第72話 記憶の海と、交差する影の輪郭
宿の一室。淡い月光が窓から差し込み、部屋の空気を静かに照らしていた。
リュークは椅子にもたれながら、手元の金貨をじっと見つめていた。
ルミエルは彼の隣に座り、小さな手で金貨を一枚つまみ上げると、くるくると器用に回した。
「リューク、次はどの記憶を開放するの?」
無邪気に問う彼女の声に、リュークは少しだけ目を伏せた。
整然と並べた金貨に視線を落とし、指先でそっとその縁をなぞる。
「本当は――『量子力学の記憶』を開放したい。 君の記憶とも深く繋がっているし、何より……すごく惹かれるんだ。でも……」
リュークの言葉は、僅かに沈んだ。
視線の先の金貨は、今の状況を無言で突きつけるように鈍く光る。
「今の金貨じゃ、ギリギリ足りるかもしれない。 でも、それだけだ。そのあとの解析眼や量子視覚の開放まで考えると……資金が完全に尽きる。」
彼の言葉は慎重で、現実的だった。
ルミエルは静かに頷くと、少しだけ真剣な表情で続けた。
「うん……わかるよ。 それに、量子魔法ってただ強力なだけじゃなくて、環境や基礎も必要だもの。今のリュークじゃ、まだその“土台”が足りないかもしれない。」
「じゃあ、君ならどうする?」
リュークが素直に問うと、ルミエルはやわらかく微笑んだ。
「『化学の記憶』、どうかな?」
彼女は金貨を軽く弾ませてから、真剣に続ける。
「ポーションの調合や、毒・薬品の知識……それがあれば、戦わなくても金貨を稼げるし、私やシャドウファングの回復にも役立つ。 リューク自身の生存力も上がるよ。」
リュークは腕を組み、しばし沈黙した。
そして、瞼をゆっくり開き、まっすぐ前を見据える。
「……確かに。討伐だけじゃ金貨は不安定だ。 化学の知識があれば、戦闘以外の方法も選べる。 リスクを抑えて資金を蓄える……その上で、量子力学に挑む方が理にかなっている。」
ルミエルは嬉しそうに頷いた。
「うん、それがいいと思う。 私は急がなくても大丈夫。」
「リュークが無理しないほうが、私も安心だから。」
足元で静かに寝転んでいたシャドウファングが、まるで賛同するように尻尾を揺らした。
リュークは小さく息を吐き、決意を新たにする。
「……よし。まずは『化学の記憶』を開放しよう。資金と装備を整えて、その先で君の記憶をすべて取り戻す。必ず、量子の扉は俺が開く。」
金貨を再び手に取る。
その冷たさと重みは、今や単なる通貨ではなかった。
リュークの決意と未来への誓いが、その輝きの中に確かに宿っていた。
その夜、リュークは深い眠りの中で、奇妙に鮮明な夢を見た。
静寂――まるで音すら存在しない世界だった。
彼は何もない虚無の空間にただひとり、佇んでいる。足元も天井も左右も、全てが淡く青白い光で包まれており、時間さえも凍りついているようだった。
(ここは……どこだ?)
思考すら遅く感じる沈黙の中。
「リューク……」
唐突に呼ばれた名に、リュークは身を翻した。
そこにいたのは、シャドウファング――だが、様子が違う。
漆黒の影となったその姿は、狼の輪郭を保ちながらも揺らぎ、人語を紡ごうとするように形を変えていた。
「お前も……夢を見ているのか?」
リュークの問いは、まるで水中に沈んだようにぼやけ、音もなく空間に吸い込まれる。
その瞬間――
ヒュゥ……
空を裂くように一筋の光が現れ、そこから少女のシルエットが静かに降り立った。
ルミエル。
しかし、その瞳は今とは異なる冷徹さを宿し、万華鏡のように不気味に煌めいていた。
「ここは――記憶の海」
低く、静かに告げる声が虚無に響く。
「あなたが開放した記憶は、今も断片として漂っている。でも、まだすべては繋がっていないの。」
足元に、**カシャ……カシャ……**と音を立てて浮かび上がる記憶の破片。
研究施設、量子魔法陣、白衣の研究者たち、黒い装置、誰かの泣き声、そして――炎に包まれ焼け落ちる街。
それらは次々と現れては消え、リュークの目の前に積み重なっていく。
「……これは、誰の記憶だ?」
リュークが困惑と戸惑いの混じった声で尋ねる。
「あなたの記憶よ。そして同時に、別の誰かのものでもある。」
ルミエルの言葉は謎めいていた。
「量子の記憶は、個人を超えて交差し、繋がり合う。」
その背後で、シャドウファングの影が**ズズッ……**と音を立てて膨らみ始めた。
狼の輪郭は崩れ、鋭い爪と硬質な甲冑、長い尾を持つ異形へと変貌していく。
リュークは目を見開く。
「それは……!」
「見ろ――これが、かつてお前が戦った“核の守護者”の前身。」
ルミエルの声は静かだが、どこか哀しみを帯びていた。
「すべては繋がっている。魔法も、科学も、記憶も……」
ゴゴゴ……ッ
空間が震えた。
記憶の断片は**バラバラ……ザザ……**と砂のように崩れ去り、虚空へと消えていく。
「待て……!」
リュークは手を伸ばしたが、何も掴むことはできなかった。
崩壊する世界の奥から、最後に届いたのは――
どこか懐かしく、同時に威厳に満ちた声だった。
「目覚めよ、リューク・サーガハート……真実は、まだ始まりに過ぎない。」
その言葉と共に、世界は完全に闇に呑まれた。
リュークは、汗に濡れた額に手を当て、荒い息を吐きながら目を覚ました。
薄暗い部屋には、夜明け前の静寂だけが満ちている。耳を澄ませば、かすかに**カチ…カチ…**と時計の音が響くほどだった。
枕元ではルミエルが小さく身を丸め、穏やかな寝息を立てている。
一方、シャドウファングは窓際に佇み、わずかに開いたカーテン越しから外の闇をじっと見つめていた。
「……夢、か?」
リュークは小さく呟いた。だが、胸の奥に残るあの感覚――あの場所で見た映像や声は、ただの夢では到底片付けられない確かな痕跡だった。
その時、まるで呼応するかのように、ルミエルが瞼を開けた。
虹色に淡く揺れる瞳がリュークをまっすぐに捉える。
シャドウファングもゆっくりと首を巡らせ、ひとみを彼に向けた。
「……見たのね、記憶の海を」
ルミエルの囁きは、夢の続きを引きずるように静かだった。
リュークは無言でしばらく天井を見つめた後、ようやく重く口を開く。
「ああ……全部はわからなかった。だが――」
彼はゆっくりと上半身を起こし、夜が明けかけた窓の外を見やった。
薄明の光が、静かにカーテンの隙間から差し込んでいる。
「――あれが、俺たちの真実に続く鍵なんだろう。」
その言葉は、固い決意と同時に、自らにも言い聞かせるような響きを持っていた。
朝の光は次第に部屋を染め上げていく。だがその柔らかな輝きの中にも、これからの道の険しさを思わせる微かな影が、静かに揺れていた。
次回:記憶が語る“化学”の真実と、重なる面影
予告:知識は力となり、記憶は輪郭を帯びる――微かな違和感
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