第86話 混ざり合う記憶、使えない答え
夜が明けた。
街の屋根をかすめるように陽が差し込み、宿の窓辺がほのかに明るくなる。
ルミエルは、早めに目を覚ましていた。
眠ったような、眠れなかったような夜。
けれど、瞼の裏にはまだ、あの寝言の声が残っていた。
「……まだ、たどり着いてない……扉の、先で……」
忘れようとしても、消えてくれない。
その言葉が、“ただの夢の言葉”とは思えなかった。
ベッドの上で、ルミエルはふと、鼻歌のようにある旋律を口ずさんでいた。
——それは、ごく自然に、意識せずに漏れ出た旋律だった。
「眠らぬ光よ、時の裾に舞い降りて……」
「消えぬ灯火よ、流れゆく時の縁に……」
静かな調べ。
どこか懐かしくて、胸の奥を震わせるような響き。
けれど彼女自身には、その意味も、いつどこで覚えたかも分からなかった。
「……これ……いつから歌ってたんだろう」
呟いた自分の声に、少しだけ驚く。
「でも……歌ってると、落ち着くの。昔から、そうだった気がする」
小さく息を吐いて、隣のベッドに視線を向ける。
リュークはすでに起きていて、窓の外をぼんやりと眺めていた。
窓辺のカーテンが
サラ……
と風に揺れている。
「……おはよう」
「おう。起こしちまったか?」
「ううん。起きてた。ずっと……」
リュークは肩をすくめて、ようやく視線を戻す。
「なんか、変な夢見てた気がするけど……もう、思い出せない」
ルミエルは少しだけ迷ってから、静かに口を開いた。
「……昨日の夜、寝言を言ってた。“扉の先”って……そんなふうに聞こえた」
リュークの動きが、一瞬だけ止まる。
「……マジで? やっぱ、声に出てたか……」
「怖くは、なかった。でも……なんか、悲しかったの。
誰かを呼んでるみたいだったから」
リュークは苦笑しながら、無造作に髪をかき上げた。
「……俺自身も、誰かに呼ばれてる気がするんだよな。たまに。
理由は分からないけど、夢っていうより……“記憶の残響”って感じでさ」
ルミエルは静かに頷いた。
「やっぱり、あなたも……感じてるんだね」
「……うん。でも、“思い出したら戻れなくなる”気もする。……だから、怖い」
ルミエルはその言葉に、静かに目を伏せ、少しだけ微笑んだ。
「それでも……きっと、ちゃんと向き合える。あなたなら」
リュークはその言葉に、少しだけ目を細めた。
まるで、ほんの少しだけ――救われたような、そんな顔だった。
そして、その静かな朝の部屋に、再びルミエルの旋律が、
小さく、微かに、風に乗って響きはじめる。
「眠らぬ光よ、時の裾に舞い降りて……」
淡い調べが空気を震わせ、朝の光が、ゆっくりと窓から差し込んでくる。
リュークは机の前に座っていた。
けれど、手にした鉛筆は動かないまま。
開かれたノートには、何も書かれていなかった。
昨日の祠で、“何か”を受け取った。
——量子力学の記憶。
激しい頭痛とともに、無理やり頭の中に流れ込んできたそれは、
今もなお、霞のように残っている。
(……ハミルトニアン? 重ね合わせ? なんだよ、それ)
思い出そうとしていないのに、勝手に浮かんでくる見知らぬ単語たち。
意味は分からない。けれど、それが“自分の中にある”という確かな感覚だけがある。
「……これが“開放された記憶”ってやつなのか?」
呟いた声が、静かな部屋に染み込んでいく。
誰かの考えが、自分の頭にそのまま流れ込んできたような、
そんな“混ざりもの”のような感覚。
ぼんやりとした図形や数式が、脳裏を
ピチ、ピチ
と浮かんでは弾ける。
線が走り、記号が並ぶ。そこに“意味”があることだけは分かる。
けれど、それが何を示し、どう使えばいいのかが、掴めない。
(……知ってる。でも、分からない。そんな感じだ)
知識はある。だが、それを使う
「問い」
が分からない。
まるで誰かが答えだけを手渡してきたのに、
何を問われているのか
までは教えてくれなかったような……
そんな、ちぐはぐな感覚だけが、頭の奥に引っかかっていた。
「……使い方もわからない知識が、ただ詰まってるだけか……」
「……ちょっと、気持ち悪いな」
ふと、視線が机の上のカップに止まる。
湯気はすでに消え、器の内側に残った輪の模様だけが、じっとしている。
壁にかけられた時計の針が
カチ……カチ……
と刻む音がやけに大きく響いた。
外から聞こえる鳥のさえずりすら、何かの“信号”に聞こえてくる。
それら全てが、うっすらと“見えない理屈”に支配されているように感じた。
まるで、世界の裏側に隠された“仕組み”が、透けて見え始めているかのように――。
