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ソレイユ王国

婚約者の従妹が、デートのたびに熱を出す件

作者: Anonyme

「ごめん、クロエ……また、メラニーが熱を出しちゃったんだ。そばについていてほしいと言われたから、すぐに戻らなきゃ。だから、観劇には行けそうにない」


(あーあ、やっぱりね)


申し訳なさそうな顔をして両手を合わせ、頭を下げたのは、わたしの婚約者——エミール・ド・ヴェルナンさま。


……この光景も、もう何度目だろう。近頃は毎回、待ち合わせの度にこんなエミールさまを見ている。

メラニーさまが熱を出すのは、決まってわたしたちのデートの日だ。


(これは偶然?それとも……)


わたしは、ずれ落ちそうな眼鏡を押さえながら、これまでのことを思い返した。


* * *


わたしとエミールさまが婚約したのは、約一年前。わたしがソレイユ王立学園の最終学年だったころ。——今はもう卒業して、医師として働いているけれど。


一学年下のエミールさまから婚約の打診を受けて、わたしはとてもびっくりした。わたし——クロエ・ド・セランは男爵家の娘。エミールさまは次男とはいえ、ヴェルナン辺境伯家のご子息。王国の要衝、軍事の名門であるお家柄からのお申し出に、親族一同大騒ぎだった。


出会いは医療科と政治科の合同討論会だった。

「僕自身は軍人でもないし、平凡な人間だよ。……討論会での、あなたの真剣なまなざしと、的確な意見が頭から離れなくて……こんな、尊敬できる人と家庭を持ちたいと思ったんだ」

そう言って微笑んだ彼の、優しい笑顔に惹かれた。


ヴェルナン辺境伯家には三人の兄弟がいる。精悍な印象の軍人である嫡男のマルセルさまと、王子様めいた華やかな風貌の三男のロランさま。……妹も二人いらっしゃるそうだけれど、領地にお住まいとのことで、お会いしたことはない。


次男のエミールさまは、柔らかな茶色い髪に、癖のない控えめなお顔立ち。一番穏やかそうに思えたし、地味な私が隣に並んでも、なんとか釣り合いが取れそうだと感じた。


とんとん拍子に婚約が決まり、一学年下の彼の卒業を待って、すぐに結婚しようという話になった。


当初から聞いてはいたのだ。“病弱な従妹”がいるという話は。


はじめは、なんの問題もなかった。わたしたちはデートを重ね、放課後にカフェに行ったり、雑貨店で買い物をしたりと、着実に愛情を育てていった。


けれど、わたしが卒業して就職し、彼の従妹——メラニーさまが学園に入学したあたりから、様子がおかしくなった。メラニーさまはモルネ男爵家のご出身。王都には別宅をお持ちでないとのことで、ヴェルナン辺境伯邸に居候されている。


そして、ほどなく。わたしたちの逢瀬の度に、メラニーさまは熱を出されるようになった。もう何度、予定が潰れたかわからない。


「彼女のことは、叔父と叔母から頼まれているから、面倒を見ないわけにはいかないんだ。……兄上も、ロランも無関心でね。僕が何とかしなければいけなくて。君なら、わかってくれるよね?」

エミールさまは、肩を落としておっしゃった。


私は、エミールさまの瞳をじっと覗き込んだ。もちろん、彼の言いたいことはわかる。


(……こんなに頻繁に熱を出すなんて、きっと“悪い病気”に違いないわ!)


「エミールさま!ぜひ、わたしもメラニーさまのもとに伺わせてください。ご存知の通り、わたしも駆け出しではありますが、医師です。……わたしが必ず、メラニーさまをお助けします!」


* * *


我がセラン家は医師の家系。お父様は、栄えある王宮の典医を務めているし、お兄様たちも、研究施設で医師として先進的な臨床を行なっている。そんな家庭で育ったわたしは、王立学園の医療課程を卒業して医師免許を取り、この春から王都の診療所で働いているのだ。


(これは、運命に違いないわ!わたしが、原因不明のメラニーさまの病を見定めて、なおしてあげなくっちゃ!)


