第73話 記憶が語る“化学”の真実と、重なる面影
翌朝――。
リュークはゆっくりと椅子から立ち上がり、ベッド横の小さなテーブルに手を伸ばした。そこには、昨夜のうちに数えた金貨が、静かに並べられている。
ちょうど五十枚。
「……これで条件は満たせる」
金貨を見つめながら、リュークは小さく息を整えた。
その瞬間、脳裏に無機質なインターフェースが浮かび上がる。淡く光るその中に、新たな文字列が現れた。
【化学の記憶(初級)開放条件:金貨小50枚】
【開放しますか?】
リュークは迷いなく、短く告げた。
「――開放する」
声に応じるように、テーブルの金貨が一斉に**カチ…カチ…**と音を立てて震え、次の瞬間、ふわりと宙へ浮かび上がった。
五十枚の金貨は青白い光に包まれ、**シュウウ……**という静かな音と共に粒子へと変わっていく。
「っ……!」
リュークの額へと吸い込まれていく光の流れ。
同時に、脳の奥深く――まるで今まで閉ざされていた厚い扉が、ギィィ……ンと重く開かれるような感覚が走った。
それは決して痛みではない。むしろ、忘れていた何かが一気に呼び覚まされるような――奇妙な震えと熱さを伴う衝撃だった。
意識の奥底に、途切れ途切れの映像が次々と浮かび上がる。
《化学の記憶:暮らしの断片》
視界が揺らぎ、時間が止まったような感覚に包まれた。
脳の奥、何かが急激に熱を帯びる。
意識の中へ、次々と“映像”が流れ込んでくる。
──白い机の上、並んだ瓶と器具。
ガラスのビーカーに注がれる薄い青色の液体。
それに、ひとしずくの透明な試薬。
ふわりと立ちのぼる白煙。
「これが中和反応。酸と塩基の、バランス点」
誰かの声が、記憶の中で響く。
そして――
怪我をした腕に、アルコールで湿らせた布を当てる手。
腐敗しかけた肉に、塩を擦り込んで保存する仕草。
釘を溶かす酸性液の泡。
植物から抽出された汁が、炎に色をつける様子。
蒸留器。ビーカー。アルコールランプ。粉末を測る天秤。
色とりどりの薬品が混ざり合い、爆発ではなく、安定した変化を生み出す。
「魔力媒介物質」と書かれたラベル。
「エーテル抽出剤」「幻毒の根」などの名称がすべてが、知識というより“体に染みついたやり方”だった。
目を開けたリュークの手が、ゆっくりと、だが迷いなく動き始めた。
指先が草の葉をそっと撫で、湿った土をつまみ、空気のわずかな匂いを嗅ぎ取る。
サラ…
かすかな草の触感と、しっとりとした土の冷たさが、手のひらに広がる。
そのすべてが、頭の中で自然に結びついていく。
(この草は……応急処置に使える。これは……毒の中和だ)
考え込むでも、記憶を探るでもない。
ただ、体が“知っている”ように動いていた。
覚えたはずはない。だが、それは疑いようのない確信だった。
あたかも、過去に何度も繰り返し行ってきた行為のように――。
「……思い出している……」
リュークは小さく呟き、指先を見つめた。
「誰かから教わったんじゃない……でも、確かに俺の中にある」
微かな鼓動のように、体の奥で響くその感覚。
それは根拠ではなく、まぎれもない経験に近い理解だった。
「……これは、“俺の記憶”だ」
その時、脳髄を焼き尽くすような感覚。視界が乱れ、意識が混濁する。
H₂O,CO₂,NaCl,CH₄,C₆H₁₂O₆,H₂SO₄,HNO₃,HCl,NaOH,KOH,NH₃
化学式が、脳内を埋め尽くし、意味の洪水が押し寄せる。
H,O,Na,Cl,C,N,S,Fe,Cu,Au,Ag,Pt,Hg,Pb,U,Ra,Rn
元素記号が、フラッシュバックのように現れては消え、脳内で周期表が組み変わる。
pH,ΔG,E=mc²,C=n/V,log,sin,cos,tan,exp,ln,√,∫,Σ,∂,∇,ℏ,α,β,γ
数式と記号が、脳内で複雑に絡み合い、幾何学模様を描き出す。
