第26話 忘れえぬ女、眠る地にて
いつになく真顔の嵯峨が、窓越しに金色の空を見上げながらぽつりと口を開いた。
「……いつもの場所に行きたい。あいつがあの世でどう思ってるかは分からないが、生きている俺にとっては、忘れようにも忘れられない恩があるからな。どうせ運転するのはいつもの渡辺だろ?アイツもいつも通りのコースの方が運転しやすいんじゃないかな?まあ、あいつの運転に間違いはないのは知ってるけど俺なりの気遣いって奴で」
『いつもの場所』。そんな言葉を嵯峨が言うと、かえではしんみりとした表情を浮かべながら、一階に到着して開いたドアの間をくぐり抜けた。
「かえで様!」
決して大声ではなく、それでいて通る声の女性士官が手を振っていた。こちらはかえでのようにスラックスではなくスカートである。銀髪の切り揃えられたうなじに、童顔ながら整ったプロポーション。見る者の視線を引き寄せる美しさだった。
彼女、渡辺リン大尉は軽く手を上げて挨拶する着流し姿の嵯峨に敬礼をした。
「世話になるな、いつも。かえでのお守りは大変だよね。こいつ、色々と面倒ごとを起こすから。特に女関係で。それを全部一人で背負ってるんだ。俺の所にも聞こえて来るよ。コイツの悪行。それを家宰として一人で裁く。そりゃあ出来た副官を持ってかえでも幸せだ。いつも通りの場所にやってくれ。あそこは今の時期は車の通りは少ないはずだ。気軽なドライブとしゃれこもうや」
そう言って駐車場に出た嵯峨は甲武の硫酸の雨の降り注ぐ金色の空を見上げた。甲武の首都、鏡都のある遼州星系第二惑星は硫酸の空の下にコロニーを作りその下で人々が生活している星である。硫酸とそれを防ぐ空を覆う防壁のせいでいつも空は黄色味を帯びて輝いていた。
駐車場にとめられた車、かえでの私有の四輪駆動車がたたずんでいた。いつもその運転手はかえでの部下であり、荘園領主としての日野侯爵家の執政でもある渡辺リンが担当していた。
「いつもすまないねえ。たまには気の利いた場所をお願いしたいんだが、とりあえず元夫としては、この国に来たらいつも同じ場所に行かなきゃならないらしい。別にあの『悪女』にいつまでも義理立てする必要はないと思うが……俺たちが夫婦だったことは、事実だ。それだけは、どう足掻いても消せない」
そう言って嵯峨は後部座席に乗り込む。運転席でリンが苦笑いをする。
「それが自分の職分……ですので。それにいつも同じ道を通るのですから。安心して運転できます」
リンは嵯峨の部下のアメリア・クラウゼ少佐達と同じ人造人間、第四惑星からアステロイドベルトを領有するゲルパルト第四帝国の『ラスト・バタリオン』計画の産物だった。その中でも彼女はゲルパルト第四帝国敗戦後、地球と遼州有志の連合軍の製造プラント確保時には育成ポッドで製造途中の存在であり、ナンバーで呼ばれる世代だった。
彼女は密輸業者によって甲武に売られ、非合法の遊郭に売られ、地獄のような日々を送っていたリンを救ったのは、かえでだった。その従順に仕立て上げられた性質からかえでは彼女を自分の副官に推挙した。
他の有力荘園領主家と同じように日野家の被官達にも先の大戦で断絶する家が多く、当時跡取りを求めていた渡辺家の養女として渡辺リンは人間の生き方を学び、医大では婦人科や性医学を中心に学んでいた。
いつも彼女を見守っているのは恩義のあるかえでである。リンがかえでに惹かれた当然かもしれない。嵯峨は苦笑いで時々助手席と運転席で視線を交わす彼等を見守っていた。
元は敗戦国ゲルパルト第四帝国で造られた戦闘用人造人間だったリン。かえでに救われて副官となるまで、決して明るい道を歩んできたわけではない。だからこそ彼女のハンドル捌きには、言葉にできないほどの忠誠が宿っているように嵯峨には思えた。
