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第三話

 翌日の東海道線も混み合っていた。やはり藤沢で窓際の席を取る。今日のシートはしっかりと僕の体重を受け止めてくれた。

 早川を過ぎて見る海の景色は昨日と変わらない。輝く海も、寄せる白波も見る者が見れば、心打たれる景色だろう。

 ただ、今日は僕の胸の中に降り積もる澱はなく、適度な緊張感と期待感が心を支配していた。

 そんな気分で眺める海はいいものだ。

 湯河原駅は昔とあまり変わっていなかった。変わったことと言えば、売店が小綺麗になったことと、真鶴駅と同じようにエスカレーターやエレベーターが設置されたこと、自動改札になったことくらいか。

 僕は改札を右に出て、信号の角にある「味の大西」というラーメン屋へ向かった。ここは昔、家族でよく食べにきた店だ。

 お店に入ると「いらっしゃい」と、若く元気なお兄さんが声を掛けてカウンターへと案内してくれた。

 自分では今まで湯河原という地は鬼門だと思っていたが、ここだけはホッとする。何故ならば、ここでよく、家族揃って外食をしたからだ。そしてここで父が酒を飲む時はいつも機嫌がよく、笑いが絶えなかった。僕にとって「味の大西」は、湯河原で唯一、家族の楽しい思い出が詰まった場所と言っていい。

 それに店員の愛想のよさも昔と変わらない。僕はここのワンタンメンが好物だ。もっとも子供の頃は量が多すぎて、残りを父が食べていた記憶もある。

 程なくして僕の目の前にワンタンメンが運ばれてきた。

 ラーメンを啜り、まるでギョーザのようなワンタンを口に入れると、自然に涙が込み上げてくる。父はここで飲む酒のように、何で家でも楽しく飲めなかったのだろうか。そう思うとワンタンメンのスープに涙が垂れた。

「ティッシュ、ありますよ」

 お店のお兄さんがティッシュボックスを取ってくれた。ささやかな心遣いが嬉しかった。鬼門と決めつけていた故郷に温かく迎えられた気がした。


 腹ごしらえを済ませた僕は海の方へ向かって歩き始めた。父の家、そう、僕の育った家は湯河原駅から海の方へ向かった土肥というところにある。近所は平家の借家が多く、父の家も借家だ。手入れをしていなければ、かなり老朽化していることだろう。

 土肥は道路が碁盤の目のようになっており、しばらくこの地に足を運んでいなかった僕は、恥ずかしくも道に迷ってしまった。昔はなかったコンビニエンスストアも建っている。

 コンビニエンスストアでペットボトルのお茶とスポーツドリンクを買った。澤井さんたちへの差し入れだ。きっと力仕事となれば汗も掻くだろう。

 しばらく土肥の辺りをウロウロしていると湯河原町役場の文字が書かれたトラックを見つけた。そしてその前にある平家こそが、父の家だった。

 澤井さんが僕を見つけて手を振った。

「こんにちは。ありがとうございます」

 上下をジャージに纏った澤井さんの顔は晴れやかだった。昨日の喪服姿と対照的で、頭に巻いた手拭いがどことなく可笑しかった。

 男の人が二人、もう既に家の中で作業に取り掛かっている。

「息子さん、来ましたよ」

 澤井さんの声で二人が僕の方を向いた。二人とも爽やかな笑顔をしている。

「こちらは湯河原町役場の福祉課の柏木さんと室伏さん」

「どうも、父がお世話になりました」

 僕は深々と頭を下げた。

「いえいえ、どういたしまして。この度はご愁傷様です」

 二人とも汗をタオルで拭いながら、会釈する。

 玄関から覗いただけでも、部屋の中は乱雑なのがわかった。これを片付けるとなると、相当に骨の折れる作業になるだろう。それに何とも言えない異臭が漂っている。それは死臭と腐敗臭か何かの入り混じったものなのだろうか。

 僕は人生の終焉とは、もう少し清らかなもののような気がしていた。映画やテレビドラマなどで、人の死に際は美しく描かれることが多い。だから僕は乱雑で異臭のする屋内を見て、正直なところ戸惑いを隠せなかった。

