最終話
公園を後にし、再び歩きだした僕は喉が乾いていることに気が付いた。
(そうだ。もう一度、大西に寄ってみよう)
ふと、そう思いついた。室伏さんも「味の大西」に行くと言っていた。もしかしたら会えるかもしれない。
いつの間にか、速足になっていた。
信号の角にある「味の大西」の自動ドアをくぐると、お店のお兄さんが「いらっしゃい」と元気な声を掛けてくれた。昼間と違い、客はまばらだ。
「あれ、お兄ちゃん、昼間も来なかった?」
お店のお兄さんは客の顔をよく覚えているらしい。
「今は空いているから、テーブルでもカウンターでもいいよ」
僕は奥の座敷を覗き込んだ。思った通り、そこには澤井さんと柏木さん、それに室伏さんがいた。みんなチャーシューや手羽先をつまみにビールを煽っている。
「先程はどうも」
僕が声を掛けると、真っ赤な顔をした室伏さんが、人懐っこい顔で手招きをする。
「こっち、こっち」
「混ぜてもらってもいいですか?」
「もちろんですとも」
澤井さんが爽やかに笑った。
「お兄ちゃん、何にする?」
お店のお兄さんが注文を聞いてきた。
「焼酎をもらおうかな」
「割るものは?」
「いらない」
「じゃあ、氷と水でいい?」
ここの焼酎は酒屋で売っているようなカップの焼酎をそのまま出す。それを自分の好みのもので割って飲むのだ。
親父はいつもカップのまま、一杯目はグーッと飲み、二杯目からはチビチビと飲んでいた。
「今日はどうもありがとうございました」
僕は正座をし、改めて澤井さんたちに頭を下げた。彼らにはいくら感謝の意を表しても限がない。
「いいんですよ。これが私たちの仕事ですから」
澤井さんがにっこり笑って言った。最初に彼から電話が掛かってきた時との距離は確実に縮まり、旧知の仲のように思える。柏木さんも室伏さんもそうだ。
それにしても、このような仕事をしている人がいたとは正直なところ驚いた。公務員とは部屋の中で書類を書いているものばかりだと思っていた。しかも、澤井さんの顔に悲壮感は漂っていない。
「いやー、今日の片付けはしんどかったけど、良かったなあ。こうやって息子さんも来てくれたし」
柏木さんが真っ赤な顔をして笑った。彼の顔も爽やかだ。
「終わり良ければすべて良し、ですね」
室伏さんが振り向き様にビールのおかわりを注文する。
程なくしてビールと焼酎が運ばれてきた。
「じゃあ、改めて献杯」
僕は焼酎のカップを、三人はビールのグラスを掲げた。
僕は焼酎に映る自分の顔を眺めた。自分で言うのも変だが、憑き物が取れたような、晴れやかな顔をしている。
(お父さん、もう許してやるよ)
心の中でそう呟くと、僕は焼酎をグラスに空けることなく、カップのままグーッと飲み干した。
「おお、やるねえ」
僕が焼酎を飲む様を見て、柏木さんが驚いたように言った。
「親父がよく、この店でこうやって飲んでいたんですよ」
「なるほど、お父さんに捧げる一杯ってわけですか」
柏木さんが微笑んだ。
「すみません。焼酎のおかわりと、おしんこ、チャーシュー盛り合わせに手羽先八本!」
僕はお店のお兄さんに大声で注文した。
「今日は私がおごりますよ」
僕がそう言うと、三人とも一斉に首を横に振った。
「だめだめ。今は厳しいんだから。収賄でクビになっちゃうよ」
室伏さんが少し呂律の回らない口調で固辞した。
「そうそう。町の年間予算くらいの札束ならともかく、ビールとおつまみでクビになったらつまらないもんね。割り勘ね、割り勘」
柏木さんも同調する。
「一層のこと、県の年間予算くらいにしたらどうですか?」
澤井さんが苦笑して言った。一同で大笑いする。
そこへ焼酎とつまみが運ばれてきた。僕は焼酎をチビチビと啜り始めた。
「さっきの勢いはどうしたんですか?」
室伏さんが冷やかすように笑った。特に悪気があったわけではないことはわかっている。
「親父はね、二杯目からはチビチビやっていたんですよ」
「そうでしたか」
僕は先程からあまり喋らない澤井さんの顔を見た。彼は冗談話を交えて、笑う柏木さんと室伏さんを見てニコニコしながらビールをチビチビと飲んでいる。
「澤井さんのお仕事って辛くありませんか?」
「そりゃあ、辛いことの方が多いですね。よく苦情も言われるし、時には体を張ることだってあります。仕事の九割は苦しいかな」
それでも澤井さんは笑顔を絶やさない。
「よく続けられますね」
僕は真剣な顔をして澤井さんの目を覗き込んだ。だが彼の目は優しそうに笑っている。
「ふふふ、今回みたいなことがありますからね。だから続けたくなるんですよ」
澤井さんの目はまるで僕に感謝をしているようだ。感謝をしなければならないのは僕の方なのに。
「どんな仕事でも、真剣に打ち込めば辛く、苦しいものですよ。家族や守らなければならないものが増えれば肩にその分、余計な重みも加わるし」
澤井さんのその言葉に、製鉄所の仕事が重なる。それは柿澤先輩の仕事の哲学に似ているような気もする。
そしてフライパンで決意した新しい自分。
(明日からの俺は違うぞ!)
