第1話 『特殊な部隊』、涙のリーグ後期開幕戦
振り下ろした左腕からボールが離れた、その瞬間だった。
『やってしまった』と、神前誠は直感した。
遼州司法局実働部隊……通称『特殊な部隊』の野球部のエース左腕である誠は、自分が投げた球が思ったほど曲がらず、しかも球速も落ちていたことにすぐ気づいた。
それは『置きにいった』スライダー。甘く入ったそれを、相手の四番が待っているはずだった。
誠はこの回、サードを守るアメリアの悪送球から始まったワンアウト一、三塁のピンチを迎えていた。カウントはスリーボールワンストライク。投げる誠には不利なカウントだった。特に、前の大きく曲がるカーブをキャッチャーのパスボールを恐れて高めに外したのが意味が無かったとサインを自ら出した誠は思っていた。
逆転のチャンスとばかり打ちにかかる千要大学野球リーグの一部リーグでも四番を打っているという好打者相手にインハイに相手をのけぞらせるために投げたボールは、肩口から甘くストライクゾーンの真ん中に入った。勘が当たったとでも言うように待っていた誠の緩い変化球を相手の四番打者は腕をたたんで鋭く振りぬいた。
打球は鋭く三塁線を襲った。
守るアメリア・クラウゼ中佐がジャンプしてグラブを伸ばす。だが、わずかに届かない。
白球はそのままレフト線を転々と転がり、観客席からどよめきが上がる。
三塁塁審はフェアーのコールをした。打球はそのままの勢いで外野グラウンドを転がっていくのがマウンドの上で呆然とそれを見守る誠からも見えた。
打球が抜けるのを確認してからゆっくりとスタートを切った三塁ランナーがホームを踏んだ。その間にも外野を守ることに慣れていない『特殊な部隊』の整備班員の補欠のレフトがクッションボールの処理を誤った上にボールを見失い戸惑っているのが見えた。
時間だけが過ぎる。補欠のレフトがアメリアにボールを投げ返す頃には、一塁ランナーも余裕をもってホームを駆け抜けていた。
回はリーグの規定で決まっている最終回7回。得点はこれで4対5に逆転された。マウンドに立つ誠には歓声が聞こえない。逆転を許した瞬間、世界が無音になったようだった……ただ、自分の心臓の音だけが妙に大きく響いた。
裏の攻撃が残っているとはいえ、セカンドを守るチームのお荷物であるサラ・グリファン中尉に回る下位打線に反撃を期待することはできなかった。しかも相手は四人も大学に野球推薦で入った精鋭の控えのピッチャーを残していると言う必勝の布陣を引いていた。
誠は自分でサインを出しておきながら、絶対に投げてはいけないコースに緩い変化球を投げ込んだ自分を責めたが、もはやどうすることもできなかった。
高校三年の夏の大会で肩と心が壊れて硬式野球が二度と出来なくなるほど投げて以来の六年ぶりの投球は、誠にとってきわめてほろ苦い味がするものだった。
九月。『特殊な部隊』の野球部は、後期リーグ開幕戦を迎えた。
初戦の相手は、草野球リーグ『千要中部リーグ』で長年二位を続けてきた実力派チーム……『千要マート』。
相手チーム『千要マート』について簡単に触れておこう。千要マートは『特殊な部隊』の本部のある『菱川重工豊川工場』の企業城下町、豊川市近郊に五店舗を構える中堅スーパーマーケットチェーンだった。そこでは多くの大学生アルバイト、特に体育学部のある『印天堂大学』の学生が働いていた。
監督を務める野球好きの千要マートのオーナー社長は、破格の待遇で印天堂大学の野球部の学生をアルバイトとして雇い、都市対抗野球の全国大会出場経験のある野球部OBで構成された常勝のリーグの覇者『菱川重工豊川』打倒を掲げてこの千要中部リーグという草野球リーグに参加していた。
しかし、都市対抗野球の全国大会優勝も二度ほど経験しているOBなどで構成された菱川重工豊川の壁は厚く、万年二位と言うのが10チームが参加するこの千要リーグでの戦績だった。そんな強豪を自称する相手チームの監督としても、加入二年目の新参者で格下の『特殊な部隊』相手に後れを取るわけにはいかなかった。
機動人型兵器シュツルム・パンツァーのパイロットで構成された司法局実働部隊機動部隊第一小隊二番機担当の西園寺かなめ大尉が監督を務める『特殊な部隊』の参加初年度の成績は10チーム中6位だった。女子選手三人がレギュラーに居る変わったチームとしてはまずまずの成績というのがリーグ内での『特殊な部隊』の評価だった。