 それでも僕は気を取り直し、靴を脱いで家の中へ上がろうとした。

「あっ、靴は脱がない方がいいですよ。相当汚れていますから」

 柏木さんが僕に声を掛けた。見ればみんな靴のまま家の中へと上がっている。父の家は僕の家でもある。そこを土足で踏み荒らされたような気がして、少し嫌な気分になった。だから僕だけは靴を脱いで上がった。

 メリッ……。

 足が沈むのがわかった。そして濡れたような感触が靴下を通じて足の裏に伝わる。

「あーあ、だから言ったのに」

 既に畳は腐り、何かで濡れている。湿り気の正体が何であるかはわからない。しかし確かに濡れている。

 それでも我慢して僕は奥へと進んだ。

 部屋の中は一面に下着類や洋服が散乱していた。食べたまま丼などもあるようだ。

「単身の割には荷物が多いんだよな」

 室伏さんがぼやくように呟いた。重いタンスを澤井さんと一緒にトラックへと運んでいる。以前は母の洋服などが入っていたタンスだ。

 母は「あの家に置いてきた物に未練はない」といつか言っていたが、果たして本心だろうか。昨日の母の様子を見ていると、少し不安になってきた。

 僕は本棚に目をやる。そこには池波正太郎や藤沢周平などの時代小説がぎっしりと詰め込まれていた。週刊誌の類いは一切見当たらない。

「こんな物、出てきましたよ」

 柏木さんが差し出したのは、何冊かのアルバムだった。

 僕は感慨に耽るようにアルバムを次から次へと捲った。アルバムの中では父は真面目そうな顔を装い、母は絶えず笑っている。僕はおどけていることが多い。それはいつも暗くなりがちだった家庭の雰囲気を少しでも明るくしようという、子供心ながらの努力だったのかもしれない。

 一段と古ぼけたアルバムがあった。まだ僕が生まれる前の、父と母だけが写っているアルバムだ。まだ二人とも若い。そこにいる二人は本当に幸せそうな笑顔を湛えていた。

(これだけは捨てられないな)

 僕はアルバムを全部、バッグに仕舞った。少しバッグが膨れ上がり、パンパンになってしまった。それにかなり重い。しかし、帰りには心地よい重みになっているかもしれない。そんな気がした。

 僕も荷物の搬出を手伝おうと腰を上げた。すると、何か布のようなものに足を取られた。

「うわっ!」

 僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。よく見ると、僕の足を掬ったのは一枚のブリーフだった。

(これが親父の着ていたパンツ……)

 僕の足を掬ったブリーフを摘まみ上げる。するとそれには大便と小便の染みが付着していた。

 僕は阿部さんの「トイレに入るのも辛そうだった」という言葉を思い出した。おそらくトイレにも行けず、漏らしてしまったのだろう。苦しそうにもがきながら、這いずり回る父の姿が瞼の裏に浮かんだ。それでも最後には母と僕を見つめ、苦しみを堪え、笑って死んだ父。

「お、お父さん……!」

 急に製鉄所の溶鉱炉のように胸の中が熱くなり、一気にドロドロに溶けた鉄が吹き出しそうだった。それは涙腺を緩めて、僕の頬を伝わる。僕はこの時、込み上げる嗚咽を抑えることができなかった。

「うっ、うっ……」

 父を棄てた大人が恥も知らず、泣き崩れた。僕の胸の中の溶鉱炉は、灼熱の涙を次から次へと作り続け、流し続けた。それは止まることを知らなかった。

だが、そんな僕を笑う者は誰もいない。

 トラックから戻った澤井さんが、僕の肩にポンと手を添えてくれた。その手の温もりが暖かかった。ほんわかと優しい「気」の流れのようなものが伝わってくる。

「あなたは優しい息子さんですよ。ほとんどの場合は拒絶されますからね」

 僕はクシャクシャの顔のままで振り返った。澤井さんは優しそうな笑顔でそこに立っていた。

「それにしてもお父さんの場合、発見が早くて良かったですよ」

 澤井さんがしみじみと言った。

「発見が遅れると、どうなるんですか?」

 僕は涙を拭いながら尋ねた。

「そりゃ、見られたもんじゃありませんよ。ムシに食われたりしてね」

「ムシ……ですか?」

「ウジムシですよ。以前に死後一カ月くらい経った仏さんを発見したことがあるんですけど、ミイラのようでね。布団と密着した部分だけ溶けかかって、ウジムシが溜まっていたんです。あれは強烈だったなあ。目玉なんか食われて無くなっていてね。しばらくの間、食べ物が喉を通りませんでしたよ」

