2 天幕街の用心棒
少年が、奪った短刀を振りかぶったその時だった。
「ばー、じ」
しゃがれたような、ガサガサと耳障りな声が二人の間に割り込んだ。
あの、粗末な身なりのやせた娘だった。細く真っ白な指が少年の外套の裾をつかむ。彼女は少年を見つめていた。眉をひそめて、首を横に振った。
ふん、とつまらなさそうな鼻息を吐き出すと、少年は振り下ろすナイフの軌道を変えた。ずんと背中を掠める衝撃に、トムは息をつめる。だが、予期していた激痛は訪れなかった。
「しょうがないな。お前もこれで勘弁しといてやる。二度とこの通りに来るなよ。来たら次は、もっと大事なものを失くすことになる。金輪際、ナンパなんてできなくなると思うよ」
緊張の糸が切れ、トムの意識は遠くなっていった。ずるっと、腰のあたりで何かがうごく感触がしたが、トムがその正体に気が付くのは、明け方、目が醒めてからのことだった。
◇
「おばばー、今日はゴミ掃除、二本。これでこの前の夕飯のツケを払っても、今日も食えるだろ」
娘を連れて酒場の天幕の入り口をくぐった少年は、勘定台に座ってにらみを利かせていた老婆の前に、中途を切ってむりやり引き抜いたベルトを二本投げ出した。ベンとトムから奪った安物だ。
「ふん、バージかい。まだ、インディに手を出そうなんて物知らずがいたとはね」
「こいつら、新参でしょ。警告しても引かなかったし。大方、近くの町でインディの評判を聞きつけて来たんだろうけど、えげつない獲物持ってた。こんなの、木戸番が町の門を通しちゃダメじゃんか」
呆れたように、バージと呼ばれた少年は眉をひそめつつ、トムから奪い取った刃こぼれだらけの短刀をベルトの横に無造作に置いた。
「オレは、外套があるからいいけどさ。普通のやつじゃ死ぬね」
灰色の外套をこれ見よがしにはたいて見せる。その左脇腹の背側あたりには、わずかにかぎ裂きになった跡があった。正面からトムの必殺の突きを受けたときに、身体をひねって受け流した位置である。
「ろくでもないね」
「通りの掃除屋としちゃ、大手柄だろ。なあなあ、この短刀で、ベルト七本分にしてよ」
「七?! 欲張るんじゃないよ。天幕街の用心棒予算だって、無限じゃないんだ。いいとこ、五だね」
「ええー、ケチ」
「いやならいいんだよ、この錆と刃こぼれだらけの短刀じゃ、質屋の親父だってびた一文出さないだろうが、持って帰って好きにしなよ」
「うーん、じゃあ、六」
「五。これ以上手間かけさせるんなら、四」
「もう。おばばの意地悪。いいよ、五で」
「五にしたって、お前も命拾いしたじゃないか。それで今週いっぱい、食えるだろ。片付けたごろつきのベルト一本で夕食一回の約束なんだから。そろそろ、用心棒代以外の食べ方を見つけないと、干上がっちまうよ」
老婆は少年の投げ出したベルトを足元の屑籠に放り込むと、帳面に何事か書き込んでから、厨房に向かって大声を張り上げた。
「おい、今日のスープにパン! バージに出してやんな」
勝手知ったる店内とばかりに、すいすいとテーブルの間を進んだ少年は、広間の片隅の狭いテーブルに陣取った。外套のフードだけを脱いで背に下ろす。
その髪は、不思議な色あいをしていた。頭頂部のあたりは銀がかった灰色。こめかみのあたりからほとんど水平に、白に近いプラチナ色の毛の筋が、ぐるっと後頭部まで取り囲んでいる。その下、耳元からえりあしの髪は、夜の闇のように真っ黒。都から離れたこの辺境の地でも、二色の髪を持つ人間でさえそう多くない。ましてや、彼のような三色髪はごくまれだ。だが、酒場の人間にとっては、もう見慣れてしまった光景であるらしく、無愛想な給仕の少女が物も言わず、視線もろくにやらずに、彼の前にスープの椀とパンかごをどんどんと置いて去っていく。
「インディ。手、見せてみろ」
少年は、料理には目もくれず、連れの娘に要求した。彼女の方がやや年上に見えるが、しぶしぶと言った様子で両手をテーブルの上に出す。
「ほら、あざになってるだろ。だから、中で待ってろって言ってんじゃん。いくらオレが掃除したって、あーいうのは次から次に湧いてくるんだから」
給仕の少女が食事と一緒に置いて行った清潔な手拭き布で、バージと呼ばれた少年は汚れてあざのできた娘の手首をそっと拭いた。泥汚れを落としてみると、それでも、あざはさほどひどくはなかった。ほっとしたようにバージは外套のポケットから小さな壺を取り出し、中に入っていた軟膏を塗る。
「だっ、て」
なすがままにされながら、娘は頬をふくらませた。
「おそ、か、った。ばーじ、こなくて、しんぱい」
「ほんのちょっとだろ。口入れ屋の親父に、なんか仕事ないか聞きにいったら、ぎっくり腰だって言うからさ。とりあえず、食うもんだけ買ってきてやって、隣町に嫁にいった娘に伝えてくれろって、明日牛乳配達に行く牧場のゼータ爺に言伝てしにいってたんだ」
「また、けんか、してるかって」
「しないよ。俺のはケンカじゃないの。いい加減、覚えろ。お前を連れて行こうとするやつらを諦めさせてるだけ。だから、お前はちゃんと危なくないところで待ってないと、オレの仕事が増えるの」
「いんでぃ、いかない。どこにも」
「わかってるよ。だからだろ」
バージは、インディの頭を撫でた。ぎゅっと髪を引き結んでいたリボンを解く。ふわっと、くせ毛が肩から背中に広がった。
「インディ、こっちのほうが似合うのに。飯、食った?」
インディはこくんとうなずいた。その髪に指を通して滑らせながら、満足そうにバージはうなずく。
「インディはちゃんと食べないとな。そんなに細かったら、ちょっと風邪ひいたらぶったおれちまうもん。なあ、なら、オレが食ってる間、一曲だけ歌ってよ」
インディの頬にぱっと血の気が上がった。嬉しそうにうなずく。
所狭しと並べられた客席の机や椅子、歩き回る給仕や客の間を敏捷にすり抜け、インディが駆け寄ったのは、店の片隅にある小さな舞台だった。
かぶっていたショールを解いてゆったり肘にかけ、スカートのポケットから出した小さな鈴を細い組みひもで両の足首に結わえると、インディは全身の調子を確かめるように、ぴょんぴょんとその場で軽く二、三度、飛び跳ねた。足の鈴がちりちりと鳴る。
そんな様子を見ていた常連客は、わっと湧いて手を叩いた。
「今日はインディちゃんの歌が聞けるのか」
「ラッキーだな」
そんな囁き声が口々に交わされる。バージは、豆と臓物のスープをがつがつと口に運び、パンをちぎって口に押し込みながら、満ち足りた顔で舞台を眺めていた。
インディは、すっと舞台の中央に立つと、客席に向かって深く頭を下げた。それを合図に、しんと客席が静まり返った。