨の態度に表情を変えないように努めて高倉は嵯峨を見つめていた。叔父の姿はまるで変わらないというのに高倉の怯んだ様子はかえでの目にも明らかに見えた。
高倉は嵯峨の変わらない表情に安心したように一息入れると話を切り出した。
「ええ、閣下はアステロイドベルトの軍縮条約の実務官の選定のことで惟基卿のご意見を伺いたいと申しておられました。それに閣下はまだまだご壮健です。引退はだいぶ先の事になるでしょう」
明らかに嵯峨が高倉と言う男を歓迎していないことはその禁煙パイプを持つ手が何度も震えているところから見てかえでは察することが出来た。
「ご意見なんてできる立場じゃないですよ、俺は。それに今度の殿上会で末代公爵から一代公爵になるわけですから。〇〇卿なんて言葉も聞かなくてすむ立場になるんでね……まあ住み慣れた東和ではそんなこと言われることもねえから気楽なもんですよ。貴方もどうですか?こんな国を捨てて東和で暮らすってのは。あの国は平和で良い。差別も格差も少ない。人間が優しい。良いことずくめだ」
そう言って笑う嵯峨を高倉は理解できなかった。甲武の貴族社会により固定化されたことで生まれた血と縁故で腐っていく時の流れを阻止する。主家である醍醐、嵯峨の両家が支持する西園寺義基のその政策に高倉も賛同していた。だが多くの殿上貴族達の間では、今、甲武国四大公家末席の位まで平気で投げ捨ててみせる目の前の男の本心がいまだ読めないと疑心暗鬼になる者が出ていることも事実だった。
「高倉さんは俺みたいなドロップアウト組と世間話する時間も惜しいでしょう。話はとっとと切り上げましょうや」
嵯峨はそう言うと禁煙パイプを帯にしまって今度は帯からタバコを取り出した。安っぽいライターで火をつけると、今度は携帯灰皿を取り出す。
「俺みたいな落ちぶれ者にわざわざ会いに来る理由なんて、大体わかる」
嵯峨は煙を吐き出しながら、指を一本ずつ折っていく。
「バルキスタン共和国。アメリカ陸軍特殊作戦集団。そして、甲武国家憲兵隊・外地作戦局……違いますか?」
そう言うと嵯峨は空に向けてタバコの息を吐いた。高倉は明らかにこれまでの好意的な目つきから射抜くようなそれになって嵯峨を見つめていた。嵯峨の指摘した3つの名前。どれも高倉が嵯峨から情報を得ようと思っていた組織の名称だった。
「それと高倉さんは近藤資金についても知りたいみたいですねえ。また甲武でもずいぶんとあっちこっちで近藤さんの遺産が話題になってるらしいじゃないですか。最終的には俺等が暴れた尻拭いを押し付けちゃって俺も本当に心苦しいんですよ。俺は仕事を始めるのは得意だが片付けるのは苦手でね」
明らかにこれは口だけの話、嵯峨の本心が別にあることは隣で二人のやり取りを呆然と見ているだけのかえでと渡辺にもすぐにわかった。
一言、言葉を間違えれば斬り殺されるのではないかと思い詰めているように高倉は冷汗を流しながら嵯峨を見つめていた。その前で嵯峨は相変わらずののんびりとした調子で伸びをして墓石を一瞥した。
「すべてはお見通しですか。さすがです、閣下」
高倉は自分の考えていることをすべて当てられて、改めて嵯峨と言う男の恐ろしさに気付いた。
「甲武の軍はメール通じるでしょ。後で、隊で留守番している副部隊長に俺の知ってる資料は送らせますから。それを醍醐のとっつぁんに渡せば一件落着。俺の出る幕なんてどこにもありませんよ」
その言葉の裏の意味が高倉にここから去れと嵯峨は言っているのだとかえでは判断した。
メールで詳細を送ると聞いても高倉はその場を動こうとはしなかった。嵯峨は呆れたように口を開いた。
「あんたもしつこい人だな。じゃあ、俺の本音を言いましょう。バルキスタンのエミール・カント将軍……そろそろ退場してもらいたいものだとは思うんですけどね……どう思います?」
嵯峨の言葉に先手を取られたというように驚いた顔をした後、高倉は静かにうなずく。だが嵯峨は言葉を発しようとする高倉をを制して言葉を続けた。
「俺の独自ルートで接触しているアメリカの連中も言ってましたよ。『根っこを断てなきゃ腐敗は止まらない』って」
嵯峨は煙草をくゆらせたまま、淡々と続ける。
「難民に紛れて流れている兵器、ドラッグ、レアメタル……バルキスタンが吹き溜まりになれば、遼州も無事じゃ済まない。あなたも、それは分かってるでしょ?」
そこまで言ったところで嵯峨は大きくタバコの煙を吸い込んだ。高倉は嵯峨に反論するタイミングをうかがっていた。