 澤井さんが顔をしかめた。その話を聞くと、父がそのような状態でなく、あの安らかな笑顔のまま発見されて、まだよかったと思う。

「残したい物があったら言ってください。後で取りに来てもいいですから」

 澤井さんがそう言った。僕は大便と小便の付着したブリーフと、汗の染み込んだランニングシャツをビニールに包むとバッグに入れた。

 不思議とそれが汚らしいとは思わなかった。

「いや、これだけでいいです。今の家は狭いですから」

「じゃあ、あとの物は処分しますよ」

 僕は一呼吸置いて頷いた。

 僕が幼い頃に沢山シールを貼った机も、室伏さんとトラックへと積んだ。話によると、真鶴の山の上にあるゴミ処理場に廃棄するのだとか。僕は思い出が軋む音を立てて壊されるような気がしたが、こればかりは仕方がない。

「あー、これ終わったら大西で手羽先とチャーシューをつまみに一杯いくかなあ」

 室伏さんが背伸びをしながら呟いた。

「ああ、あそこのワンタンメン、美味しいですよね。でも、あそこで飲んだことはないなあ」

 澤井さんの顔からは汗が滴っている。それは早くビールでも飲みたいと訴えているようだ。

 僕は先程食べた「味の大西」のワンタンメンの味を思い出した。そして楽しかった家族の思い出を。

(そうだ。思い出は胸の中にあればそれでいい。それで十分じゃないか)

 そう自分に言い聞かせていた。

 ふと、がらくたの山の中にフライパンがあるのを見つけた。母が昔使っていた鉄製のフライパンだ。僕は何げなくそれを手にした。どうやら父は、母と僕が逃げた後も、ずっとこのフライパンを使い続けていたらしい。

 生活保護費が少ないことくらいは僕にだって想像できる。おそらく父は自炊していたのであろう。このフライパンを使って料理をしていたに違いない。鉄に染み込んだ油が独特の光沢を放っている。

 一体、父はどんな気持ちで、このフライパンを使っていたのだろうかと思う。侘しさを噛み締めながらも、去った家族の思い出にしがみつきながら、ひとり台所に立つ父の背中が見えた。

 僕は柿澤先輩の「鉄を生かすも、殺すも使い手次第」という言葉を思い出した。そしてどんな思いを込められて、このフライパンは作られたのだろうか。

「すみません。このフライパンも持って帰ります」

 さすがにフライパンまではバッグに入りきらない。それは手で持っていくしかない。東海道線の中でフライパンを剥き出しにして帰るのは少々恥ずかしいが、僕はどうしてもこのフライパンを持ち帰りたかった。


 家の片付けが終わったのは夕方だった。

 みんな最後には汗だくだった。トラックも家とゴミ処理場を何往復しただろう。

 僕は父のために沢山の人が関わり、尽くしてくれたことを知り、感謝の気持ちで一杯だった。

 きっと父も葛藤があったと思う。そして自分を責め続ける、悔悟の日々を送ったに違いない。そんな哀れな父の姿を見て、ここまで多く人たちが関わってくれたのだろう。

 同時に、今まで父に何もしてこなかった自分が急に恥ずかしくなった。かと言って今更できることは限られている。

「あのー、澤井さん。父の葬儀代や片付けの費用なんですけど、私が出しますよ」

 僕は声を忍ばせ、澤井さんの耳元で囁いた。

「ああ、片付けは費用がかかっていませんよ。すべて自前ですからね。葬儀の費用は……、弱ったなあ。葬儀屋さんに福祉でやるって伝えちゃったんですよ」

 頭を掻きながらも、澤井さんの顔は笑っていた。


 その後、僕は子供の頃によく遊んだ公園に立ち寄った。公園の隅に大きな、赤いタコの形をした遊具がある公園を、みんなは「タコ公園」と呼んでいた。

 僕はベンチに腰を下ろし、遊ぶ子供たちに目をやる。無邪気に遊ぶ子供たちに、幼い日の自分が重なった。

 タコの近くで男の子が泣いていた。どうやら母親に叱られているようだった。僕はその母親を見た。それは僕にとって忘れることのできない顔だった。

(あれは、昌子じゃないか……)

