第38話 第二の影――闇を喰らうもの
リュークは静まり返った地下水道の中、ただ一人立ち尽くしていた。
影を打ち倒したはずなのに――空気のどこかに、なおも不穏な気配が漂っている。
(……終わっていない?)
肌を刺すような冷たさが、否応なく彼の背筋を這い上がる。
沈黙の中で、シャドウファングが鼻を鳴らし、闇の奥を鋭く睨みつけた。
「まだ何かが……潜んでいるのか」
リュークは再び足元の宝箱へと視線を落とし、先ほど取り出した古びた巻物を広げる。
巻かれた羊皮紙が**パリ……パリッ……**と乾いた音を立てる。
見覚えのない古代語が綴られていたが、なぜか断片的に意味が頭へと流れ込んできた。
「……封印術。闇の者を鎮める鍵――」
読み上げる声に、自然と力がこもる。
指先が微かに震えていた。それは恐怖ではない。
ただ、この言葉が――単なる知識ではなく、この場所そのものの意味に関わるものだと確信していたからだ。
(ここは……闇を封じるための“結界”だった……)
けれど今、その封印は綻び、既に侵食が始まっている。
リュークの心に、得体の知れない不安が浮かび上がった。
「くそ……誰が、こんなものを解き放った……?」
その時――
**ヒュウゥ……**と冷たい風が、地下の闇を撫でるように吹き抜けた。
リュークの体が、無意識に硬直する。
耳の奥で――
ズズ……ズズズ……ググ……ギリリ……
粘りついた“何か”が這いずるような音が響き始めた。
空気が歪む。
「グルルル……ッ」
シャドウファングが牙を剥き、本能むき出しの緊張を漂わせる。
リュークもまた、ただならぬ空気に息を詰まらせた。
地下水道の奥――未だ見ぬ“さらに深い闇”が、そこにあることを告げていた。
「まだいるのか……!」
リュークは短剣を握り直し、背中に走る悪寒を押し込める。
だが次の瞬間――
(――違う、これは……)
空間の“何か”が、根本的に違う。
空気が、温度が、空間そのものが変質していく。
目の前で黒い靄が渦を巻き始め、
**ゴリゴリ……ギチギチ……ギィ……ギャ……**と、骨をすり潰すような音を立てて
そこに“それ”は現れた。
闇が凝縮し、肥大化し、這い上がる。
まるで**ズン……ズン……**と地を踏み鳴らすかのように、質量すら帯びた気配が迫ってくる。
その姿は、先ほどの影とはまるで異なっていた。
今度の影は、より巨大で、より濃く、より禍々しい。
全身を覆う黒煙のような靄の中から、無数の赤い目がぎょろりとこちらを覗いている。
「……なんだ、あれは……!」
リュークの喉が、乾いた音を立てる。
その存在は、まさに“闇そのもの”が意思を持って這い出したかのようだった。
その視線にさらされるだけで、**ズゥン……**という圧力が空間全体にのしかかり、思わず膝が折れそうになる。
「……強化された闇の影か? いや、それ以上か……」
呟いた声すら、自分でもわかるほど震えていた。
影は静かに腕を伸ばした。
その動きすら、**バキバキ……ズリ……ズリ……**という不快な音を伴い、壁を這う触手のような黒い線が音もなく水道の壁に染み込んでいく。
(……何だ……まるでこの空間そのものを……喰らっているような……)
じわじわと、空気が歪む。
気付けば、リュークの視界は薄暗く、息苦しさすら覚えるほど閉ざされていた。
水の音も、シャドウファングの息遣いも、遠く鈍く、まるで別の世界のように響く。
世界が――影に侵食され始めている。
(やばい……これは今までのようにはいかない……)
皮膚が粟立ち、思考が一瞬、空白になる。
直感が叫ぶ――このままでは“殺される”。
「シャドウファング、距離を取れ!」
リュークは声を荒げ、相棒に退避を命じた。
その声には、これまでのどの戦いにもなかった焦燥と恐怖が滲んでいた。
次の瞬間、リュークは爆裂玉を構える。
だが――影の動きは異常なまでに速かった。
闇の中から**ズズズッ……!**と凄まじい速度で、無数の触手が一斉に伸び、リュークの手元めがけて鋭く襲いかかる。
「くそっ!」
咄嗟に身を捻り、ギリギリでその攻撃を回避したリューク。
だが、次の瞬間――
ヌルヌル……ズズッ……
足元から這い上がってきた冷たく粘つく闇が、脛にまとわりつく。
その感触はまるで“水道の底そのもの”が生きており、リュークを引きずり込もうとしているようだった。
「っ……!」
まとわりつく粘液から伝わる熱――いや、逆に皮膚の熱を“奪っていく”ような異質さに、リュークは歯を食いしばる。
(もう――限界だ!)
