1 ごろつきはやせた娘を狙う
「おい、そいつだ、ベン」
すこし離れた所から飛んだ野卑な声に、すすけた灰緑色のショールを頭からかぶって、顔だけを出すように上半身に固く巻きつけた娘は、怯えたように身を強張らせて、周囲を見渡しながら後ずさった。
ショールも、その下から覗く焦げ茶色のスカートも、きちんと洗って丁寧につくろわれてはいるが、古く、あちこちに擦り切れたような生地の傷みや色褪せが見てとれる。その隙間からわずかにのぞく顔面や手足の肌は雪のように白い。
「本当に? この地味な小娘かよ」
ベンと呼ばれた男は、鋭く飛んだ声に応えて娘の前に身体を割り込ませ、大通りに逃げられないようににじり寄った。半信半疑の声をあげた彼自身もまた、うらぶれた身なりをしていた。こちらは清潔感のかけらもない、油じみて元の色もよくわからなくなったシャツに、ごわごわと固そうな生地のつなぎ。
むき出しの土の上に簡易な天幕で作られた飲食店が多く立ち並ぶ街の一角は、人通りも多いが死角も多い。娘が追い込まれた一隅は、ちょうど、通りを行き交う人々からは目につきにくい位置だった。
夕食時をやや過ぎた頃合いで、街路は賑やかなざわめきであふれかえり、肉や野菜を煮炊きする匂いや、油の匂いが立ち込めている。柔らかい月明りよりも、辺りの店が軒先に吊るすランプの陰影が濃く、ゆらゆらと伸び縮みする影はかえってその一隅で動くものに対する感覚を鈍らせていた。
娘が悲鳴の一つも上げれば、周囲も異変に気が付いたのかもしれない。だが、彼女はいやいやをするように頭を横に振るものの、その喉からはなんの声も出なかった。
彼の声に応じるように、最初に声をあげた兄貴分らしいもう一人が近寄ってきた。兄貴分は、乱暴に娘の頭からショールを後ろに引き下ろし、その顔をじっくり覗き込んだ。無造作にひっつめ、後頭部でぎゅっとくくった髪は、地味な灰茶色に、ところどころ淡いクリーム色の房が混ざる二色髪だ。耳の後ろには、くすんだオリーブ色の鳥の羽が、飾り櫛を差したようにのぞいている。化粧っけはまるでなかったが、自前の色らしい珊瑚色の唇が唯一の彩りだった。
糸を引きそうなねっとりした視線に、娘の表情が更に強張った。
「ああ、間違いない。灰茶の髪に、白い差し毛。こげ茶の瞳。耳の後ろの飾り羽。ミツオシエの加護持ちだ。おい、連れて行くぞ」
兄貴分は、娘の二の腕をひったくるように取った。娘は、やせた全身で抵抗して後ずさった。声をあげようと口を開くが、その喉からは、かすれたかすかな声しか出ない。
「トム兄貴、ホントにこんなやせっぽちのチビが、舞台に上げると絶品の声で鳴くのかい。信じられねえけどなあ。歌姫っつったら、もっとこう、胸も尻も、ボーンって感じだろ。間違ったのを連れて行きゃ、親分にしこたま殴られるぞ」
「四の五の言ってねえで仕事をしろ」
弟分の男は半信半疑だったが、兄貴分に凄まれて反対側の腕を取った。娘は、罠にかかった野生の獣のように身体をまるめ、全身の筋肉を突っ張らせて抗った。その足が、必死に踏ん張った拍子に、酒場の裏口に積み上げられた空き瓶の木箱に当たる。
がしゃん、と鋭い音を立てて、木箱の一部が倒れた。辺りに、数本の空き瓶が転がる。
「こいつ……!」
逆上した弟分がこぶしを振り上げたそのときだった。
灰色の影が飛び込んできた、と思った次の瞬間にはもう、娘は男たちから引きはがされて、安全な天幕の際に軽い力で押されていた。弟分は、灰色の影に翻弄されるように身体の向きを反転させられ、背中に強烈な一撃を食らって、踏み固められた赤土の地面にどうっと倒れ込んだ。娘の二の腕をつかんでいたはずの腕は、だらりと不自然な角度にねじ曲がっている。
「おわあっ?!」
「何やってやがる」
兄貴分は、弟分の醜態に舌打ちした。倒れた弟分よりも、飛び込んできた影に注意を向ける。
「おじさんたち、こいつに手を出すとか、いい度胸してんじゃん」
低い姿勢で抜け目なく二人に視線を配りながら、すばしっこい影――灰色のだぶだぶの外套に身を包んだ少年は、外套の大きな頭巾の下で、ふてぶてしく笑った。
「へっ、なんだこのチビ。とっととママのところに帰れよ。邪魔すんじゃねえ」
どうにか起き上がった弟分がすごんだ。左手には、どこから取り出したものか、威圧的に反り返った大ぶりの短刀が握られている。右手はだらりと身体の横に下げたままだったが、どす黒い色に変色して腫れあがりつつあった。
「さっきはちょっとビンに足を取られたがな。勘違いすんなよ。この裏通りは、おめえみたいな小便くさいガキが来るところじゃねんだよ」