「まあいいか。それより加茂川墓苑に頼む。俺は不死人だからあそこに眠ることは無いが……あんな気取った墓地は俺には似合わないね。俺は庶民のごみごみした墓が似合いだ。いっそ女郎たちが眠る無縁墓地の方がいいや。そっちの方があの世で良い思いが出来そうだ」
その言葉にかえでは少し緊張した面持ちとなった。そんなかえでをハンドルを握りながらバックミラー越しにリンは見つめていた。
「お墓参りですから。嵯峨公のお望みはかえで様の望み。そしてその望みは私の望みです」
リンが静かに言った。そう言って視線を外したリンの横顔に、ほんの少しだけ紅が差していた。
「叔父上、やはり後添えを迎えるつもりは無いのですか?そう言えば同盟司法局の……機動隊の安城少佐とかは……」
かえでにも嵯峨の『特殊な部隊』での『駄目人間』ぶりは聞こえてきていた。それにもう妻のエリーゼが死んでから二十五年の月日が流れている。『不死人』であり、永遠に見た目が変わらない嵯峨がいつまでも独身であると言うことはかえでにとっては理解しがたい事であった。
「野暮なこと言うもんじゃないよ。秀美さんには俺はいつも粉をかけても袖にされてばかりでね。それに順番から行けば相手を見つけるのは茜だろ?まったく。あいつも仕事が楽しいのは分かったけどねえ。アイツは自分のお袋とはそこんとこまるで似て無いんだ。エリーゼは俺と付き合ってる時も何又かけてたか分からないし、死んだときも間男がいたって夫の俺でも知ってるよ。それなのに……彼氏の1つも作りやがらない。まあ、茜も遼州の血が流れてるからモテないのかな?」
嵯峨はそう言うと禁煙パイプを口にくわえる。そして話題を自分にとって都合の悪い娘の話からずらそうと考えて話を切り出した。
「それと、法律上はお前等二人が結婚してもかまわないんだぜ。甲武には女同士なら家名存続のためにお互いの遺伝子を共有して跡取りを作ることが許されるって法律もあるんだからな……ってお前さんは『マリア・テレジア計画』とやらでたくさんのクローンを上流貴族の跡取りとして若妻に孕ませたらしいじゃないの。俺も知ってるよそのことは。どうせ康子姉さんの入れ知恵に決まってるんだ……ああ、余計西園寺家の敷居は跨ぎにくくなった」
ハンドルを握りながら渡辺がうつむく。かえではちらりと彼女の朱に染まった頬を見て微笑んだ。
「しかし、あれだなあ。遼南や東和に長くいると、どうもこの国が窮屈でたまらないよ。俺の『駄目人間』扱いされて見下されるのは慣れているが、『悪内府』殿と尊敬を込めて言われるとどうも体が痒くなって……ああ、大丈夫。俺の部屋には風呂は無いけどシャワーは有って毎日浴びてるから体が汚れてて痒いわけじゃ無いから。時々料金未納で電気が停められることが有るけど最近はそんなこともない」
道の両脇に並ぶ屋敷はふんだんに遼州から取り寄せた木をふんだんに使った古風な塗り壁で囲まれている。立体交差では見渡す限りの低い町並み、嵯峨はそれをぼんやりと眺めていた。
「それでも僕はこの町並みが好きなんですが……守るべきふるさとですから」
そう言うかえではただ正面を見つめていた。そんな彼女に嵯峨は皮肉めいた笑みを浮かべる。車の両脇の塗り壁が消え、いつの間にか木々に覆われていた。すれ違う車も少なくなり、かなめは車のスピードを上げる。
「しかし、電気駆動の自動車もたまにはいいもんだな……まずは静かでいい。うちの整備班長の島田は車はガソリン車に限るって言うが時と場合によるんだよな。こんなコロニーの中でガソリン車なんか運転したら排ガスであっという間に死人が出るぞ」
