第1話 恐怖と“生”の境界線(前編)
風が吹き抜ける草原を、リュークは一人歩いていた。
金色の穂が波のように揺れ、遠くの森がざわめいている。
ふと、足元に何かが引っかかった。
しゃがんで拾い上げたのは、風に吹かれてきた“紙片”だった。
古びてざらついた質感。焦げ茶色の縁。どこか、見覚えがある。
(……これ、あの時の紙……?)
だが、そこに記されていた文字は違っていた。
『君はまだ、自分が“見ている”ものを知らない』
「……は?」
思わず声が漏れた。
(こんな文じゃなかった。たしか……『世界は、すべて偽りである』って……)
裏返しても、そこには何も書かれていない。だが、違和感だけは強く残った。
(これは……本当に同じ紙か? いや、そもそも――)
紙を見つめるリュークの中で、ざらりと何かが軋む。
(俺だけが、文字の変化を“見ている”? それとも最初から――誰にも“真実の文”は見えていなかったのか?)
風が紙を揺らす。その動きに合わせて、再びあの一文が浮かぶ。
『君はまだ、自分が“見ている”ものを知らない』
まるで、それがリューク自身への問いのように。
(……この世界が、俺に語りかけている……?)
紙をそっと畳み、ポケットにしまう。
今は、それ以上を深く考えたくなかった。
だが胸の奥に、“確かな異質”だけが残った。
(スキルもレベルもない俺に――これは何を見せようとしている?)
風の中に、密度の違う層が混ざる。
目には見えずとも、確かに空気が揺れた感覚があった。
それは、何かが“起きはじめている”予感だった。
そのときだった。
ガサッ……!
茂みが大きく揺れ、低い唸り声が響く。
「っ……!」
ウルフ――。
鋭い牙を剥き、音もなくリュークへと跳びかかってきた。
ただの獣ではない。
小型ながらも、毒を含んだ牙と異常なまでに素早い脚を持つ、狩人の魔物。
(毒牙……あれに噛まれたら、命はない。絶対に……避けないと)
一瞬で、最悪の想像が脳裏をよぎる。
毒に侵され、まともに動けなくなれば――次の一撃で確実に仕留められる。
そうなれば――死ぬ。
(来る……!)
短剣に手を伸ばそうとした、その瞬間――
ギリ……ッ
リュークの全身が、まるで氷柱になったかのように固まった。
視線がぶつかっただけで、心臓がひどく跳ね上がる。
次の瞬間には、全身の血が凍りつくようだった。
背筋に冷たい棘が突き刺さる感覚。
呼吸が止まり、肺の奥から空気だけが抜けていくような錯覚。
(……動かない……っ、くそ……!)
脳が命令を送っても、身体がまるで拒絶している。
(まずい、避けきれない——!)
飛びかかる殺気は、まるで音すらも飲み込んでいた。
瞬間――時間が、ぐにゃりと引き伸ばされたように感じた。
ウルフの爪がギャッと風を裂き、視界がかすかに揺れる。
体の奥で本能が叫ぶ。
「死ぬぞ」と、耳元で誰かが囁いていた。
それでも――リュークは動いた。
本能と恐怖がないまぜになった衝動だけが、身体を無理やり突き動かす。
次の瞬間、必死に地を蹴り、転がるように身を捻った。
爪が脇腹をガリッと裂き、服が破け、鮮血が舞う。
「ぐっ……!」
生々しい痛みが脳天を貫き、視界が焼ける。
倒れた姿勢のまま、リュークは荒く息を吐いた。
耳鳴りと、鉄臭い血の匂い。
湿った土の感触と、肌を刺す冷気。
五感すべてが、死の予感に苛まれていた。
(やばい……このままじゃ……殺される)
立ち上がる間もなく、再びウルフが迫る。
耳元で、低く唸る声と共にザッザッと草の擦れる音がした。
風の流れが変わり、獣特有の鉄臭い息が背中を撫でる。
(あの牙が喉に届けば——)
その瞬間、リュークの脳裏に強烈な恐怖が焼き付く。
――“自分が終わる”
誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、この世界からただ消えるだけ。
絶望的な未来が、刹那にして意識を塗り潰した。
(……いや、絶対に嫌だ)
生きたい。
その本能が、再び身体を引き戻す。
目の端に、絡まるように伸びた蔦が映った。
考える余裕など、もはやなかった。
リュークは反射的に蔦を掴み、ウルフの足元へズシャッと投げつけた。
偶然か、必然か――
蔦は獣の脚に絡まり、一瞬だけその動きを鈍らせた。
(今しかない!)