そう自分に言い聞かせる。
「人だって、この混沌とした現代で生きていくのは大変な状況ですよね。バブルが崩壊してから保護率も上がりましてね。今は横ばいですが、全国平均でも百人に一人くらいは生活保護を受けている計算になるんですよ」
「そ、そんな数になるんですか。で、湯河原はどうなんですか?」
「まあ、これ以上のことは私も守秘義務や町のことがあるので言えませんが、それだけ貧富の格差が拡大し、低所得層が多いってことですよ」
僕は摘まみかけたチャーシューを口に運ぶのも忘れ、澤井さんの話に聞き入った。
湯河原町の保護率を調べることなど、統計の数字を見れば一目瞭然だ。それでも彼が言葉を濁したのは、父を通じて生活保護に片足を突っ込んだ僕と、町のイメージへの配慮なのだろう。
ただ、今の僕には保護率など問題ではない。父の死を受け止め、未来へ向かって誠実に、そして確実に歩いていくことが大事なのだ。
そういえば、昌子もチボリの収入だけでは食べていけないと言っていた。もし頼れる実家がなければ、彼女も生活保護を受けていたのだろうか。
「何か、人の温もりとか、絆とかそういうものが希薄になっているような気がするんですよね。だから、昨日と今日、光治さんが来てくれてホッとしているんです」
「私もようやく父を許す気になれましたよ」
チャーシューを口へ運び、半分位に減った焼酎を眺める。そこにあの日の父が浮かぶ。
「湯河原はどうですか、湯河原は?」
酔いの回った柏木さんが、身を乗り出して尋ねてきた。
「正直言って、昨日までは鬼門だったんですけどね。今日は改めてすばらしい故郷であることを実感しましたよ」
「よっしゃあ!」
柏木さんと室伏さんが腕を組んだ。
僕の心の中は、喉に刺さった魚の骨のようだった父の存在に一区切りをつけられたことと、昌子との再会の喜びで満たされていた。
昌子と再会できたのも、もしかしたら父が編んでくれた運命の糸なのかもしれない。思わずポケットの携帯電話を確認してしまう。昌子親子が側にいてくれたら、おそらく仕事への意欲も更に上がるに違いない。
何かの歯車が動き出していることは確かだった。
気が付いたら、僕の焼酎は空になっていた。三人のビールも残り少ない。
「俺たちも焼酎にするか」
柏木さんが焼酎を注文する。さすがにストレートとはいかず、烏龍茶で割るようだ。僕も焼酎の追加を注文する。
「強いですねえ」
澤井さんが呆れたように言った。
「さあ、さっきは光治さんのお父さんに献杯をしたから、今度は光治さんの今後と、我々の今後の発展を祝して乾杯をしようじゃないか」
柏木さんが明るい声で言った。
程なくして運ばれてきた焼酎。三人はそれぞれ自分で烏龍茶割りを作る。普通、町の職員が県の職員のグラスに注いだりするものだと思っていたが、そんなことは一切しない。それぞれ思い思いにグラスに注ぐ仕草が自然で、少しもいやらしくなかった。
「それじゃあ、今度は乾杯!」
三つのグラスとひとつのカップがまたぶつかり合う。
言葉を超える、打ち解け合った空気がそこにあった。父との関係もただ和解という言葉で片付けられるものではない。
そして今日から故郷として復活した湯河原。また、これからも昌子を通じて関わっていくであろう湯河原に思いを込めて、ストレートの焼酎を啜った。
(了)
この作品は第七回湯河原文学賞で最終候補まで残った作品です。
最終話までお付き合いいただいた方々、ありがとうございました。