診療所ではまだまだ下っ端だが、婚約者のエミールさまのお役に立ちたいと、わたしは燃えていた。


それに「女だてらに医師など……藪医者になって我が家の名誉に傷をつけるなよ」と文句をつけてきていた家族の鼻を明かす、いい機会でもある。


「君がメラニーを見てくれるだなんて、本当に助かるよ。あの娘、嫁入り前に体を見られたくないって、いっつも男性医師を拒否するんだ」


エミールさまは、結婚後も私が医師を続けるのを認めてくれている。その証拠に、今日だって何度も感謝を述べながら、わたしをメラニーさまのところに連れてきてくれたのだ。


貴族女性の仕事に理解のある男性はまだまだ少ない。……医師の道を貫く上で結婚は諦めていた。正直エミールさまとのご縁は、幸運だった。


* * *


質実剛健な雰囲気の辺境伯家の一室は、白を基調に整えられた女性らしい印象に変わっており、ここだけがまるで別の世界みたいだった。


「……ク、クロエ……さま?ご、ごきげんよう。わたくし……体調が悪くって……ゴホ、ゴホッ……なぜ、わざわざあなたがいらっしゃったのですか?」


エミールさまに花のような笑顔を向けた彼女は、わたしを見ると目を丸くし、一気に青ざめた。


(確かに……とっても顔色が悪いわ)


メラニーさまは十五歳。色白の肌に華やかな金髪。長い睫毛に、丸く茶色い瞳の愛らしいご令嬢だ。何から何まで華のないわたしとは大違いである。


(でも、エミールさまはこんなわたしを婚約者に選んでくださったのだもの。頑張らなくっちゃ)


わたしはにっこりと笑って、携えてきた白衣を羽織り、メラニーさまに告げた。

「わたしは医師ですもの。今から診察をさせていただきますね」


彼女は、頭痛と倦怠感を訴えた。咳は出ているようだけれど、喉は腫れておらず、呼吸音も正常だ。


メラニーさまは小さく咳き込んでから、しばらくして思い出したように「熱もあります……」とぽつりともらした。


……一瞬、言葉よりも身体が先に反応する“自然な症状”ではなく、“台詞”に見えた。


「うーん、わずかな熱はあるかもしれませんが、感染症や風邪ではなさそうですね。念のため、様子を見ましょう」


メラニーさまは、診断を聞いて、涙目でこちらを見つめた。


「……こんなふうに他人に見られるの、慣れていないのです。だって、エミール以外に体を見せるなんて、抵抗が……」


エミールさまはギョッとした顔をし、激しく首を振ってこっちを見た。


わたしは、彼女がとても可哀想に感じた。


「これからエミールさまとお茶をいただこうかと思ったのですけれど、残念ながらそのご様子ではメラニーさまは参加できませんね。……エミールさま、行きましょうか」


その時、緩慢だった彼女の動作が、急に素早くなり、そばにいたエミールさまの服の裾を掴んだ。


「……だめ、エミール、そばにいて!わたくし、ひとりでは心細くて……っ。クロエさまは、強いから一人でも大丈夫でしょう?わたくしは、あなたがいないとだめなの」

そう言って、彼の腕に縋りつく。


エミールさまは、困った顔をしてこちらを見つめた。わたしは、小さくうなずいた。


(……しょうがないわよね。病人ですもの)


メラニーさまはエミールさまに密着したまま、こちらを見て、ニヤリと笑った気がした。


「ふふっ、エミールって本当に優しいわね。……昔から、わたくしのことばっかりなんだから。……いつも一番に大事にしてくれて、ありがとう」


(彼女は、不安定なのだから……患者に心を乱されてはダメよ)