危険、放射能、生物兵器、原子、雷、実験、温度、顕微鏡、遺伝子、薬、錬金術、知識、鍵、機構、変異、爆発。様々な記号とイメージが、感情とともに脳内を駆け巡る。
酸化,還元,中和,触媒,重合,分解,置換,沈殿,ろ過,蒸留,抽出,結晶,錬金術,毒物,解毒,薬学,調合,副作用,投与量,致死量,幻覚,暗示,錬成,変成,精製
化学反応、錬金術、毒物学、薬学。様々な知識が、断片的に脳内を駆け巡り、記憶の断片を形成する。
モル濃度,イオン結合,共有結合,金属結合,分子間力,ファンデルワールス力,錯体,キレート,賢者の石,ホムンクルス,エリクシル,ラボルトの法則,ヘスの法則,ファラデーの法則,ボイル・シャルルの法則,質量作用の法則,平衡定数,活性化エネルギー,触媒毒,キラル化合物,光学異性体,ラセミ体,酵素,受容体,神経伝達物質,アポトーシス,DNA複製,RNA転写,タンパク質合成
専門用語が、意味を理解する間もなく、脳内に洪水のように流れ込み、記憶の海を形成する。
錬金術の道具,毒物の作用機序,薬の投与方法と副作用,混合物の分離方法と応用,錬成反応の制御,毒物による神経伝達阻害,薬による遺伝子発現制御,触媒による反応速度の操作,結晶構造と物性,錯体による金属イオンの分離,キラル化合物による薬効の選択性,酵素反応の阻害と促進,DNAの変異と修復,タンパク質の構造と機能
具体的なイメージと応用例が、鮮やかな映像となって脳裏に浮かび上がる。
知識の迷宮。それは組み合わさり、複雑に絡み合い、次々と形を変えていく。
脳が焼き切れそうな感覚。
意識が一瞬、崩れ落ちるような錯覚に襲われる――**ズン……**と重く、脳内で響く衝撃。
それでも、深層には確かに刻まれていくものがあった。
それは、禁断の領域に触れる知識。
神々の座に近づくような、危うくも魅惑的な力だった。
そして――世界の法則すら塗り替える、"創造の知"だった。
木の根から採れる、乳白色の樹液。
乾ききった葉の裏にこびりつく、淡い結晶。
それらを手にした瞬間、扱い方が本能のように理解できる。
ただ混ぜるのではない。
分離し、抽出し、濃縮し、そして再合成する――。
それらは派手でも、壮大でもない。
しかし、確かに“生きるための技術”だった。
毒を中和し、薬を作り、罠を解き、味方を癒す。
静かで、地味で、けれど絶対に必要な力。
(これが……“使える知識”だ)
その理解は、まるで焼き鏝で刻み込まれるように、確かにリュークの中に定着していった。
逃れようのない必然として――次々と、記憶が組み上がっていく。
《ルミエル残響の記憶:誰かをなぞる声》
リュークの手元から、ささやかな“化学の記憶”が光となって収まっていくのを見届けたルミエルは、胸の奥に何かざわつくものを感じていた。
(さっきのあれ――)
リュークの動き、手順、声の調子。
まるでどこかで、何度も見たような気がする。
けれど、それは“このリューク”ではなかった。
ぼんやりと、頭の中に“重なるような違和感”が浮かぶ。
「……変だな」
小さく呟いたその声に、リュークが顔を上げる。
「どうかした?」
「ううん、ただ……ちょっと懐かしい感じがしただけ」
嘘ではない。けれど、真実を言い切るには、曖昧すぎた。
──白い光に満ちた空間。
──ガラス越しの視線。
──何かを操作していた“誰か”。
ルミエルの記憶の底に、ぼんやりと浮かぶ“あの人”は、
今のリュークと違う、それとも同じ?・・・・・・
だが、その胸の奥で、何かが確かに**“繋がりかけて”**いた。
かつて自分が“閉じられていた場所”で、確かに誰かがいた。
自分の名前を呼び、ここではないどこかへ繋ごうとしていた“誰か”。
そして、その名前は――
(……リューク、だった)
けれど、あの人は目の前の彼とは違っていた気がする。
(じゃあ……誰?)
