3 ミツオシエの歌
とん、ととん。とん。
インディの足が、ゆるやかなステップを踏み始めた。裸足だが、舞台の板はそのリズムに合わせて軽やかに音を響かせる。
ちりり、ちり。
ステップに合わせて、鈴の音が混ざる。リズムは複雑だが、一定のパターンを繰り返し、奏でられ続けた。客席にうねるようにリズムが広がり、沁みとおり、観客たちの鼓動まで支配するのではないかと思われたその刹那、インディは口を開いた。
先ほどまでのしゃがれ声とはうって変わった、澄んだ声が響き始める。翼を広げるように、インディはショールを持ったままの両腕を広げた。
歌詞はない。旋律だけが、高く低く、複雑な足のリズムに合わせて紡がれていく。
観客の誰かがほうっとため息をこぼした。
その空気の震えもまた、インディの声のうねりにとりこまれて、一つになっていく。
陶酔したように目を閉じて、上半身を揺らすもの。両の手をぎゅっと握りあわせ、食い入るようにインディに見入るもの。その場に居合わせた客は、思い思いにそのひとときを味わっていた。
常連なら知っている。インディの歌に『もう一度』はない。
いつも違う旋律、違うリズム。インディの舞台は、その時、その場で、大地に宿る偉大な力がインディの身体を揺らして奏でる、二度と再現できない時間なのだ。
舞台に描かれた、いくつもの円や直線を組み合わせたような複雑な模様が、インディのリズムと旋律に合わせて拍動するように強く弱く明滅した。青白い光は、こんな場末の酒場の舞台には不釣り合いなほど精緻で美しかったが、インディの歌唱にはこの上なくよく釣り合っていた。
インディの足が刻むリズムが、少しずつゆるやかになっていく。声のトーンも、静かに下がり、穏やかになっていく。
全ての音が止まって、静寂が訪れた。舞台を彩っていた光もいつの間にか消えていた。店の入り口に掛かった垂れ布を揺らすかすかな風の音さえ聞こえそうな一瞬ののち、インディは再び、深く頭を下げた。
割れんばかりの拍手が起こる。
魔法から醒めたように、客が、一斉に興奮気味にしゃべり始めた。
「インディちゃん、最高だったよ!」
「いやあ、いい夢を見られそうだ」
「今日ここに来ることに決めたのは、精霊様のお導きだったんだなあ」
「あの子がここで歌ったのは何か月ぶりだい?」
「これだから、この酒場から他へ移れないんだよ」
だが、舞台を下りたインディは、そんな賛辞には一切耳も貸さず、まっしぐらに元いたテーブルに駆け戻った。
「ばーじ」
満面の笑顔で、頬杖をついて一部始終を眺めていた連れの少年に飛びつく。
「できてた?」
「うん、インディ、今日も完璧。最高」
ぺろりと口の端をなめて言うと、彼は歌姫の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
◇
「見事なもんですなあ」
勘定台の近くの席では、いつの間にか空になっていた麦酒のコップをテーブルの奥に押しやって、旅の商人がため息をついた。
「王都の一流のオペラハウスにだって、あれだけの舞台をつとめられる歌姫も踊り子もいやしませんよ。なのに、あの子は歌いながら踊って、この広間全体を自分の舞台に変えてしまった。あれは即興ですね? あれだけの才能があれば、引く手あまたでしょう」
彼は、王都風の発音で、勘定台の老婆に話しかけた。地元のことを聞かせてほしいと、わざわざ、人の出入りが激しく落ち着かない勘定場の近くの席に陣取り、うっとうしがる老婆にめげず、彼女の暇を見計らってはあれこれと話しかけていたのだ。
「おあいにく様。あの子はうちの専属さ。この街から出てはいかないよ」
つっけんどんに老婆が言う。
「それはもったいない! そりゃあ、あれだけの歌姫がいる、しかも気まぐれにいつどちらの店で歌うかわからない、となれば、この酒場も、表通りに面したあっちのこぎれいな方のサロンも、客の入りは保証されたようなもんでしょう。それでも、この辺のお客さんの懐具合から言えば、そうそう高い食事も出せないですよね。あの子の歌が確実に聞けるなら、その十倍は出そうという客は王都にいくらでもいる。彼女はもっと稼げる子ですよ。もっとも、あんな年下の恋人がいるんじゃ、オペラハウスのオーナーは嫌がるかもしれないがね」
商人は興奮したように言った。老婆が経営する食事屋は二店舗。上流階級の人間や裕福な町人を主な客筋とする、半個室の多い上品なサロンと、労働階級の客が日々の食事や一杯の酒を求めてくる、こちらの簡易食堂だ。サロンの売店に卸す、王都からの高品質な化粧品や石鹸の商談をまとめたばかりだった商人は、インディが時折、この店とサロンの舞台で歌うことを噂に聞いていたのだ。
「あの子は日々の食べ物と寝る場所さえあればいいのさ。あとは、あのバージさえいればね」
老婆は切って捨てるように言って肩をすくめた。
「ミツオシエの加護持ちねえ、本当にいるんだな。歌の才能は生まれたときから約束されたようなもんだ。あの子、家族は?」
「インディは捨て子だよ。バージも、ほんの子どもの時にここに流れ着いたんだ。都じゃどうか知らないが、この辺じゃ珍しくもない。ああ、育ての親と身元保証人はあたしだから、親に金を積めば手放すだろうとか、身寄りがないならさらっちまおうとか、つまんないことは考えるんじゃないよ」
先回りして釘をさす老婆に、商人は慌てたように顔の前で手を振った。
「そんな、滅相もない。私の仕事は信用第一です。人さらいや人の売り買いはしませんよ。精霊の加護持ちは家系だと聞きますからね、同じように歌の上手い姉か妹でもいりゃ、都に興味があるかなと思っただけです。どうやら、そっちも無理そうだね」
商人は、離れたテーブルに目をやった。
ミツオシエは、このあたりに多く見られる野鳥だ。蜂蜜や蜂の幼虫を好んで食べるが、力が弱く自分では蜂の巣を壊せないため、アナグマや人間に蜂の巣のありかを教え、種族を超えて共同で狩りをする。その野鳥の精霊が、あの少女の家系に加護を与えているという。
ミツオシエの加護持ちの娘は、狩人を魅了する甘い蜜にも例えられる、とろけるような天上の歌声を持つと言われ、都でもその素晴らしさは多くが知るところだ。だが、精霊の加護という考え方自体、王都ではもはや迷信、俗信のたぐいだと思われて、素晴らしい歌姫の才能をたたえる比喩としてしか使われていなかった。
インディのほっそりした華奢な体格に、重さを感じさせない踊るような足取りは、まさに鳥を思わせた。
今、彼女は、バージに嬉しそうに何か訴えかけている。
バージがうなずくと、インディは再び、かかとに羽が生えているのではないかという軽やかさで舞台に戻った。めったに見られないインディの二曲目に、客席が再び、わっと湧く。
その時だった。
「おい、ちょっと邪魔するぜ」
入り口の垂れ布がばさりと切って捨てられた。どっとなだれ込んできた五人の黒服の男たちは、剣呑な気配を隠しもせず、辺りを見渡した。