『特殊な部隊』のエースになったばかりで、本格的に試合で投げるのは高校の夏以来六年ぶりの誠にとって、現役の大学生、しかも野球推薦で入ってきたような野球エリートで構成された打線はさすがに手に余った。
その鋭いスイングを恐れてきわどいコースに投げ込もうとするあまり、どうしてもファーボールの数が増えた。当然、球数も増えて高校の夏の大会で肩を壊したことのある誠にとっては、たとえ軟式とは言えども肩に違和感を感じるようになってきていた。
初回は幸先良くセンターを守る好打者で整備班班長島田正人准尉の今季四本目の先頭打者ホームランで先制したものの、急造キャッチャー大野相手に伝家の宝刀『フォーク』を使えない誠にとって、野球推薦で大学に入ってくるような野球エリートの大学生の打者を相手にするのは無理があった。
そのスイングの鋭さを恐れるがあまりファーボールでランナーを貯め、味方のエラーにより失点を繰り返す。その度に先頭バッターの島田や三番に座る誠と四番のアメリア、五番に座るキャッチャーとしては使い物にならないが打つのだけは得意な大野の重量クリーンナップで追いつく取って取られてのシーソーゲームがこの最終回まで続いた。
『あそこはフォークを投げたかったな……でも大野先輩は絶対に後逸するからな。投げられない。投げたいけど投げられないんだ』
中途半端にストライクを取りにフォークではなくストレートを流し打たれた時は誠は思わずそう思って急造キャッチャーの中では一番マシと言うことでかなめが今日スタメンに選んだ大野をにらんで逆ににらみ返された。
『かといって大きいスライダーも大野先輩は僕の変化について行けなくてこぼすからな。仕方がない』
そう思いながら投げたカーブが浮いて押し出しのファーボールを選ばれて5回には逆転された。
『投げるたびに肩に鈍い痛みが走る。まだ大丈夫だ、と思いたいが、それは高校の時もそうだった……この試合、まともなキャッチャーが居ないうちのチームではフォークが封じられてる……これじゃ、腕を縛られて投げるようなもんだ』
『特殊な部隊』の野球部の特殊事情としては、固定されたキャッチャーが居なかった。キャッチングでもスローイングでもサードを守っている運用艦『ふさ』の艦長であるアメリア・クラウゼ中佐が一番上手く、誠もアメリアが相手ならば自慢のフォークを投げられるのだが、アメリアは頑として『四番・サード』以外のポジションでの試合参加を拒んでいた。
アメリアに言わせると『スターは四番でサード』だからと言うのがその良く分からないアメリア流の理由で、キャッチャーなどと言う頭を使うポジションをするぐらいなら試合に出ないとわがままを言った。
監督の西園寺かなめ大尉としても、サードなら守備もスローイングも問題なく、何より典型的な中距離ヒッターとして打点を稼ぐアメリアのわがままを聞いてやる他に道は無かった。したがって今日も急造キャッチャーの中では一番マシな整備班員の大野がキャッチャーを務めていた。
肩の違和感に投球の限界を感じた誠がベンチを見ると、そこではかなめが手を上げて主審を呼んでいるのが見えた。ピッチャー交代を告げるかなめを見て、誠はただ自分のふがいなさに苦笑いを浮かべるしかなかった。
ショートを守っていたエメラルドグリーンのポニーテールの女性、誠の所属する機動部隊第一小隊小隊長、カウラ・ベルガー大尉がすぐに呼び出されてマウンドに向かった。
誠はそのまま歩み寄ってきたキャッチャーの先輩の大野からボールを渡された。
「……すまん、神前。あのフォーク、投げたかったんだろ?顔に出てたぜ。今日も何度も足引っ張っちまった。本当に悪かった」
パスボールで二塁ランナーを三塁に進めてピンチを広げた大野はそう言って、すでに限界に達している誠の左肩を叩いた。
「大野っちのせいじゃないよ。私も3回もエラーしたしエラーは野球につきものだもの。でも、誠ちゃん。久しぶりの投球としては良く投げたと思うよ。頑張った、偉い、偉い」
セカンドの運用艦『ふさ』の管制官のサラ・グリファン中尉が苦笑いを浮かべながら首を振った。
「それに公式戦初登場で千要マートの強力打線相手に5失点で行ければ御の字よ。だって連中のクリーンナップは野球で大学入ったんでしょ?それってほとんどプロに近いってことよね。神前君の肩が壊れて無ければいい勝負できたでしょうけど……一応、あちらさんの方がチーム力全体が格上だし……まあ、この回のピンチは確かにアメリアの悪送球がきっかけで始まったピンチだけどね……」