その疑問が、記憶の奥で燻っている。
【スキル獲得:化学の記憶(初級)】
【サブスキル解放:基礎調合/簡易錬金/安定剤生成】
意識を戻したリュークは、ゆっくりと目を開けた。
視界が、以前とはわずかに違って感じられる。
ポーションの素材が入った袋へ目を向けると、今まで気付かなかった微細な差異が鮮明に映し出された。乾燥の度合い、粉末の粒の細かさ、光の屈折による純度の違い……直感ではなく、確かな“理解”として頭に流れ込んでくる。
「……すげぇ。頭の中で、調合式が自然に浮かぶ……!」
驚きと興奮を隠せないリュークの声に、ルミエルがぱっと顔を輝かせる。
「成功したんだね!」
弾かれるようにリュークへ飛びつき、その腕にしがみつく。
柔らかな衝撃が伝わり、リュークは少しだけ面食らったが、すぐに笑みを返した。
「これで、明日からポーションの販売を試せるな。 冒険者の広場か、ギルドの露店か……場所は考えないと」
シャドウファングも低く**グルゥ……**と小さく唸りながら、テーブルに置かれた薬草の袋に鼻先を寄せる。その仕草に、どこか賛同の意志が感じられた。
リュークは頷き、指先で薬草を軽く弾いた。**サラ……**と乾いた音が広がる。
「よし。まずは『基礎調合』だ。 高品質の回復ポーションが作れれば、それだけで資金源になる。 今後、次の“扉”を開くまでの安定した足場にもなるはずだ。」
「じゃあ、私も手伝うね!」
ルミエルはふわりと浮き上がり、笑顔を見せる。その頬には嬉しさと少しの誇らしさが滲んでいた。
「成分の見分け方、なんとなく覚えてる気がするから」
「助かる。二人でやれば、調合の精度もぐっと上がるだろう。」
リュークの言葉に、ルミエルはコクリと頷き、シャドウファングも静かに尻尾を振る。
三人の間に、穏やかで温かな光が灯った。
希望と手応え――戦わずして得る力と、次なる量子の扉へと繋がる確かな実感。
それは、彼らにとって新たな旅路の始まりを告げるものだった。
リュークは再び金貨の残りを見つめ、静かに決意を固める。
(次こそ……“量子の記憶”を開く。その時までに、もっと強くなってみせる)
ふと、思い出す。
あのとき、見えた映像――
“量子記憶”の断片。
触れかけた知識と記憶。それが現実だったのか夢だったのか、自分でも判別がつかない。
リュークは小さく息を吐き、ぼそりと呟いた。
「……“選ばれた者”か。何を以って、誰が選ぶんだろうな」
冗談めかして口にしたその言葉は、しかし自分自身に問いかけるような響きを帯びていた。
──“でも本当は、怖いと思ってるんじゃないか?”
──“忘れてるだけで、全部……自分が壊したものだったら?”
一瞬だけ、そんな考えが脳裏をかすめる。
けれど、答えは出ない。
だからこそリュークは、改めて強く拳を握る。
(行くしかない。記憶と向き合って、“世界のしくみ”を……暴く)
限界まで使い込まれた意識はやがて闇に沈み、リュークは自然と深い眠りへと誘われていった。
そして――新たな朝が、静かに訪れた。
次回:静かなる錬成、そして揺らぐ自我
予告:知識”が導いた成果は、希望か、それとも歪みの始まりか――
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