 その母親は小学校三年生の時に、真鶴小学校から転校してきた青木昌子に間違いなかった。その顔を誰が忘れようか。

 昌子は転校生ということで、最初はクラスでからかわれたり、仲間はずれにされたりしていた。子供の社会とは、ある一面で大人の社会より残酷なものである。

 昌子の家はこのタコ公園のすぐ近くにあった。僕はひとりで彼女がタコ公園で遊んでいるのを、よく見かけたものだ。

 僕は子供心にも昌子に同情していた。学校で理不尽な仕打ちを受ける彼女の姿に、家で辛い思いをしている僕自身の姿が、どことなく重なって見えたのだ。

 ある日、僕は思い切ってタコ公園で遊ぶ昌子に「一緒に遊ぼう」と声を掛けてみた。彼女は少し強張った顔をしたものの、すぐにニコッと笑い、「うん」と頷き返してくれた。あの時の嬉しそうな彼女の笑顔は今でも忘れない。

 それからというもの、タコ公園が昌子と僕の遊び場になった。

 どこかお互いに惹き合うものがあったのだろう。ここでは嫌なことを忘れ、まるで傷を舐め合うように、暗くなるまで遊んだのだ。

 昌子とは小学校から高校まで一緒だった。別に正式に交際をしていたというわけではないが、相変わらず仲は良かった。昌子と一緒にいると、家庭での嫌なことを忘れられ、ホッとできたのだ。僕が自然に振る舞える居心地のよい場所。それが昌子との時間と空間だった。

 だから川崎へ引っ越した時、父から逃げられた解放感と同時に、僕は心の寄り処を失ったような気がした。それは何も告げずに去った、昌子への罪悪感を伴って……。

 昌子はヒステリックな金切り声で子供を叱り付けている。男の子はベソをかきながら泣いていた。

「ママー、ごめんなさいー!」

 だが昌子は膨れっ面を崩さない。

 僕はベンチから腰を上げると、男の子の前にしゃがんだ。そして頭を撫でてやる。

「大丈夫だよ。ママだって許してくれるよ。ママにとって君は宝物なんだ。君にとってもママは宝物だよね?」

「うわーん!」

 男の子は大泣きをしながら、昌子の腰に抱き着いた。昌子は困ったような顔をしながらも、そっと男の子の肩を抱いた。

 僕は顔を上げ、昌子の方を見る。昌子は僕が誰だかすぐに気付いたのだろう。口に手を当て、目を丸くしながら「あっ!」と叫んだ。

「光ちゃん……?」

「そうだよ」

 僕は笑顔を返した。昌子はまだ信じられないといった表情をしている。

「久しぶりだね」

 しかし昌子は答えることなく、そのまま固まってしまった。

 夕暮れの公園にやるせない空気が流れた。

 どれ程の沈黙が続いただろう。突然、昌子の頬から一筋の涙がこぼれた。

「どうしたの? ママー」

 昌子は子供の肩に手を置きながらも、ボロボロと涙を流し続けている。

「光ちゃん、やっと帰ってきたてくれたんだね」

 そう言った時には、昌子の顔はクシャクシャに近かった。

 昌子と僕は公園のベンチに座った。男の子はまた無邪気にタコの遊具で遊びだしている。

「実は親父が死んでね」

 僕から話を切り出した。

「そうなの。お父さんから逃げたっていう噂を聞いていたけど、本当だったの?」

「ああ、お袋がいつも親父に殴られていてね。それで逃げたんだ。俺は今、川崎の製鉄所で働いているんだ。お袋と二人暮らしさ。親父はこの湯河原で生活保護を受けていたんだ。福祉事務所から連絡があってね」