◆調合の混乱と試行錯誤
朝の光が差し込む部屋で、リュークは小さな調合器具を机の上に並べていた。
カチャ……
と静かな音を立てて、ガラス器具が所定の位置に収まる。
目の前には、回復薬の基本材料――乾燥させたルナ草と、セレナの抽出液。
「じゃあ、次はこれを温めて……」
ルミエルが、慣れた手つきで器具に火を入れようとした、その時――
「ちょっと待って。それ……熱伝導が悪すぎるかもしれない」
リュークの口から、不意に言葉がこぼれた。
反射のように出たその言葉に、自分でも少し驚いた。
ルミエルが手を止め、首を傾ける。
「え? でも、いつもこのやり方で上手くいってたよ?」
「う、うん……でも、理屈では……たしか……」
リュークは言い淀みながら視線を泳がせ、額に手を当てる。
「素材が不安定で、加熱中に分解されやすくて……だから、高温は……たぶん」
(……なんだよこれ。知識ばっかりが勝手に出てくる)
“知っている”という感覚はある。
けれどそれは、自分で積み重ねた経験ではなかった。
まるで誰かが、こうすべきという“答え”だけを無理やり押しつけてきたような――
そんなズレた違和感が、思考の奥で
キリ……
ときしむように響いていた。
「……ごめん。やっぱり、任せるよ」
少しだけ肩を落としながら、リュークは一歩引いた。
ルミエルは困ったように微笑んで、
カチッ
と火力調整のつまみを回す。
再び、調合が始まる。
ルナ草を砕く音が
サク……サク……
と響き、抽出液がガラス器の中で
コポ……
と揺れる。
火にかけられた液体が、やがて
ジュウ……
という音とともに泡立ちはじめた。
やがて、小さな瓶の中に、淡い桃色の回復薬が静かに揺れた。
リュークはそれをじっと見つめながら、胸の奥のざわつきを振り払えずにいた。
(知ってるのに、動けない。……考えすぎて、直感が鈍ってる)
知識は、確かに“正しさ”を教えてくれる。
でも、それだけでは足りない。
“どう動くか”――その一歩を踏み出す勇気までは、知識は与えてくれない。
今のリュークにとって、その差こそが、一番の戸惑いだった。
◆町の風景に混じる“数式の癖”
リュークは、宿の外に出て、石畳の通りをゆっくりと歩いていた。
コツ……コツ……
と足音が、朝の静けさに溶けていく。
空気は澄んでいて、パンの焼ける香りが風に運ばれてくる。
遠くでは、水車の羽根が
カラン、カラン……
と回る音がかすかに聞こえた。
けれど――その何気ない朝の風景に、“妙な違和感”が混じっていた。
ギルド通りへ続く階段。
その段差を見ただけで、ふいに頭に数式が浮かぶ。
(……質量、加速度……速度ベクトル?)
意味もわからず、脳が勝手に計算を始める。
階段を下るだけなのに、
“身体がどう動くか”ではなく、“数値でどうなるか”が先に来る。
(……俺、何してるんだ? 階段くらい、感覚で降りればいいのに……)
首を軽く振って、思考を振り払おうとする。
けれど――
見えるものすべてが、“構造化された情報”のように感じられた。
井戸の水面が、風に揺れていた。
波打つだけのその水面が、今は“情報の波”にしか見えない。
(……干渉? 重ね合わせ? これって……何が観測されてる状態なんだ?)
理解しているような感覚がある。
けれど、その知識を
「どう使えばいいのか」
がまるで見えない。
(まるで、答えは見えるのに、何を問われているのかが分からない……)
視界に入るものすべてが、数式に、理論に、変換されていく。
けれど、それが何に役立つのか、一切わからない。
リュークは、静かに息を吐いた。
けれどその息さえも、
「気圧」
「流速」
などの数値に変換されそうで――
そのことに、さらにうんざりする。
この違和感は、単なる知識の混乱じゃない。
根本が抜けている――そう感じた。
(……土台がないのに、理論だけが動いてる。だからか。分かってるようで、何も使えない)
思考は冴えているのに、判断は鈍る。
知識はあるのに、手が動かない。
そんな“ズレ”が、日常すらも歪ませていた。
「……俺、本気でおかしくなってきてないか……?」
誰にも聞かせるつもりのない呟きが、冷たい朝の空気に静かに消えていく。
それでも、脳裏に浮かぶ“解けない数式”は、
どこまでも澱のように、静かに揺れ続けていた。
次回:初めての成功と、それぞれの覚醒
予告:知識が現実を動かすとき、世界は静かに揺らぎ始める。祈りの詩、影の気配――三者の中で“記憶の開放”が響き合う。
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