背筋に突き刺さる危機感が、身体を突き動かした。
「シャドウファング、撤退だ!!」
相棒も低く**グルルッ!**と返し、即座に反応する。
リュークは身を翻し、荒れた通路を全速力で駆け出した。
「シャドウファング、来いっ!」
鋭い命令に、黒狼は即座に追随する。
その背後から――
バギィッ……ッガガッ!!
影の触手が瓦礫をなぎ払い、石の床を裂きながら猛然と迫る。
水飛沫が視界を乱し、跳ねた破片が頬をかすめた。
ズズズッ……ドドド……!
洞窟全体が軋み、影の咆哮がこだまする。
ゴゴゴ……ガギィィ……ッ!
頭上の壁面が割れ、砕けた石がぱらぱらと落ち始めた。
「まずい……このままじゃ逃げ切れない!」
リュークはとっさにポーチから爆裂玉を掴み取り、振り返りざまに後方へ力任せに投げつける。
「はぁっ――!」
ドォン!!
凄まじい爆音が狭い空間を切り裂くように響き、壁の一部が**ガガガッ……バギィィィン……ッ!**と激しく崩れ落ちた。
瓦礫がなだれ込み、触手を一瞬だけ押し留める即席のバリケードを形成する。
「今だ、走れ!!」
余波に巻き込まれぬよう、リュークは全身で駆け出した。
その背後を、黒狼が**バシュッ……!**と水面を蹴って並走する。
爆風と崩落音がまだ響くなか――
リュークとシャドウファングは、裂けた空間を抜けて、さらなる闇の奥――そして地上を目指し、ひた走る。
リュークの声に、シャドウファングが即座に反応し、低く吠えて先導を切る。
二人は狭い通路を**バシャッ、バシャッ!**と水飛沫を撒き散らしながら、必死に駆けた。
だが背後では、影がすぐさま瓦礫を突破し、**ズズズッ……ギギギ……ッ!**という、骨が軋むような音を響かせて迫りくる。
(ダメだ……まだ距離が詰まる!)
リュークは咄嗟に足元の鉄くずを掴み、曲がり角の奥へ**ガンッ!**と全力で投げた。
カーン!
鋭い金属音が洞窟中に反響し、影の触手が反射的にそちらへ逸れる。
(よし、陽動できた!)
「シャドウファング、行け!」
その一瞬の隙を突き、リュークとシャドウファングは水路の分岐へ勢いよく滑り込む。
黒狼はドンッ!**と力強く水へ飛び込み、水流を蹴って前方へ加速する。
リュークもすかさず身を投げ、水流に巻き込まれるようにして急流を滑る。
だが、緊張は解けない。
通路の曲がり角――水面に映る異形の影が、**ズズズ……**と、まるで這うように迫ってくる。
「くっ……!」
リュークは体をひねり、狭い隙間へ**ズザァッ!**と滑り込むように身を投げた。
触手が寸前で届かず、**ブシュッ!と悔しげに空を切る。
だがその反動で、リュークの足が脇の岩角にゴリッ!**と激しくぶつかった。
「――ッぐあっ……!」
鈍く響く衝撃と共に、足首に**ズキンッ!**と火を噴くような痛みが走る。
(クソ……やったな……! 折れてない、動け……!)