痛む身体を無理やり起こし、リュークは短剣を突き出す。
全身の力と恐怖を込めた一撃は、まるで世界そのものを拒絶するかのように――
ブシュゥッ……!
刃が肉を裂き、ウルフは苦悶の呻き声を上げてのけ反る。
手応えは鈍く重く、生々しい感触が腕を通して脳に突き刺さった。
骨に届く寸前で止まったかのような、嫌な“震え”が手元に残る。
ウルフは本能のままに身をよじり、ギャアアッ!と絶叫にも似た声を放つ。
血飛沫がズシャッと舞い、草地を赤く染めた。
脚がもつれ、ウルフはドサッと地面に倒れ込む。
だが――その身は、わずかに痙攣を続けていた。
完全には沈黙していない。
「……ハァ、ハァ……」
リュークは息を荒げたまま、震える手で短剣を構え直す。
動きを止めた魔物を、警戒の目で睨みつける。
心臓が喉を突き上げ、足が震える。
それでも――動くしかない。
耳の奥で、鼓動のドクン、ドクンという音がやまない。
目の前の魔物が、自分の命を本気で奪おうとしていた――
その現実が、脳裏に焼きついて離れなかった。
生き残った。それだけなのに、全身が恐怖に軋む。
指先は氷のように冷え、歯の根が噛み合わないほど震えていた。
……怖い。恐怖で身体は震え、心臓は喉元を突き上げている。
けれど――心のどこかが、妙に静まり返っていた。
恐れるべきこの状況で、どこか冷めている自分がいる。
それが―― 一番怖かった。
恐れるべき時に、震えることすら忘れた――そんな異常さが、どこか他人事のように思えた。
それでも、この身体は、勝手に動こうとしている。
なぜか分からない。
けれど……誰かが「進め」と言った気がした。
それだけは、根拠もなく確かだった。
だがその最中――
身体のどこか、深い部分から、信じられない感覚が湧き上がってくる。
まるで、この“動き方”を……どこかで知っていたかのような。
(……これ、どこかで——)
その疑問に浸る間もなく、ウルフがグルルル……!と再び牙を剥いて襲ってくる。
魔物はズリッと傷ついた身体を引きずりながら、なおも本能のままにリュークへ迫る。
ウルフの鋭い爪が眼前に迫る。
その刹那、リュークの視界が歪んだ。
燃え盛る都市。崩れゆく塔。
そして、剣を構え、影と戦う“誰か”の背中。
(……この動き……誰の……?)
痛みを伴う記憶の断片が、脳裏を駆け巡る。
体は勝手に動いているのに、その記憶はまるで他人事のようだった。
「メモリ……バンク……」
喉の奥で、無意識に声が漏れた。
脳裏に焼きついた、あのノイズ混じりの少女の声。
意味は分からない。
けれど、その単語が、彼の身体から引き出される、この異常な戦闘技術と深く結びついている――
そんな確信が、冷たい汗となって背筋を伝った。
(……俺は、過去の自分は何者だったんだ? この動きは、本当に俺のものなのか?)