わたしは静かに礼を述べると、エミールさまとメラニーさまに背を向けて、そのまま帰路についた。


* * *


翌月、エミールさまとご一緒できると楽しみにしていた絵画の展示会にも、やっぱり行けなかった。わたしが好きな画家を覚えてくださっていて、誘っていただいたのに……メラニーさまが、また熱を出したのだ。


「……このまま、君と逃げちゃいたいくらいだ」

ぼやきながらわたしの手を取るエミールさま。


「だめですよ。メラニーさまは苦しんでおられるのですから」


「……わかってるよ。君は真面目だなあ。そういうところを尊敬してるけどさ」


* * *


医師であるわたしの本分は病人を救うこと。張り切って診察に行くと、わたしを見たメラニーさまの顔は引き攣り、こちらをキッと睨みつけた。


(……前より、明らかに当たりが強い)


「今日は、熱もありますし、お腹も痛くて……息をするのもつらいのです」


問診を終えた後、エミールさまには一度部屋の外に出ていただき、触診と視診で、メラニーさまの体を詳しく診させてもらった。


彼女は、部屋着の前を合わせ、小さく震えている。明確な病名は思いつかない。異常はどこにもない——それが異常だった。


(病理的な説明がつかないのに、どうしてこんなに症状が出るのかしら?)


「……あなたって、医師としては優秀かもしれないけど……本当につまらない女ね」

突然、メラニーさまの声の調子が変わった。彼女は、枕の端を握り潰すほど強く力を込めていた。


だが、次の瞬間、彼女は顔を上げて妖艶に微笑んだ。

「そりゃあ、エミールがわたくしに夢中になるわけだわ。同じ女とは思えませんもの」


わたしに顔を近づけ、ゆっくりとささやく。


「ねえ、クロエさま。エミールって、わたくしには特別に優しいのですよ?昔からわたくしたちはお似合いだって親戚中に言われていたのに、どうしてあなたと婚約なんてしたのかしら」


彼女は満足げに、くすくすと笑っていた。ずいぶん、顔色はよくなったみたいだ。


「ああ、子供の頃は、少し話すとすぐ——『お似合いだね』ってみんながからかってきますものね!」


わたしの言葉に、彼女はかぶせ気味に大きな声を出した。

「そういうことではありません!……エミールったら、もしかして、あなたの仕事に利用価値を見出したのかしら?でなければ、あなたのような地味な女なんて……ねえ」


「仕事を評価していただいているなら光栄ですね。診察中は、化粧品の成分が、患者様に悪影響を与えるかもしれないので、しないようにしているのです。ドレスも邪魔になりますしね」


そう伝えると、メラニーさまは、なぜかものすごく苛々とした顔をした。


……そういえば、メラニーさまは、病で伏せっているのに、いつも必ず胸元の開いたおしゃれな部屋着を着て、さりげなく化粧もされている。


(こういうのを、女性らしいっていうのかしらね?)


「……本当に鈍い方ね!あなたには、エミールさまは分不相応よ。あなたが婚約を辞退すれば、すべて丸く収まるのよ?さっさと身を引きなさい!」

彼女は、鬼のような形相で怒鳴った。


——コンコンコン。


その時、ノックの音が鳴り響いた。


「そろそろ、入っても大丈夫かな?」

のんびりと優しげな、エミールさまの声だった。


* * *


わたしは、彼女の病因について、もっと詳しく探るべく、部屋に戻ってきたエミールさまに聞いてみた。

「ここ最近で、熱や症状が出たのはいつですか?」


エミールさまは首を傾げた。

「そうだなあ。うーん、直近はなかったような。……あ、そうだ。先月、君が来てくれた時以来だよ」


メラニーさまは、ビクッと体を震わせた。

「やだ、そうだったかしら?……すごい偶然。エミールさまとわたくしは、離れてはいられない運命なのかもしれないわ」


震えはすぐにおさまったので、痙攣ではなさそうだ。


「……だとしたら、心因性かもしれませんね」


「え……?」

聞き返すメラニーさまに、わたしは笑いかけた。


「いえ、もう少し経過を見てみないことには、はっきりしませんので」


* * *


エミールさまは、やっぱりメラニーさまに引き留められたので、わたしは辺境伯家の侍女に連れられて、玄関へと向かっていた。


(……結局、毎回エミールさまとはあんまり話せないのよね)