息を荒げながら、リュークは足を引きずりつつ、必死に這い上がろうとする。
「シャドウファング……!」
振り返ると、シャドウファングはすでに戻ってきていた。
迷いも躊躇もなく、リュークの腕に**ガシッ!**と噛みついて引き上げようとする。
「……助かった」
その必死の行動に、リュークは思わず苦笑し、顔をしかめながらも微かに笑みを浮かべた。
その瞬間――背後から、影の咆哮が**グワァァァ……ッ!!**と洞窟全体を震わせる。
まるで生きた闇が怒りをぶつけるかのような、不快な低音が空間を満たす。
リュークとシャドウファングは、全力でその場を蹴り――出口へと、飛び込むように駆け出した。
地上の冷たい空気が肌を刺し、緊張の糸がぷつりと切れる。
リュークは**ドサッ……!**と音を立てて石畳に膝をつき、肩で息をする。
胸が焼けつくようで、体中の筋肉が悲鳴を上げていた。
「……はぁ、はぁ……っ」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
シャドウファングも同じく、**ズシン……**と腰を落とし、鋭い息を吐いて隣に座り込んだ。
口から白い息が漏れ、鼻先がかすかに濡れている。
しばらく二人は何も言わず、夜の星空を仰いでいた。
街の遠い灯が滲んで揺れ、どこか虚ろで、哀しげな光を放っていた。
リュークは自分の手を見つめる。
握っていた短剣の感触がまだ残っている。
爆裂玉を投げたときの衝撃と、あの異常な空間の冷たさが、まるで呪いのように指先にまとわりついていた。
「……危なかったな……」
乾いた声で呟くと、シャドウファングが鼻先で彼の腕を突いた。
その仕草は、まるで「それでも、お前はやり遂げたじゃないか」と言わんばかりだった。
「……ああ、ありがとう」
リュークは口元にかすかな笑みを浮かべる。だがその笑みには、確かな疲労と痛みがにじんでいた。
ぐったりとした体を、意志の力だけで起こしながら、彼はようやく立ち上がる。
シャドウファングも、静かに身を震わせるとぴたりと隣に寄り添った。
二人は、外の空気がわずかに流れ込む水路出口近くの壁へと足を運び、そこにもたれかかる。
リュークの背が**ギシ……**と鳴るように壁へ沈み、深く息を吐いた。
「……ダメだ、今の俺たちじゃ倒せない……」
その声には、悔しさがにじんでいた。
握りしめた拳に、震える指先が力を込めていた。
あれは“魔物”などではない。
力任せでは届かない――異質で、絶望的で、世界の理そのものを歪ませる何か。
それを理解し、リュークは無理やりにでも納得するしかなかった。
「でも……逃げ切れた。それだけで……今は、十分だ」
彼はポーチを開き、回復用ポーションを取り出した。
蓋を開ける手が少しだけ震えていたが、構わず口に含み、一気に流し込む。
「マズ……」
舌をしかめ、思わず眉をひそめる。
けれど、体の芯からじわじわと温かさが戻ってきて、ようやく五感が少しずつ現実に追いついてくる。
(……でも、買っておいて本当に良かった)
次に、もう一本を取り出し、そっとシャドウファングの前へ差し出した。
「お前も、飲め。お疲れさま」
「……グルル」
黒狼はためらいなく口を伸ばし、瓶の縁からポーションを舐め取っていく。
しかし――明らかにマズそうな顔をしていた。
「お前もか……」
リュークは苦笑する。その笑みには、労いと絆、そして戦い抜いたという誇りが宿っていた。
シャドウファングが身を寄せて目を細める。
そこには言葉では届かない確かなものが、確かにあった。
リュークはその黒い毛並みにそっと手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
シャドウファングの体温が、掌からじんわりと伝わってくる。
その温もりが、ひどく遠く感じていた現実へ、ようやく自分を引き戻してくれるようだった。
「……お前がいてくれて、助かった」
かすれた声で、ぽつりと零す。
(限界だった……。あのまま一人だったら、きっと心が折れていた)
指先に残る震えと、剣を握っていた痺れが、それを証明していた。
背後――水道口の奥からは、まだどこかに“あの気配”が潜んでいるような、圧迫感が微かに残っていた。
だが、それはあくまで“気配”でしかない。
奴らは追ってこない――今は、それだけが救いだった。
リュークは深く息を吸い込む。
冷たく乾いた空気が肺にしみて、張り詰めていた意識をやっと“今”へと戻してくれる。
「……行こう。まずは、ギルドに報告だ」
言葉にすることで、気持ちを整えるように。
シャドウファングは、静かに尾を一度だけ振った。
その仕草には、言葉では届かない“了解”と、“信頼”が込められていた。
リュークは一歩を踏み出す。
シャドウファングがすぐ隣を並んで歩く。
傷ついた体と心を抱えながらも――二人の足取りには、確かな前進の意志が宿っていた。
夜の冷たい風が、肩に残る痛みと、胸の奥の不安をそっと撫でていく。
その風だけが、静かに「生きている」ことを教えてくれていた。
次回:報告と再調査の兆し
予告:ただの依頼では終わらない。“深淵”が彼を選んだのかもしれない。
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