5 インディの<赤>
「インディ! 放せ、この野郎!」
バージは身をひるがえすと、つむじ風のように舞台に突進した。インディの手を捉えた男の手首に飛びつき、骨も砕けよと言わんばかりの力で噛みつく。
バージの短刀がくると思っていた男は、一瞬反応が遅れた。
「うわあぁ!」
ばきっという不吉な音と激痛に、たまらずインディの手を放す。インディは手をひっこめ、数歩後ずさった。
「そこまでだな、クソガキ」
バージに一瞬遅れて追いついた首領格の男の声が聞こえた。その言葉とほぼ同時の体当たりに、バージはかろうじて身体をひねって直撃をかわす。だが、次の瞬間、彼は右の脇腹を押さえ、舞台に膝をついた。灰色の外套に赤い染みがじわじわと広がっていく。
「背後からの俺の突きをよくかわしたもんだ。かすり傷にとどめたひねりとスピードは認めてやるが、汚い戦い方に関しちゃ、まだまだだな」
「……なにを」
首領格の男は、手にしていた、太くて短く、頑丈な柄のついた錐のような武器をひらひらと揺らして見せた。
「おっと。無駄にしゃべらん方がいいぞ。しゃべればそれだけ、寿命が縮まる。まあ、五分が三分になったところで、大して変わらんのかも知らんが。それより、遺言があるなら今の内だな。この砕氷錐には馬一頭だってぶち倒せる神経毒が塗ってあるんだ。あっという間に、その減らず口もマヒして動かなくなる。俺にこの護身用の虎の子を抜かせるなんざ、お前もガキにしちゃなかなかのもんだ」
「……っざけんな」
だが、バージの黒く底光りする瞳から、急速にその光が薄らぎはじめ、その姿勢がぐらりと傾いだのが、離れたところから見ていた旅の商人にも見て取れた。
「ばーじ!」
インディが叫ぶのと、彼が倒れ込むのが同時だった。ちょうど舞台の中央、複雑な模様が床に描かれているあたりだ。黒く、わずかに赤く光る爪を模様の刻み込まれた床に突き立て、バージは必死に起き上がろうとしたが、その爪がずるりと滑る。刻まれた模様に爪がひっかかって、ぎりっと耳障りな音が響いた。
「やめて! ばーじ!」
叫び続けるインディの腕を、毒の錐を収めた首領格の男がひったくった。インディは抵抗してその場に足を踏ん張る。
「ばーじ!」
「無駄だ。手間掛けさせんな、来い!」
男が唸った瞬間、インディの瞳の色が変わった。焦げ茶色の虹彩がぐんと大きくなり、まるで鳥の眼のように、白目が見えなくなる。それと同時に、焦げ茶がほとんど黒に近くなるまで、その色は深く、澄み通っていく。その底に燠火のように光る、赤い光。
「まずい。インディの<赤>だよ!」
旅の商人の隣で、勘定台の老婆が叫んだ。
「逃げるんだ!」
その声に、凍りついたように事態を見守っていた客たちが動いた。各々が身を潜めていたテーブルの後ろや柱の陰から、垂れ布が切り飛ばされた入り口に殺到し、見張りに立っていた黒服を突き飛ばすように、我先に店の外へと転がり出ていく。
「ぼけっとしてんじゃないよ! こっち!」
呆然と立ち尽くしていた旅の商人は、老婆に二の腕をひっつかまれ、厨房側の出入り口に転げ込んだ。
振り返った商人の目に、最後に映ったのは、いつの間にか黒服の男たちの腕を振りほどいた娘の姿だった。先ほど、青白い光と戯れるように歌い踊っていた時と同じように腕を広げ、口を開いている。だが、床の模様は、今度は赤い光をにじませていた。
娘の口から、人間に聞き取れる限界か、おそらくそれより高い音階の絶叫がほとばしった。
床の精緻で複雑な模様の上に、深々と三本、えぐれたような傷跡ができている。その傷跡から、インディの絶叫に呼応するように真っ赤な光がみるみる溢れ、ほとばしっていた。その三本の傷跡は、ついさっき、立ち上がろうとして床に倒れ伏したバージの爪がえぐったものだ、と商人は気が付いた。
「早く出るんだ! 世話の焼けるやつだね」
老婆にぐいぐいと引きずられ、商人が厨房の裏口から店の外に出た瞬間、酒場の天幕から真っ赤な光の柱が轟音と共に立ち上った。だがそれも、雷のように、一瞬で消えた。次の瞬間、木材で組み上げられたその骨組みが、まるで積み木細工を指で押したようにがらがらと崩壊していく。
ほんの数秒で、酒場の天幕は完全に崩れ落ち、梁と柱と天幕布が無秩序に積み上がった、がれきの山と化した。もうもうと埃がたち登る。
「あの子たちは……、インディとバージは?」
あの位置からでは、店外に逃げ出す時間はなかったはずだ。この倒壊に巻き込まれていたらひとたまりもないだろう。
旅の商人は、初めて見掛けてからほんの数十分間の彼らしか知らない。だが、彼は言い知れない喪失感を感じて立ち尽くした。
「さあね、どっかその辺に埋まってるんだろ」
呆然とした商人のつぶやきに、老婆は興味もなさそうに冷たく肩をすくめると、すぐにがれきの山によじ登り、かき分け始めた。
「ああ、あったあった。これは迷惑料だね。これっぽっちじゃ、天幕を立て直すのには足りないけど」
老婆が埃まみれになりながら引っ張り出したのは、先ほどの男がテーブルに投げ出していた金の袋だった。
「あ、ゴミムシ野郎、こんなところにいた」
そのすぐそばに、体半分、がれきからはみ出すようにして倒れていた黒服の男を見つけて、老婆は容赦なく蹴りつけた。悶絶するようなうめき声が返ってきたあたり、命に別条はないらしい。
「おお、こりゃ足かな。折れてるね」
ふん、と老婆は鼻を鳴らすと、群衆を振り返った。
「おーい、誰か自警団を呼んできておくれよ。人さらい未遂の現行犯! 証人はそこら中にいるだろ。さあさあ、うちの店員は店の片付けだよ! 客でも、手伝ってくれた人には、明日の夕食の食券をサービスするけど、やってくれるかい」
我に返ったように、周囲の人々が動き始める。
商人は辺りを見回した。舞台のあったあたりに、そこだけ偶然のようにぽっかりと、柱や梁が落ちてこず、天幕の布だけが落ちている空間があった。
誰も、あの子たちのことを心配していない。捨て子と流れ者だと言っていたが、それでも、ついさっきまでそこで楽しそうに食事をしていた二人なのに。
どうにもやるせなく、不憫に思いながら、商人は、それでも店の片づけを手伝おうと、その布に手を伸ばした。