「クロエ嬢」

後ろから、低く落ち着いた声がした。


振り向くと、エミールさまの兄、マルセルさまだった。わたしと同級生だが、彼は留学していたため、ほとんどお会いしたことはなかった。婚約時の顔合わせでお話ししたくらいだ。


「……お邪魔しております」


今は軍属だという彼は、長身で鍛え上げられた体躯をしている。短く整えられた黒髪にしなやかな身のこなしは、いつも接する医師や貴族と比べても異質だ。柄にもなく緊張してしまう。


そういえば、日頃は辺境伯領に配属されているが、出張で一時的に王都に滞在していると、エミールさまが言っていた気がする。


「突然すみません。メラニーがあなたに迷惑をかけていると聞いて、申し訳なく思いまして。……どうせ仮病なんだ。エミールも、放っておけばいいのに」

彼はそう言ってため息を漏らし、頭を下げた。その理知的な瞳に、嫌悪の色が宿っていた。


「……エミールさまはお優しい方ですから。それに、仮病とは、言い切れません」


マルセルさまは、一瞬不思議そうな顔をし、その後柔らかく笑った。


「……あなたにご負担でなければいいのです。もし、お困りのことがございましたら、いつでもお声がけください。最速で対処します」

それだけを言い残し、颯爽と背を向けた。


(怖いのかと思ったけど、案外お優しい方なのね)


* * *


翌月、新しくできたカフェでのデートも、やっぱりお預けとなった。


(美味しいと噂の、栗のミルフィーユ……食べたかったなぁ)


恨めしい気持ちで行列のできている店を眺めながら、エミールさまに手を引かれて歩く。やはり、今回もメラニーさまが体調が悪いとのことなので、診察に行くのだ。


医師として、患者よりもお菓子を優先するわけにはいかない。仕方がない。……道中にエミールさまにお伺いしたところ、メラニーさまが熱を出したのは、前回の私の訪問以来とのことだった。


「そういえば君が来てくれると、メラニーの熱ってだいたい落ち着くんだよね」

つないだわたしの手を、握りしめながらエミールさまはそう言った。


* * *


わたしは、前回浮かんだひとつの仮説を検証するべく、心拍数や発汗状態、体温を確かめた。


そして、メラニーさまにいろんな質問をした。ご家族のこと、子供時代のこと、どんな時にどんな気持ちになるか。


(……うん、これはおそらく……)


「メラニーさま、ようやくわかりました。あなたの病気らしきものが」


彼女は、目を伏せて不安げな顔をしていた。


「あなたは“想熱病”の疑いがあります。少し珍しい症状ではありますが、心と体が強くつながっている方には、時折見られる反応です」


「……え、そうなんですか」

彼女は、驚いたように、しかし嬉しそうに顔を上げた。


(きっと、安心したのね)


病名がはっきりしないまま体調不良が続けば、人は不安になるものだ。診断が下りたことでほっとしたのだろう。


「はい。……少し、準備があるので、治療方針は来週またご訪問してご説明しますね」


わたしは、そう言って微笑み、エミールさまに水を向けた。


「エミールさま、今日も彼女のそばにいてあげてください」


「え……?」

エミールさまは、わたしの言葉にわずかに取り乱しているようだった。だけど、今日は彼女についていてもらった方がいいだろう。


メラニーさまは、わたしの気持ちを汲んでか、満面の笑みを浮かべていた。


「ふふ、クロエさまはご自身の立場をよく分かっていらっしゃるみたいねえ。彼女が身を引いてくださるみたいですから、わたくしたちでゆっくり過ごしましょう?ね、エミール」