混乱と疑問が胸をかき乱す。だが、考える時間はなかった。
ウルフがグルルル……!と再び牙を剥いて襲ってくる。
魔物はズリッと傷ついた身体を引きずりながら、なおも本能のままにリュークへ迫る。
咆哮とともに、草を踏み分ける低音が響く。
リュークは喉の奥が締まるのを感じながらも、必死に周囲を見渡した。
(このままじゃ……正面からじゃ無理だ)
視界の端に、小石と、低木に絡まるように伸びた蔦が映る。
(……使える!)
反射的に小石を拾い、魔物の顔から少しだけ逸れた位置へ向けて全力で投げつける。
「こっちだ……!」
カツン!という硬い音と同時に、ウルフの視線がわずかに逸れた。
リュークはその隙を逃さず、素早く近くの蔦を手に取る。
掴んだそれはざらついていて冷たく、手のひらにビシビシッと痛みが走る。
一瞬の迷いもなく、彼は蔦をウルフの足元へ鋭く投げ放った。
ヒュッ……バサッ!
乾いた空気を切り裂く音とともに、蔦が獣の脚へと巻きつく。
ギチッ……バキッ!
ウルフの脚が引き攣れ、関節のどこかが軋むような鈍い音が響いた。
「ガゥッ!」
獣の喉から、怒りと苛立ちの混じった咆哮がガゥッ……!と飛び出す。
蔦に引かれたウルフの巨体が、バキッという鈍い音と共に不自然によろめき、バランスを崩す。
脚に絡みついた蔦が、強く締まり、さらに軋むような音を立てる。
ガクリッ……!
体勢を崩したウルフは、それでもなお、狂ったように跳びかかってきた。
(今だ……!)
リュークは地を蹴り、横へ跳躍。
回避と同時に短剣をギュッと握り直す。
跳躍の勢いで草地がズシャッと抉れ、身体が低く沈む。
握る短剣は、汗と血で滑りかけていたが、指に全力で力を込める。
「絶対に、倒す……!」
喉奥から弾けた声は、もはや叫びか呻きか分からなかった。
牙が目前に迫る。
リュークは全身をひねり、捻り切るように短剣を横薙ぎに振り抜いた。
グシャリィッ!
肉が裂ける嫌な感触が、ズンと手に伝わった。
ウルフがギャウゥッ!と悲鳴を上げ、そのまま地面に崩れ落ちる。
どさり
乾いた音を立て、獣の身体は動かなくなる。
もう、ただの“物体”だった。
リュークは震える足をどうにか踏ん張り、
「……勝った、のか……?」
と、呟くように漏らしながら膝をついた。
そのまま草原に崩れ落ち、座り込む。
胸が上下に波打ち、心臓はまだ爆発しそうなほど脈打っていた。
足も腕も震え、全身が“極限”を物語っていた。
これが、生きるか死ぬかの――“戦い”。
(なぜ……俺は戦えた? 初めてのはずなのに)
ステータスはレベルもスキルも“空白”だった。
経験値の概念すら見えないこの世界で、まるで最初から「戦い方」を知っていたかのように、この身体は動いた。それは本能か?
それとも――
その思考を遮るように、ズキンッ!と痛みが襲う。
脇腹に、熱く焼けるような痛み。 服の下から、ぬるりとした感触が広がっていた。 (……やばい、血が……)
手を当てると、湿った温もりがじわじわと広がっていく。
震える手で上着をめくると、鋭く裂かれた皮膚から、止まる気配のない血が流れていた。
それは、確かに“生き延びた者の代償”だった。 意識が薄れゆく中、痛みだけが現実の証明として残り続ける。
初めての戦い。
初めて、自分の手で命を断った。
そして――初めて、生きることを選び取った。
この戦いは、単なる“魔物との遭遇”では終わらない。
彼の“空白”のステータスと、無意識に引き出された力が示すのは、この世界の常識を覆す、より壮大な真実への序章だった。
次回:恐怖と“生”の境界線(後編)
予告:命の重さが刃を導く。生き残る術はただ一つ。
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