サラは時々スーパープレーを見せるもののなんでもないゴロを格好をつけてファーストを見ずに雑に悪送球したアメリアに全責任を押し付けた。
「何よ!これは全部私のせい?あれくらいの球を取れないファーストのパーラが悪いんじゃないの……タイミング的には取ればアウトよ!パーラったらたまに試合に出てみればいつもこんな感じ。3回だってあそこは外野に打球が飛べば一点って時にキャッチャーフライを打ち上げて……。前の回にも送りバントを失敗してる。本当にパーラにはツキが無いのね。それより、今日のご苦労さん会では大野君は日本酒一気決定ね。あれだけパスボールをすればそれくらいの罰は与えられて当然よ」
自分の雑なプレーの言い訳の生贄としてこの『特殊な部隊』唯一の常識人であるパーラ・ラビロフ大尉をアメリアは選んだ。
「もう何とでも言って……こんな風にアメリアのいたずらの尻拭いされるのはいつもの事だから。もう疲れたわ。全部私が悪いことになれば神前君は救われるんでしょ?生贄にくらい、なってあげるわ」
ほとんど八つ当たりに近いアメリアの言葉にパーラはいつものように諦めた表情を浮かべていた。
サラ、アメリア、パーラの内野の三人の言い争いに誠は呆れながらマウンドを後にした。
「神前。お前はよくやった。あとは任せろ」
マウンドに登ったカウラはそう言うと誠からボールを受け取った。
投球練習を始めたカウラを背に、誠は力なく豊川市営球場・第二グラウンドの仮設のダグアウトに向かった。ダグアウトの上で試合の応援に来ていた管理部のパートのおばちゃんの子供達も応援の声を発するのをやめて、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。
「誠お兄ちゃん頑張ったね!」
「次は勝てるよね!」
少年達の声が誠の高校時代のトラウマを思い出させて心の傷に染みるのを感じながら誠は彼等に笑顔で手を振った。
「高校時代も坂東一高が相手だとみんなが知ってたあの試合だけ全校応援だったよな……僕って応援されると駄目なのかな……でも今回は大野先輩を殴らなかった。まあ、大野先輩だったら僕が殴ったら十倍にして返して来るから怖くて殴れないけど」
自分でも照れ屋の自覚のある誠はそう言いながらグラウンドを歩いてダグアウトに向かった。
ダグアウト前ではかなめが難しい表情をして待っていた。誠は自分の配球の間違いを指摘されるかと思いびくびくしていたが、意外にもかなめは穏やかな表情で誠を迎え入れた。
「まあ、あれだ。オメエは限界だった。これはツキがないことで知られるパーラをファーストに使ったアタシの采配のミスだ。アイツも今日こそはツキが回ってくるかと思ったんだが……気のせいだったみたいだな。気にするなよ。キャッチャーさえしっかりしていれば……うちはいつでも上位のチームと互角にやれる。それが分かっただけでも御の字だ」
かなめはそう言って無理に笑顔を作ろうとした。誠はここでも責められるのがどう考えても責任の無いパーラだと言う事実を知って彼女に同情せざるを得なかった。
「今日の神前さんの投球では自責点は二点です。本来なら勝ってるんですよ、神前さんは!全部エラーをしたラビロフ中尉とキャッチャーの大野先輩。それにいつも通りかっこいいプレーをしようと悪送球を繰り返したクラウゼ中佐が悪いんです!神前さんは全然悪くないですから!」
外野の控えでスコアーブックをつけていた最年少の技術兵西高志兵長がスコアーブックをベンチに置くと、誠の肩を慰めるように叩いた。誠は静かにグラブをベンチに置いた。
自慢の大学野球でも強打で知られる強力打線がエラーとファーボール以外でチャンスを作れなかったことに苛立っていた千要マートのベンチは、これまで抑えられていたピッチャーを攻略できたことにかなりの盛り上がりをみせていた。千要中部草野球後期リーグ第一戦の初戦の勝利が見えてきた相手は乗りに乗っていた。
「さすがに初登板から上手くはいかないか。草野球とはいえ、上には上がいるもんなんだな」
そう言うと誠は目をつぶり頭を抱えた。
エラーに足を引っ張られたことよりも自分のミスを責めてしまう。誠の性格はどちらかと言うとそう言う性格だった。