その手は、エミールさまの服の裾をしっかりと握りしめている。


「い、いや、そんなわけが……」

エミールさまは慌てた様子でこちらに視線を向けたが、わたしは頭を下げて、そのまま部屋を出た。


(……ごめんなさい、エミールさま。もう少しの辛抱ですから……)


* * *


馬車に乗り込もうとすると、ちょうど帰宅されたマルセルさまにまた声をかけられた。


「ちょうどよかった、クロエ嬢……これを」


手渡されたのは、白い箱だった。漂ってくるのは……パイ生地と香ばしい何か、そしてラム酒の香り。


「え!もしかして栗のミルフィーユですか?……な、なんでわたしが食べたいってご存知で?」

思いがけぬ幸せに、心が浮き立った。


「……。エミールに、頼まれたんです。あなたが食べたがっているから、自分の代わりに買ってきて欲しいと」


(えっ、エミールさま……?)


「ありがとうございます……」


「いえ。帰り道のついででしたので。間に合ってよかったです」


彼は、一瞬迷うかのように視線を彷徨わせたが、心を決めたようにわたしを見た。


「あなたの医術の実力はよく聞き及んでおりますが……メラニーは厄介な娘です。お心をすり減らされていないといいのですが。エミールに、もっとわがままを言ってもいいのですよ?あなたは、婚約者なのですから」


「マルセルさま……」


(なんだか、わたしの不安を見透かされているみたい……わたし、エミールさまのこと……)


彼に見送られ、馬車が出発した。わたしは膝の上の箱をそっと押さえた。決して、揺れて崩れてしまうことがないように。


* * *


家に帰ると、すぐさま箱を開けた。栗のミルフィーユがふたつ、綺麗に並んでいる。


わたしは、紅茶を淹れると、さっそくパイにフォークを入れた。芳醇な秋の味覚が口の中にふわりと広がり、サクリとした食感が後をひく。何層にも重ねられた生地は少し力を入れただけでぽろぽろと脆く崩れ、ちっとも綺麗に食べられない。


(お行儀が悪いけど、一人だからいいわよね)


こっそりフォークの先でバラバラになったパイ生地を回収し、口に運んだ。気付けば、一気に二つとも食べてしまっていた。それくらい美味しかった。


(でも……彼と一緒に食べたら、もっと美味しかっただろうなあ)


診断はついた。もう少しで……メラニーさまを、助けてあげられる。そうしたら、わたしは……。


* * *


準備は、ばっちりだ。わたしは、エミールさまとともに、メラニーさまの部屋に向かっていた。


ここに来るのも、今日が最後になるだろう。


「大変お待たせしました、メラニーさま」

わたしの声に、メラニーさまは愛らしいお顔をこてんと傾け、人差し指を顎に添えた。


「あなたには、療養が必要です。静かで落ち着いた場所で、心身を整えるためのケアを受けていただきます」


「……え?」

彼女の顔が、ピシリと固まった。


「——幸い、わたしの実家である、セラン男爵家の研究施設……あっ、療養施設に空きがありまして!そちらで、受け入れてもらえるそうです。護衛と帯同する医師を手配しましたので、今から移動しましょう」