「そんなお父さんでも、最後を看取ったの?」

「まさか。孤独死ってやつさ。今日は家の片付けに来たんだ。でも不思議なものでなあ、親父の死に顔を見たり、家を片付けたりしているうちに何だか親父が哀れに思えてさ」

「そう……」

 昌子が寂しそうに呟いた。僕はその声に、思わず昌子の横顔を見た。夕陽に照らされたその横顔は、ひとりで寂しそうに遊んでいた、あの時の昌子の横顔にそっくりだった。

「ところでマーちゃんの旦那さんって、どんな人?」

 僕がそう尋ねると、昌子は一呼吸置いてから口を開いた。

「別れたわ」

「えっ?」

「もともとチャランポランな人だったの。まあ、子供ができちゃったから、何となく一緒になったって感じかな。でも、あいつは変わらなかった。結局、あいつ、覚醒剤に手を出して逮捕されてね。それで離婚を決意したのよ」

 昌子は無表情に語った。

「じゃあ、今は母子家庭なのかい?」

 僕は昌子の顔を覗き込むようにして尋ねた。

「うん。実家に身を寄せているの。私もチボリで働いているけど、それだけでは食べていけないから、結局、今でも親のスネを齧ってる」

 そう言う昌子の視線は宙を泳いでいた。おそらく自分でも、この先どうしたらよいのかわからないのだろう。

 ちなみにチボリとは湯河原にあるクッキー工場で、近くを通ると甘い匂いが漂ってくる。

「はあーっ、私たち、これからどうしたらいいんだろう? 最近、ちょっとしたことでイライラしてついあの子に八つ当たりしちゃうのよ。光ちゃんの言う通り、あの子は宝物なんだけどね」

 昌子が頭を抱え、掻き毟った。昔から自慢の長く、ストレートの髪が乱されていく。それはまるで己自身を傷つけているかのようだ。昌子を良く知る僕としては、見るに忍びない光景であった。

「はあー、何で光ちゃん、私の前から突然、消えちゃったのよ?」

「えっ?」

 唐突な昌子の問いかけに、僕は一瞬、言葉を失った。

「あれからというもの、私の人生、狂いっぱなしよ」

「マーちゃん、もしかして俺のこと……」

「当たり前じゃない。男って本当に鈍いんだから」

 昌子の瞳がまた潤みだした。

「ごめんよ」

 ジーンズの上で硬く拳を握る昌子の手の上に、僕はそっと掌を置いた。拳がプルプルと震えるのがわかった。

「うわあああーん!」

 突然、昌子が大声を上げて泣き出した。男の子は母親の異変を逸速く察知し、タコの遊具から駆け寄ってきた。

「ママーッ、どうしたの?」

 子供の不安げな表情が切ない。

「何でもない、何でもないのよ……」

 昌子は子供にそう言うが、時折、ヒックヒックと肩が痙攣している。

「大丈夫だよ……」

 僕が男の子の頭を撫でてやった。

「この子の父親が光ちゃんだったらよかったのに……」

 僕はその言葉に心臓がドキッとした後、ギューッと締め付けられた。

夕日に照らされた昌子の涙は悲しくも、どこか美しい。

 僕は男の子の顔をまじまじと見た。あどけなく、可愛い顔をしているではないか。

「君、名前は?」

「貴」

「いくつ?」

「みっつ」

 男の子は僕の質問に素直に答えてくれた。その瞳はまだ穢れを知らない、無垢の瞳だ。

「ねえ、携帯電話、持ってる?」

 僕が昌子に尋ねると、彼女はジーンズのポケットから、デコレーションされたいかにも女の子らしい携帯電話を取り出した。

「よかったら、番号とアドレスの交換をしようよ」

 昌子は「への字」になった口元を緩め、少しはにかむように笑うと、「うん」と小さく頷いた。だが頬は化粧が落ち、グショグショだった。

 お互いに携帯電話を弄くる。その間、僕は子供の頃、昌子がよくうちに電話を掛けてきたことを思い出していた。

(そう言えば、あの時も昌子から電話が掛かってくるのを、ウキウキしながら待っていたっけ)

