第10話 村長の語る“封印の石”と“影喰らい”の伝承
夜影獣との戦いを終え、リュークは乱れた呼吸を整えながら、そこに立ち尽くしていた。
「……倒した、はずだよな」
銀の刃をわずかに傾け、刃面に残る光の濁りを確かめる。 だが、斬ったはずの"それ"は、跡形もなく消えていた。
血も、肉片も、匂いもない。
草原を撫でる風だけが、場に薄い音を残して通り抜けていく。
(……普通の魔物じゃない)
リュークは視線を巡らせた。
光に怯え、銀に焼かれた"影"は確かに実体を持っていた――それなのに、今は何も残らない。
「影が消えただけで、本当に終わったのか……?」
呟きとともに、彼は膝を折った。
地面へ伸ばした指先が、細かい粒をとらえる。
ザラ……
「……これは?」
指先に返るのは、乾いた抵抗。
灰に似ているが、焼け焦げの温度もなく、妙に冷たい。
皮膚の内側を、氷の針のような感覚が走る。
リュークはゆっくりと指を擦り合わせた。
サラ……サラ……と黒い粉が風にほどけていく。
その消え方は、あまりにも静かだった。
光を反射せず、音も立てず、ただ"跡形もなく消える"。
(……綺麗すぎる。まるで、最初から存在しなかったみたいだ)
その時。
空気の一部が動いたような感覚がした。
皮膚の表面に、触れていない風圧が這い寄るような、ぞわりとした気配。
(……?)
月明かりの向こう、草原の端。
茂みの影が、風に揺れていた、そう思った瞬間。
胸の内に"視られている"という直感が閃く。
それは視線というより、"意識"のようなもの。
ほんの一瞬だけ、"何か"がこちらを見ていた気配がした。
黒い狼――いや、それはただの獣ではなかった。
闇が形を持ち、月光を吸い込んで立ち上がったような、影の獣。
その双眸が、僅かに銀色を帯びて、リュークを静かに見据えていた。
(あれは……)
視線を向ける前に、その影はすう……と滑るように身を翻す。
風も音も伴わず、ただ輪郭だけを残して、草原の奥――森のほうへと消えていく。
(あの狼、見たことがある……? どこで……)
記憶の靄の奥、かすかに触れたことのある感覚が胸の奥をざわつかせた。
確信には至らない。
それでも"知っている"気がした。
名も、理由も思い出せないままに。
やがて、その気配すらも消え、夜は静かに、確かに、元の静寂へと戻っていった。
リュークは、ふと顔を上げた。
空には、満月が冷たく浮かび、その光が淡く草地を照らしている。
(……こんな夜でも、世界は静かに動いているんだな)
ポケットの中の魔法灯石を、そっと握りしめる。
微かな温もりが、今の出来事が夢ではなかったと静かに語っていた。
「……村に戻ろう」
リュークは魔法灯石を懐にしまい、銀のナイフを収める。
深く息をついて、夜の静けさの中を一歩ずつ歩き出した。
村に戻るころには、すでに日付が変わっていた。
広場には淡い灯がいくつかともり、その下に村人たちの輪がうっすらと揺れていた。
「戻ったのか!」
誰かの声が上がり、人々の視線が一斉に集まる。
安堵の色と、消えきらない警戒が入り交じっていた。
一人の男が前に出る。
「……魔物は?」
「倒した」
その言葉が落ちると、ざわりと空気が揺れた。
「本当に終わったのか?」
「何か、隠してないだろうな?」
不安と疑念が混じる声が、静かな夜に滲む。
リュークは目をそらさず、左手を開いて見せた。
「夜影獣は消えた。けれど――これが、あいつの"跡"だ」
指先に残る黒い灰が、月明かりを吸い込みながら風に揺らめいた。
村人たちは息を詰めて灰をのぞき込む。
「……灰?」
「燃えたってことか?」
囁きが続くが、誰の表情にも確信はない。
その時、年配の女性が一歩前に出た。
「お前さん……その腕、血が出てるじゃないか」
リュークは左腕に視線を落とす。
裂けた袖の下で血が乾き、皮膚に貼りついている。
指に残る微かな痺れが、戦いの余熱のようにじわりと残っていた。
「平気です。浅い傷なので」
返した声はわずかにかすれていた。
女性は薬草の束を取り出そうとしたが――周囲の視線に気づき、手を止める。
他の村人たちは、誰も動かない。
リュークは、その沈黙の意味を理解した。
(命を賭けても、心までは届かない……のか)
喉の奥に、言葉にならない何かが詰まった。
胸が鈍く痛み、呼吸がほんの少しだけ浅くなる。
それでも――表情は崩さなかった。
ここで感情を表に出せば、彼らはもっと警戒するだけだ。
「村長に報告しておきます」
そう静かに告げると、血の滲む腕を気にせぬまま、
村の奥――重たい夜を背に、村長の家へとゆっくり歩き出した。
村長は、夜遅くにもかかわらずまだ起きていた。
暖炉の火は小さくなり、静かな赤を灯していたが――
彼の目だけは、鋭い光を失っていない。
「夜影獣を……討伐しただと?」
低く、重みのある声。
「ええ。やはり、普通の魔物じゃなかった。 影そのもので、光を嫌っていました」
リュークは、戦いの経緯を簡潔に語っていく。
敵の動き、影に潜む性質、そして銀のナイフと光が通じた手応え――
最後に、手のひらに残った"黒い灰"をそっと差し出した。