メラニーさまはわなわなと震えたかと思うと、すぐにめそめそと泣き出した。


「いや……わたくし、ここにいたいのです」


「そうおっしゃいましても。それじゃあ、なおりませんよ?」


駄々をこねるメラニーさまに、わたしはできる限り優しく告げた。錯乱する患者に取り乱さず対応するのも、医師にとって必要な素養の一つだ。


「いやなものはいやっ……!ねえ、エミール、お願い、助けて!わたくし、そんなところに行きたくないの。あなただって、わたくしがいないと、寂しいでしょう……?」


彼女は、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、エミールさまを見た。


エミールさまは、にこやかな笑顔を彼女に向けた。

「メラニー、せっかくの機会だから、しっかりなおしてきなよ。……どのみち、半年後には僕はクロエと結婚して二人で暮らすから、この家を出るし」


「え……!?」

メラニーさまは、泣くのも忘れてしまったみたいに、素っ頓狂な声を出した。


「エミール、あなた、わたくしを愛しているのではなかったの?その女よりも、いつもわたくしを優先してくれたでしょう?だから、わたくしと結婚するわよね?」


エミールさまは大きなため息をついた。


「そんなわけないだろう。……いつも、迷惑をかけられてばっかりだったんだ。そんな君のことを、愛せるわけがない」


「……うそ……」

メラニーさまは信じられないものを見たような顔をしてエミールさまを見つめた。


「クロエが君の病気を見つけてくれてよかったよ。……僕ひとりじゃ、ここまで綺麗に終わらせられなかった」 


「……うそ!そんなのうそよっ」


メラニーさまは頭をかきむしり、叫び出した。


わたしは、思わず彼に注意した。


「エミールさま!いつも言ってますよね?患者を刺激しないでって」

白い目を向けると、エミールさまは途端にしゅんとしたが——


「エミール、エミール、エミール……いやっ、あんたがっ……あんたさえいなければわたくしたちは結婚するはずだったのよおおおお!!」

涙も、鼻水も、涎も区別がつかなくなった顔で、彼女は毛布を撥ね上げ、裸足のまま寝台を飛び降りた。


そして、ものすごい勢いでわたしにつかみかかる。


「——クロエ!」

エミールさまは、慌ててメラニーさまを引き剥がしたが、勢いがついてそのまま二人とも床に倒れ込む。


「エミール、エミール!好きよおおおお!!」


「……やめろ!僕にはクロエしかいない!」

青い顔のエミールさまは、それでも彼女をなんとか床に押さえつけた。


「エミールさま、そのまま押さえていてください」


わたしは、鎮静剤の注射器を取り、彼女の静脈にプスッと刺した。


ジタバタとしていた彼女も、しばらくすると手足をだらんと伸ばして大人しくなった。素早く護衛と医師を呼び、連れて行ってもらう。


「エミール……エミールぅ……」


呻くような声がしばらく聞こえていたが、その姿が見えなくてホッとした。


可哀想かもしれないが、自業自得だ。なにしろ、この“物語”を始めたのは、彼女自身なのだから。


“想熱病”とは気の病の一種だ。特定の人物に強く執着し、注目されないと高熱や倦怠感などの身体症状が現れる。身体的原因が見つからず、心因性とされる。一見ただの片想いによる発熱に見えるが、繰り返すことで生活に支障をきたすため、治療が必要とされるのだ。


まあ、仮病との違いがどこからなのか、という判断は難しいけれど——それは、これから我が家の研究施設でゆっくりと検証すればいい。時間はたっぷりあるのだから。


* * *


扉が閉まり、メラニーさまの姿が見えなくなると、エミールさまはゆっくりと深呼吸をした。


「……クロエ、本当にありがとう!おかげで、長年の憂いが晴れたよ!」

彼は興奮したように、わたしの両手を取った。


「いいえ、わたしもすっごく勉強になりましたもの!研究が進んで、我が家でも喜んでいますわ」


——婚約を打診されたときに、彼から聞いていたのだ。彼が女性と出かけようとすると、“病弱になる従妹”がいるのだと。だから、嫌なら断ってもいいと。


でも、わたしは二つ返事で引き受けた。だって、わたしの専門研究は“気の病”だもの。


(こんな興味深い研究対象、放っておくなんてありえないわ!)