そう言いながらタバコをふかしているように嵯峨は右手で禁煙パイプをもてあそぶ。なにも言わずにそんな彼を一瞥するとかえでは車の窓を開けた。かすかに線香の香りがする。車のスピードが落ち、高級車のならぶ墓所の車止めでブレーキがかかった。
静かに近づいてくる黒い背広の職員。加茂川墓所は甲武貴族でも公爵、侯爵、伯爵と言った殿上貴族のための墓地であった。多くの貴族達は領邦の菩提寺や神社とこの鏡都の加茂川墓所に墓を作るのが一般的だった。嵯峨家もまた例外ではなかった。
「公、お待ちしておりました」
職員の言葉にかえでは叔父の手際のよさに感心した。
「例の奴は?」
「お待ちになられています」
「ああ、そう」
かえでは嵯峨と職員とのやり取りでこの地での嵯峨への来訪者があることを察した。時に大胆に、それでいて用心深い。数多くの矛盾した特性を持つ叔父を理解することができるようになったのは、彼女も佐官に昇進してからのことだった。
おそらく嵯峨にとって面倒な相手らしく、嵯峨はむっつりと黙り込んだままだった。事前に連絡をしておいたのだろう、待っていた管理職員から花と水の入った桶を受け取って嵯峨は歩き出した。
秋の気候に近く設定された気温が心地よく感じられて、嵯峨は気分良く葬列をやり過ごすと先頭に立って歩いた。かえでとリンはそんな嵯峨の後ろを静かについて行った。嵯峨家の被官の名族、醍醐侯爵家と佐賀伯爵家の墓を抜け、ひときわ大きな嵯峨公爵家の墓標の前に嵯峨は立っていた。そしてその後ろにひっそりとたたずむ小さな十字架に嵯峨、かえで、リンは頭を垂れた。
そこに眠るのはエリーゼ・シュトルベルグ・嵯峨。嵯峨惟基の妻であり、嵯峨茜の母にあたる。『社交界の華』と呼ばれたその美貌はかえでも何度か写真で見たことがあった。目の前の冴えない叔父とは桁が違う美女であるエリーゼを思うと二人の短い夫婦の暮らしがどんなものだったかかえでには想像もつかなかった。
「おい、久しぶりだな」
中腰になって、さびしげに笑いながら花を手向ける。
かえでは、花の様子を気にしながら墓標に水をかけ続ける嵯峨の背を見つめていた。あれが『人斬り新三』と恐れられた背中だとは、信じがたい。
けれども……かえでの目には同時に、それ以外の姿も、想像できなかった。嵯峨はそんなかえでの畏怖の視線を気にすることなく石の十字架をたわしで磨き上げ、静かに息をついた。
「また死にかけたよ。けど……まだ、そっちには行けそうにない」
墓石を見つめながら、嵯峨は続けた。
「まあ、俺はお前さんに捨てられた身だから、会いたく無いって言うならそれもそれでありかな。いや、お前さんの事だ、あの世でもう他に何人も男を作って俺の事なんて忘れちまってるかもな……俺も忘れたいが、記憶力が良いのは若いころには自慢だった。だが、この年になると因果なものだな」
そういいながら墓標のすべてを水が覆い尽くすまで柄杓を使う。かえでは何度同じ光景を見ただろうかと思いをめぐらした。
第二次遼州大戦で開戦に反対の立場を取った西園寺家は軍部や貴族主義者のテロの標的とされた。
祖父・西園寺重基は、毒舌と理想主義で知られる政治家だった。
平和を説くその言葉は、戦争を求める時代の中で何度も命を狙われた。
そして……その矢面に、エリーゼは立ってしまった。
そんな西園寺重基を狙ったテロに巻き込まれてエリーゼはわずか26歳で短い幾多の恋に生きた生涯を閉じた。
墓前で静かに立ち尽くす嵯峨の背を見つめながら、かえでは知らず、目頭を熱くしていた。
いつもの無様な叔父の背中が、今は……やけに遠く、大きく見えた。




