第87話 初めての成功と、それぞれの覚醒
調合机の上。
リュークは、手の中にひと瓶の素材を握っていた。
淡い白色の粉末――リン酸塩。
以前なら、ただの粉にしか見えなかったそれが、今は違って見えていた。
(リン酸塩……熱を加えると、水分が抜けて構造が変わる。そのとき、魔力の流れが内側に圧縮される……)
頭の中で、“知識の断片”が自然に浮かび上がってくる。
化学の記憶(初級)が、素材の反応の仕方を教え、
量子力学の記憶(初級)が、魔力と素材の間に起こる“目に見えない変化”を感じさせてくる。
(ファイアボルトの魔力は……外に向かって広がりやすい。
でも、その波をうまく中和すれば、暴発を抑えて、力を内側に集められる)
まるで、誰かの声が頭の中で指示してくるようだった。
理解というより、“こうすればこうなる”という結果が、先に見えている感覚。
「……やってみるか」
リュークは、火皿の上にそっと手をかざし、小さく魔力を起動した。
ボッ
浮かび上がる赤い火球。
ゆらゆらと揺れるそれは、熱の波を不安定にまとっていた。
リュークは、少しだけ息を止めて、
小さなスプーンにのせたリン酸塩を――慎重に、静かに振りかける。
「……いけ」
粉が魔力の熱に触れた瞬間、
シュウウ……
と淡く煙が立ちのぼる。
一拍置いて――
火球が、ほんのわずかに震え、
シュットー
静かな音を立てて反応した。
普通なら暴発してもおかしくない火種は、
破裂することなく、逆に内側へとぎゅっと力を収束させていく。
「……止まった」
爆発は起きなかった。
代わりに、中心部に“引き締まった熱”が凝縮されて残っていた。
熱量はあるのに、暴れる気配はない。
整った流れに、火球自体が納得したようにも思えた。
「……やった」
リュークは、小さく息を吐いた。
さっき頭の中に浮かんでいた“映像”――それと、今起きた現象はまったく同じだった。
素材の反応と、魔力の流れ。
化学の知識と、魔法の感覚。
ふたつの分野が、自分の中で“自然にひとつに繋がった”瞬間だった。
理屈を全部説明できるわけじゃない。
けれど、結果だけは確かに、自分の“知っていた通り”だった。
「……この反応、ちゃんと“使える”」
素材の焦げるにおい。
空気の中を流れる魔力の波。
熱が収束していく光の軌跡――
そのひとつひとつが、頭ではなく、“身体で覚えていた”ものだった。
リュークは火を
フッ
と吹き消し、道具を片付け始める。
器具が
カチャッ
と音を立てて棚に戻る感触が、手に心地よかった。
その手には、“知識が実際に役立った”という、確かな手応えが残っていた。
それは、これまで頭の中に引っかかっていた違和感を、
ほんの少しだけ――だが、確かに――和らげてくれた。
◆次に必要な知識への気づき
実験を終えた後の調合机には、静かな余熱だけが残っていた。
火皿の下でくすぶる残り火が、かすかに空気を揺らしている。
リュークは、手のひらに残る熱の感触をじっと見つめながら、ゆっくりと椅子にもたれた。
素材の量も、魔力の量も、思い描いていた通り。
リン酸塩の反応も、予想通りにきれいに収束した――はずだった。
火皿の上に残るのは、わずかな熱と、かすかに香る焦げた甘い匂い。
パチ……
と火種が最後に弾け、静かに消える。
(……でも、なぜ“成功した”って言える?)
結果は良かった。
けれど、それが“なぜそうなったのか”――
その過程について、自分の理解があいまいだったことにふと気づく。
素材を混ぜた順番。
火を当てた角度。
粉が落ちる速度や、広がり方。
そして、熱がどのタイミングで伝わり、いつ爆発の気配が収まりきったのか。
(……ひとつでも、ずれていたら)
たぶん、あの瞬間、あの火球は暴発していた。
素材の熱の通り方や重さ、魔力への反応の広がり方。
それらすべてが偶然、奇跡的にうまく噛み合ったからこそ――
いま、ここに“成功”の形が残っただけなのかもしれない。
(……これは、たまたまうまくいっただけかもしれない)
不意に指先が冷たくなる。
どこかで、確かめずに安堵したことへの、わずかな恐怖が滲んでいた。
魔力の流れや理論だけでは、この現象をもう一度、同じように再現できる保証はない。
「……力が、どう伝わって……どう動いてるのか……」
ぽつりと漏れた声が、静まり返った部屋に吸い込まれていく。
魔力に反応する素材。
記憶から得た知識。
でも――それを現実で使う“感覚”、
身体で理解する**動きの実感**が、今の自分には決定的に欠けていた。
(そうか……)
ひとつの疑問が、静かにリュークの頭に浮かび上がる。
(どうして、それが“動いた”のか?)