村長はしばし、それを見つめる。
じっと凝視した後、しわがれた声で首を振る。
「すまん。これは……見覚えがない」
「……そう、ですか」
リュークはわずかに肩を落とす。
だが、村長は顔を上げ――その表情には、迷いと、何か言い出しにくそうな色が浮かんでいた。
「……リューク。お前さんの話を聞いていて、一つだけ、思い当たることがある」
彼は立ち上がり、背後の棚へと向かった。
そして、分厚く古びた本を取り出す。
皮の表紙は擦り切れ、金属の留め具が鈍く光っていた。
パタン――。
重みのある音が響き、乾いた紙がゆっくりとめくられていく。
部屋の空気がわずかに冷たくなった。
村長は、しばらく頁を眺めてから――ゆっくりと息を吐いた。
「この村には、昔から伝わる言い伝えがある。――"影の呪い"と呼ばれているものだ」
「影の……呪い?」
リュークの眉が動く。
村長の声は、まるで長年封じてきたものを解くように低く、慎重だった。
「遥か昔、この村の夜には、得体の知れない怪異が現れた。
影のような姿をしていて、家畜を喰らい、人の"魂"を奪う――。
村人たちはそれを"影喰らい"と呼び、深く恐れていたんだ」
「……影喰らい」
リュークの脳裏に、夜影獣の黒い残滓がよみがえる。
あの異様な存在感――まさしく、ただの魔物ではなかった。
村長は本を閉じ、しわの刻まれた指で机を叩く。
「その怪異を封じるために、昔の村人たちは祠を建て、"封印の石"を祀った。
だが、時代が進むにつれ、その言い伝えも忘れられ、
封印の力も、次第に弱まっていったのかもしれん」
そこまで言って――村長は顔を伏せた。
「……わしの代で、祠を放置してしまった。
年寄りたちが『封印を守れ』と言っていたのに、わしは"ただの迷信"だと思い込んでいた」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
「村を守るべき長でありながら、わしは……怠った。
だから――お前さんのような旅人に、命を懸けさせる羽目になってしまった」
静寂が落ちる。
暖炉の火が、小さくパチリと音を立てた。
リュークは、村長の言葉をゆっくりと噛みしめた。
(この人は……自分を責めている)
「村長」
リュークは静かに言葉を紡ぐ。
「封印の石がある場所……分かりますか?」
村長は顔を上げ、驚いたように目を見開く。
「……お前さん、まだ村のために動くというのか?」
「封印が不完全なままなら……また、誰かが襲われる。 それに――」
リュークはミーナの笑顔を思い出す。
「俺自身も、確かめたいことがあるので」
村長はしばし、リュークを見つめていた。
やがて――
「……村の外れだ。小さな祠がある。
だが、あそこは何十年も放置されたままだ。
もしかすると――封印は、とうに失われているかもしれん」
村長は一度迷うように視線を落としたが、やがて顔を上げた。
「わしが行くべきなんだ、だが――この老いた体では……」
彼は深く頭を下げた。
「頼む。お前さんがいなければ、この村は救われなかっただろう。
そして、わしの過ちを……償う手助けをしてくれ」
リュークは、村長の重い決意を受け止めた。
「……分かりました。明日、その祠を調べてみます」
村長は深く頷く。
その目には、重くも確かな信頼がこもっていた。
リュークは静かに答える。
胸の奥で、かすかな灯火のように"意志"が揺らめいた。
(夜影獣は……本当に終わったのか)
(影の呪い。封印の石。そして、消えた"獣の灰"――)
思考の奥で、いくつもの疑問が絡み合う。
だが、そのすべてが次の一歩へと繋がっていた。
(この世界には――まだ、俺の知らない"何か"がある)
それを突き止めるために。
リュークは、静かに歩み出した。
村長の家を出ると、夜気が頬を撫でた。
広場には、まだ数人の村人が残っていた。
その中に、先ほどの年配の女性がいる。
「……お前さん、少し待ちなさい」
彼女は小走りでリュークに近づき、薬草の束と包帯を差し出した。
「これを持っていきな。明日もあるんだろ?」
リュークは驚いて、彼女を見つめた。
「……いいんですか?」
「わたしは、ただの婆だからね。
みんなが怖がって動けないなら、わたしが動くだけさ」
彼女はそう言って、薄く笑った。
「お前さんは、村のために戦ったんだ。
それだけは……忘れないよ」
リュークは、薬草を両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
その声は、思ったよりも温かかった。
女性は軽く手を振り、広場の奥へと去っていく。
その背中は小さく、それでも確かな温もりを残していた。
(一人だけでも、信じてくれる人がいる)
リュークは薬草を懐にしまい、夜空を見上げた。
月が、静かに輝いている。
その光の下で、リュークは小さく笑みを浮かべた。
(まだ、希望はある)
そう思えた夜だった。
次回: 封印の祠と、残る残響
予告:祠に残るのは、獣の残骸か、始まりの痕跡か。
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