「だけどね、これはあくまで遼州圏自身のの問題ですよ。そんな場所に甲武の貴重な兵隊さんの案内までつけてアメリカさんの兵隊をほいほい引き込む必要は無いんじゃないですか?醍醐のとっつぁんともあろうお方が昔あれほど憎んでいたアメリカさんと手を組む。俺にはそっちのほうがよっぽど理解不能ですよ」
嵯峨はゆっくりと味わうようにタバコをくわえる。その目に光が差し、高倉を威圧するようににらみつけた。
「確かに俺の手元にある資料だけで彼を拉致してアメリカの国内法で裁けば数百年の懲役が下るのは間違いないですし、うまくいけばいくつかの流通ルートの解明やベルルカンの失敗国家の暗部を日に当てて近藤資金の全容を解明するにもいいことかも知れないんですが……」
黙り込む高倉に助け舟を出すように嵯峨はそう付け足した。高倉の表情が一縷の望みを見つけたというように明るくなる。
「それなら……我が軍とアメリカ海軍との合同作戦について……」
高倉は希望を込めた言葉を切り出そうとした。しかし、嵯峨の眼はいつものうつろなものではなく、鉛のような鈍い光を放っていた。そしてその瞳に縛られるようにして高倉は言葉を飲み込んだ。
「遼州の闇は、遼州の手で照らすべきだ。……外に委ねちゃ、意味がない」
嵯峨の声に、いつになく重みがあった。
「俺は根っからの事なかれ主義者でできるだけあのパンドラの箱は開かずに済ませたいところですがねえ。世の中が……あなた方はそれを許してくれないらしい。どうやらここは『特殊な部隊』の出番になりそうだ」
そう言うと嵯峨はそのまま墓を後にしようと振り返った。
「つまり遼州同盟司法局は米軍と我々の共同作戦の妨害を行うと?」
高倉の言葉に嵯峨は静かに振り返った。
「それを決定するのは俺じゃないですよ。司法局の首脳部の判断だ。ただひとつだけ言えることはこの甲武軍の動きについて、遼州同盟機構とその下部組織である司法局は強い危機感を持っているということだけですよ。特に地球圏の中でも遼州圏の利権にこだわってるアメリカ軍を引き込んだのはいただけない。俺にはそれ以上は言えませんよ。俺は策士で売ってるんで、策をばらして自爆するほど間抜けじゃ無いんでね」
そう言うと嵯峨は手を振って墓の前に立ち尽くす高倉を置き去りにして歩き出した。高倉を気にしながらかえでとリンは嵯峨についていった。そして高倉の姿が見えなくなったところでかえでは嵯峨のそばに寄り添った。
「叔父上、いいんですか?現状なら醍醐殿に話を通して国家憲兵隊の動きを封じることもできると思うのですが?」
かえでも高倉がアメリカ軍の強襲部隊と折衝をしている噂を耳にしないわけではなかった。アメリカ軍や甲武軍特殊部隊によるバルキスタン共和国の独裁官エミール・カントの拉致・暗殺作戦がすでに数度にわたり失敗に終わっていることは彼女も承知していた。低い声で耳元でつぶやくかえでに嵯峨は一瞬だけ笑みを浮かべるとそのまま無言で歩き始めた。待っていた正装の墓地の職員に空の桶を職員に渡すとそのまま嵯峨はかえでの車に急いだ。次第に空の赤色が夕闇の藍色に混じって紫色に輝いて世界を覆った。
そんな二人を見てリンは急いで車に向かった。リンが後部座席のドアを開けると嵯峨は静かに乗り込んだ。そして運転席に乗り込み発進しようとするリンを制して助手席のかえでの肩に手を乗せた。
「正直、この国の国家憲兵隊は権限が大きくなりすぎた。本来、国内の軍部の監視役の憲兵が海外の犯罪に口を挟むってのは筋違いなんだよ。だから高倉さんには悪いがここで取り返しのつかない大失態を犯してもらわないと困るんだ。当然、相方のアメリカ軍にも痛い目を見てもらう。それは遼州司法局上層部の意志であり、俺個人の意思でもある」
突然の言葉にかえでは振り返って嵯峨の顔を覗き込んだ。そのまま後部座席に体を投げた嵯峨はのんびりと目を閉じて黙り込んでしまった。
「車、出しますね」
そうリンが言ったところでかえでの携帯端末に着信が入った。
「あ、叔父上。屋敷に赤松中将がお見えになったそうです」
短いメールを見てかえでがそう叔父に知らせるが、嵯峨は眠ったように目をつぶって黙り込んでいた。
「忠さんか……今度は友情を盾に使った泣き落とし……ってわけだな。醍醐のとっつぁんも罪な策を練るのが好きで困るよ」
嵯峨は目を閉じたまま、口元にだけ皮肉な笑みを浮かべた。
「多少は情で動いてやれば人も俺を分かってくれるのは知っているが、俺にはそれが出来ないんだ。やっぱり……俺は『駄目人間』だな……」
開け放たれた車の窓から入った風が車内に舞った。ひんやりとした初秋の空気が、三人の間をそっと撫でて通りすぎていった。