「おじさん、気が付いてないの。自分がビンを踏んだかどうかも分かんないわけ。踏んでないよね。その見た目でもうボケてるとか、むしろちょっと気が早すぎるって」
少年は落ち着いた口調で、弟分に軽く顎をしゃくってみせた。視線は、兄貴分の動きにくまなく注意を払ったままだ。
「なんだと!」
「その右腕はオレに折られてるし、背中には俺の長靴の跡がばっちりついてる。それどころか、ほら。早く着替えないと、そんな粗末な下着を見せびらかしてたら、この通りでナンパなんか二度とできなくなるだろ」
「何、訳の分かんねえこと言ってやがるこのガキ!」
挑発に顔を真っ赤にして、弟分が大きく一歩踏み出した時だった。彼が身にまとっていたつなぎの肩紐が切れ、半身を覆っていた布が頼りなくずるりと地面に落ちた。ご丁寧に、腰のところで締めていた革のベルトも切断され、足元に放り出されている。
騒ぎに気が付きはじめて、遠巻きに見ていた周囲から、失笑がこぼれた。
真っ赤になって短刀を納め、縦じまの下ばきを隠すようにつなぎのズボンを左手で抱え込んだ弟分は、「覚えてろ!」と実に古典的な捨て台詞を残してその場から走り去った。
「お前、チビにしちゃ、なかなかやるじゃねえか」
兄貴分は片頬をゆがめた。
「ベンよりは使えそうだな。こんなところでつまんねえ正義感なんか出してねえで、おれんとこに来いよ。毎日、飯を食って酒が飲めるぜ。こっちの言う通りの仕事をすればだがな」
「おあいにくさま。飯は間に合ってんだ。それより、そっちこそ、こんなところでそのつまんない面さらしてないでとっとと帰れよ。通りの迷惑だろ」
フードの下から、少年は答えた。
「ああ、片付けがすんだらそうするぜ。おちょくった真似しやがって。大人の邪魔してんじゃねえぞ」
言うが早いか、トムは腰のベルトのところに挟んでいたナイフを鞘から抜いた。腰だめに構えるやいなや、灰色の外套の少年の腹辺りを狙ってぐいと押し込み、ねじる。内臓をかき回し治癒を困難にする、彼の自慢の技だった。これまでに、不意打ちでこれを食らって、立っていられたやつはいない。
「持ち帰れないものは片付けていく趣味でね」
うそぶくと、彼は、酒場の天幕にへばりつくようにして、事態の成り行きをじっと見守っていた痩せた娘に、ナイフを持っていない方の手を伸ばした。
その瞬間、彼は聞こえるはずのない声を聞いたのだ。軽やかに笑いを含んだ、まだほんの少し子どもの気配を残す甘いテノール。
「だから、こいつに手を出すなっつってんじゃん」
彼の視界で、灰色の雲が一瞬形を結び、そして再び消えた。
「うおっ!」
気づいたときには、彼はひんやりした赤土に頬擦りしていた。立ち上がろうととっさに地面についた両の手首に激痛が走る。
「ふうん。このナイフ、刃こぼれだらけだ。しかも、ご丁寧にわざと刃こぼれを立ててあるね」
再びヒトの形をとった灰色の塊は、トムの目と鼻の先に転がっていた、彼自身の短刀を拾い上げる。少年は本当に雲に変化しているのではない、と、彼はその時にようやく気がついた。瞬間的に動きが加速するので眼が追い付かないのだ。
「これを突き立ててぐりっとやったら、痛いよねえ。傷口がズタズタになるから治らなくて、悪い風が吹き込んだら、そこから傷が腐って死んじゃうかも」
少年はナイフに指の腹を軽く滑らせて、感心したように言う。
「おじさんが工夫したの? これ。すっげえ。ねえねえ、おじさんの腹で試してみていい?」
「ひっ」
地面に這いつくばったトムの角度からは、初めて、少年の眼が見えた。見たこともない、燠火のような赤い光が奥底で揺れている、ほとんど闇色の瞳。
それは、『向こう側』の見える窓だった。トムのささやかな想像力が及びもつかないような、苦痛も怒りも破壊衝動も愉悦も全てが桁違いの強度で同居する、この世のものではない色。
それが、にいっと笑みの形に歪んだ。
本気だ。なんのためらいもなく、遊んでいる子どもが逃げるバッタを踏み潰すように、こいつは刃を振るうだろう。
彼は直感した。
「たのむ、それだけは」
「だっておじさん、さっき、本気でオレの腹にやったじゃん」
「そ、そうだ。なんであれが効かないんだ。ば、化け物め……!」
彼は逃げ出そうとしたが、腰も膝も、がくがくと彼をあざ笑って、まるで言うことを聞かなかった。這いずって逃げようにも、両の手首は脳髄に直接繋がったかのようにずきずきと激しい痛みをまきちらしている。ナイフを持っていた右手も、娘に伸ばした左手も、瞬時に骨を折られたのだ、と、遅まきながらようやく彼は気が付いた。
そんな様子をニヤリと笑って眺めていた少年は、おもむろに刃を振りかぶった。
一日に2話更新、全6話の予定です。お気の向くペースでお付き合いいただければ幸いです!