だから婚約は受けたし、彼女の診療にも協力したいと申し出た。「患者を刺激しないよう、しばらくは何でも彼女に合わせて、優しく受けとめてね」というお願いに、エミールさまは疲れ果てていたみたいだけれど。


「……君は、本当に医療のことばっかりだなあ。そういう、真摯なところが好きなんだけどさ」

エミールさまは、わたしの手を握ったまま、じっと目を覗き込んできた。


「でも、その半分の熱でもいいから、僕にも向けてくれたら嬉しいな」


その瞳の奥には、確かな熱が宿っていた。


(……え?“わたしの熱”って……)


一瞬、何を言われたのか分からなくて、返事が遅れた。頭の中では「診療」「研究」「症状」……そんな言葉がぐるぐると回っている。


なのに、胸の奥が、変な音を立てた。思わず手のひらが熱くなる。


「医師たるもの患者が優先」と言い聞かせて、自分を押し殺してきたけれど。


……わたしも、本当は彼と二人でいたかった。メラニーさまに邪魔されずに、いろんな場所に二人でいきたかった。彼の優しさを、笑顔を独り占めしたかった。


しまい込んでいた想いが、堰を切ったように溢れ出す。


……これは、診断書には書けない。病名も、原因も、対処法も、ひとつとして見つからない。


どうしよう、わたしもどうやらとっくに——かかってしまっていたみたい。


あの“恋の病”というやつに——。


* * *


「あ、そういえばクロエ、ひとりでミルフィーユ二つ食べたでしょ?一緒に食べようと思ってたのに!」


「えっ、あれって……二人で食べる予定だったんですか!……マルセルさま、何も言ってませんでしたよ?」


「兄上……絶対わざとだ。僕が使い走ったから……意趣返しに違いない」


「え?マルセルさまってそんなことするお方?」


「いや、あの人けっこう子供っぽいところあるんだよ、外面だけはいいけどさ〜」


「あ、マルセルさま」


「エミール、何か言いたいようだな?」


「い、いや……僕は別に……何でも、ありません!」


「……クロエ嬢はお前にはもったいない女性だ。せいぜい、愛想を尽かされないように努力するんだな」


「……そんなこと、兄上に言われなくてもわかってますよ!」


「彼女の医術は素晴らしい。ぜひ、我が軍でも……」


「だめです!軍なんかに入れたら危ないし、僕とクロエの時間がなくなるでしょう」


わたしたちの日々は、まだ始まったばかり。でも、エミールさまと一緒なら、この先の未来はとびきり楽しいものになると、そう思えて、ならなかった。


「クロエ、今度こそ二人でカフェ行こうね!展覧会も観劇も雑貨屋も、今までできなかったこと、たくさんしよう!」


挿絵(By みてみん)

※“想熱病”は架空の病名です。


仮病と見なされがちな症状の中には、実際には精神疾患(虚言癖、演技性パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害など)に由来するケースもあるのでは、というアイデアが元になっています。


また、心因性発熱や身体表現性障害など、心の状態が身体に影響を及ぼす症状は、現実の医学においても確認されています。


今回は、そうした複数の特徴を統合し、中世風の世界観に合わせて“想熱病”という名称を創作しました。


◆最後までお読みいただき、ありがとうございました。少しでも心に残るものがありましたら、感想や評価をいただけると励みになります。


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― 新着の感想 ―
バランスの取れてるお話だなぁ、と思う。 仮病(?)を使って婚約者や夫を毎回引き留める妹や従兄妹。 よくある設定ですが、周囲の対応がいつも極端で「そんなバカばっかりなこと、そうそうあるか?」と思うので、…
従姉妹の自分の足を食ったタコ感が凄いですね(笑) 終始淡々と対応するクロエが面白かったです。
確かに、なろうに沢山出てくる病弱な親族や幼馴染達。 なるほど!病気だったのね!! ワガママ病とか、甘ったれ病とか、そういうのかと思ってたけど…ちゃんとそんな心を病んでる患者に真摯に向き合う彼女は凄い!…
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