それが分からない限り、どれだけ結果がよくても、
同じ現象を再現することはできない。
“思い出した知識”ではなく、
“使える知識”――それこそが、自分にとって今、最も必要なものだった。
「……俺には、まだ足りない。理屈じゃない、“動き”の知識が」
その瞬間、リュークの中に、ひとつの輪郭がはっきりと浮かび上がる。
──物理。
摩擦、質量、加速度――
目には見えないが、確かに“現実”を動かしている力。
(次に必要なのは……“物理学の記憶”。たぶん、それだ)
そう思ったとき、背筋にひやりとしたものが走った。
これから先、自分が思い出す知識はきっと、理屈や理論では済まない。
現実の動きそのものと、ますます深く結びついていく。
もし使い方を誤れば、単なる失敗では済まない。
“現象そのもの”が命を奪うことだってある。
だからこそ――
次に進むために、どんな知識を選ぶかは、自分自身で決めなければならない。
リュークは静かに立ち上がり、調合机の上を片付け始めた。
その手つきには、さっきまでとは違う――わずかに慎重な気配がにじんでいた。
◆開放された記憶(ルミエル編)
それは、意識の深い底から、静かに“染み出してくる”ような感覚だった。
熱くもなく、冷たくもなく――ただ、静かに肌をなぞる風のような“何か”。
自分でも気づかぬうちに、呼吸の仕方が変わっていた。
まるで、見えない空気の層が変わり、そこに新しい“律動”が重ねられたように。
魔力の波が、内と外で重なり、音もなく心の奥を通り過ぎていく。
言葉にできないのに、確かに“違う”と分かる――そんな変化だった。
けれど、それは言葉や理屈ではなく――音のない“揺れ”のようなものだった。
ルミエルは、どこかで“感覚が変わった”ことに気づいていた。
魔力が、波のように押し寄せる。
風が吹いたわけでもないのに、空気が
ザァ……
とざわめくように聞こえる。
そのひとつひとつが、ほんのわずかに違ったリズムで身体をかすめていく。
(……空間が揺れてる? いや、違う。でも……何かが、重なって聞こえる)
まるで、誰かが遠くで旋律を奏でているような――
微かに“音の影”が流れているような感覚だった。
はっきりとした音ではない。
けれど、頭の奥で“何か”がぼんやりと、絶え間なく流れ続けている。
その揺れは、彼女が口ずさむ詩のリズムと、どこか共鳴しているようにも思えた。
あるいは――言葉にならない“呼び声”のように、静かに寄り添っているようでもあった。
だが、それはまだ形を持たない。
「何が起きているのか」
は分からない。
けれど確かに、“違う”という感覚だけが、胸の奥に残っている。
言葉にならない違和感。
それが、感覚の隙間に
スウ……
と染み込んでいくように広がっていた。
◆開放された記憶(シャドウファング編)
彼は、言葉を持たない。
それでも――記憶の開放のあと、明らかに“何か”が、彼の中に残っていた。
視界の端で、影が揺れる。
音の後ろに、もうひとつの音が
カサ……
と重なる気配。
今までは感じなかった“揺らぎ”が、静かに漂っている。
それは、まるで――
目の前の世界とは少しだけずれた“別の動き”が、重なるように存在しているかのようだった。
(……そこに“何か”がいる? けど、まだ完全には現れていない……)
その存在を、視覚では捉えきれない。
けれど確かに、“視線の奥”に、ふとした瞬間――影がある。
気配とも、音とも違う。
ただ、ごく微細な“ズレ”。
それだけなのに、彼の本能は反応していた。
足元の一歩が、気づかぬうちにわずかに遅れ、
トン……
と慎重に地を踏む。
目に見えない何かを、避けるように。
それは、言葉の代わりに“感覚”で得た、かすかな予感だった。
次回:依頼の塔と、夢に揺れる記憶
予告:古い塔に呼ばれる夢と、祈りの旋律に呼応する寝言。忘れられた祠と同じように、“扉”は再び開こうとしていた。
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