 僕はあの頃から昌子のことが好きだったのかもしれない。単に幼なじみという言葉では片付けられない、思慕のような感情を抱いていたのだ。黒電話の前で齧り付くようにして、昌子からの電話を待っていたあの頃の感情が沸々と甦る。

「今日は会えてよかったわ。よかったら電話して」

 そう言う昌子の顔は晴れやかだった。僕が初めて声を掛けた時の、あの笑顔に似ている。

「必ずするよ。でも俺たちには黒電話の方がお似合いかもな」

「着信音だけでも黒電話にしておこうか?」

「あっ、それいいかも」

 二人で和やかに笑った。

「ところで、どうしたの? そのフライパン」

 やはりフライパンは昌子の目にも異様に映るらしい。

「片付けた荷物の中にあったのさ。お袋が使っていたやつでね。俺たちが引っ越した後も、親父が使っていたんだ」

「それをお母さんに?」

「うん。それもあるけど、俺、製鉄所で働いているから、お袋の思いと、親父の思いが詰まった、この鉄のフライパンがそのまま捨てられるのが、何となく忍びなくってさ。それにこれを作った人も悲しむだろうなって」

「そっか。マーちゃんは相変わらず優しいね。それに、自分の仕事に誇りを持っているなんて立派だな」

「そんな立派なもんじゃないよ」

 僕は照れながら微笑み返した。

 だが、この公休が明けて製鉄所で鉄に向かう僕は、昨日までの僕とは違う。レバーを引く度に、このフライパンを思い出すに違いない。

 それから昌子親子を家まで送った。貴を挟み、三人で手をつなぐ姿は、知らぬ人が見れば、仲の良い親子に見えても不思議はないだろう。

 父の死後で不謹慎かもしれないが、こんな幸せがあってもいいと思った。父には果たせなかった、幸せな家庭を築きたいと思った。

(この子なら、自分の子として愛せるかもしれないな)

 貴のあどけない笑顔を見て、ふと、そんなことを思った。貴も僕に屈託のない笑顔を向けてくれる。

 貴が誰の子でも、この際、関係はない。昌子とならば、幸せを掴めそうな気がした。それはまるで、磁石のS極とN極が引き合うように、自然と惹かれ合うものかもしれない。

 昌子の家の前で僕は二人に手を振った。

「お兄ちゃん、また会おうね」

 貴がにっこりと笑い、大きく手を振る。

「夕方だったら、だいたい空いているから、電話ちょうだいね。メールはいつでもOKよ」

 昌子ははにかみながら、小さく手を振る。

「ああ、必ず黒電話を鳴らすよ。それから、もしよかったら、このフライパンを使ってくれないか?」

「えっ、でも大切なフライパンなんでしょう?」

「マーちゃんに使ってほしいんだ……」

 昌子はしばらく僕の目を見つめた後、コクリと頷いた。そして微笑む。

「私でよかったら、使わせてもらうわ」

「ありがとう」

 僕は夕陽に照らされて、プリズムのような光沢を放つフライパンを、昌子に手渡した。鉄は熱を伝え易い物質である。その鉄を通じてお互いの体温はおろか、気持ちまでが伝わるようだった。

「じゃあね」 

 僕はメトロノームのように手を振って歩きだした。

 角を曲がるまで、何度も昌子の家を振り返る。昌子も貴もずっと僕を見送り、手を振っていた。僕も振り返る度に手を振る。

 角を曲がるのを躊躇った。しかし今はここで足踏みをしているわけにはいかない。僕は断腸の思いで、曲がり角の一歩を踏み出した。  

 僕は茜色に染まった湯河原の町を駅の方へ向かって歩き出した。するとタコ公園の前をもう一度通ることになる。再び公園内に足を踏み入れると、タコの遊具に歩み寄った。そして思い出の染み込んだ、コンクリートの赤いタコをそっと撫でる。

 過去の思い出だけではない。これからも思い出を重ねていくタコかもしれない。そんな思いでタコを撫でた。

 そしておもむろに携帯電話を取り出すと、着信音を黒電話に変更した。そして黒電話が何回か鳴った後に、あのフライパンが僕のところに戻ってくるような気がした。女の予感は当たるというが、時には男の予感だって当たる時がある。


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