第二話
真鶴駅に着いた時、どうしようもない不安に駆られた。
(ついに来てしまった……)
そんな思いでホームを踏み締める。電車が去った後、弓なりに曲がるホームを見渡すと、まばらな人影が改札へと降りていく。喪服を着ているのは僕くらいだ。
(そうだ。誰も親父の葬儀に来たりはしない。来るはずがない)
そう思いながら階段を下った。駅は昔とたいして変わっていないが、いつの間にかエスカレーターとエレベーターが設置され、改札も自動改札になっている。
火葬場は真鶴のちょうど駅裏あたりにある。歩けば四、五分といったところか。
(まだ早いな)
何せ、朝食を済ませてすぐに家を飛び出してきたのだ。父の火葬の時間は午後一時半だ。時計を見るとまだ午前十一時だった。
(どうしようかな?)
こういう時の時間つぶしは一番困る。
食欲はまったくなかったが、駅の脇の売店でサンドイッチを二つと缶コーヒーを買う。まだ胃の中には朝食が残っている感じだった。
それでも何か物事の前には、しっかりと食べておかねばならない。小さい頃、食費が父の酒代に消え、ひもじい思いをしたこともあった。
食事は愛を表すという人もいる。いつも家の食事は貧しかった。それでも母は工夫して、僕に精一杯の愛情を注いでくれた。だが、食べ盛りの僕には少ない量だったのである。それは片親しかいない寂しさに、どこか似ていた。
だから僕の食へのこだわりはトラウマのひとつなのかもしれない。そう、満たされないお腹と心を常に一杯にしておかないとならないという、強迫観念に近いものとでも言えるだろうか。
僕はサンドイッチと缶コーヒーの入ったビニール袋をぶら下げて、駅前の地下道を潜った。魚の絵が描かれたその地下道は、その暗さと相俟って、まるで深海の中にいるような気分だ。先程の心に降り積もる澱を思い出す。
地下道を抜けると僕は迷った。真鶴漁港の方へ行こうか、それとも岩海岸の方へ行こうかと。
結局、僕の足は岩海岸の方へ向いた。なだらかな坂を下り、真鶴町役場の前を通る。そして今度は少し急な坂を下れば岩海岸だ。坂の途中で湾曲した砂浜が見えてきた。
名称は岩海岸というが、そこは砂浜だ。坂から見ると奥の方にゴロタ石の岩場が少しある。「岩」というのは地名なのだ。この海岸も夏になれば海水浴客で賑わう。
僕は小学校高学年から中学校くらいにかけて、よくこの辺りまで自転車できた。
道を下って左手に遠藤貝類博物館がある。それも昔のままだ。少しホッとしたような気がした。ただ農協がなくなり、公衆便所だけが新しく設置されている。それも整備され、綺麗だ。
僕は砂浜に下りる階段に腰を降ろした。
寄せては返す波を、ただボーッと眺める。真鶴道路の橋がのどかな風景を邪魔しているようにも思えるが、これを名所とする声もある。
(物は考えようだな……)
自然と人工物が織り混ざった風景に、ふと、そんなことを考えたりもした。
僕はビニール袋からサンドイッチを取り出すと、頬張った。シャキシャキのレタスの食感が心地よい。
砂浜では一人の老婆が何かを拾っていた。貝殻のような乙女チックなものではないだろう。手にしているのはどう見てもゴミだ。
(ゴミ拾いかな?)
そう思いながら眺める。老婆は黙々とゴミを拾っている。
僕に気付いた老婆が、人懐っこい笑顔を湛えて近づいてきた。だがその視線は僕の手にあるサンドイッチへと向けられている。
「縁起の悪そうな服を着ている割には、美味しそうなもの食べているね。あたしゃ、もう二日、何も食べていないよ」
ボサボサの白髪頭に、皺だらけの老婆は笑顔でそう呟いた。その言葉に切迫感はなかったが、空腹であることに違いはないだろう。
「よかったら、お婆ちゃんも食べる?」
僕は残りのサンドイッチを差し出した。
「あたしゃ、これでも若いんだよ。『お婆ちゃん』なんて呼ばれる齢じゃないんだ」
老婆のプライドは思ったより高いようだった。それでも笑顔は絶やさない。
「でも、ありがとさん。せっかくだから、もらっておこうかね」
狡猾だが、どこか憎めない老婆は、皺だらけの顔を更に皺くちゃにして笑った。
僕も思わず苦笑して、サンドイッチを渡してしまった。
「あー、やっとオマンマにありつけたよ。あんた、いい男だね」
「それはどうも」
どうやら老婆にとって、サンドイッチが一番の収穫だったらしい。彼女は重たそうな体を引きずりながら、遠藤貝類博物館の向こうへと消えていった。その風景がまるで昭和時代の映画フィルムのようであった。
僕が老婆を見送っている間も、海からの潮風は僕の髪を撫で続けた。
何故か老婆の姿が心に焼き付いた。毒づきながらも礼を言い、僕を「いい男」と呼んでくれた老婆とのひとときは、火葬場に向かう前のちょっとした息抜きになったような気がした。
僕は海をもう一度、見渡すと岩海岸を後にした。
駅に戻って歩道橋を渡り、真鶴中学校の前から駅の裏の方へ回って歩く。この辺りも、昔はよく自転車で来たものだ。
僕は火葬場の前で立ち止まった。小綺麗になった火葬場は何だか父には不釣り合いな気がした。
僕は火葬場の前で立ち止まり、呼吸を整えようと、大きく深呼吸をした。それは大きなため息だったかもしれない。先程の老婆との会話で少し気持ちが和んだとはいえ、やはり棄てた父と対面するのは緊張するものだ。
「柳田光治さんですね?」
火葬場の入り口にいた喪服姿の若い男が歩み寄って来た。いかにも温和そうな好青年といった印象だ。齢の頃は僕とそれほど変わらないだろう。
「はい、そうですが……」
「初めまして。小田原保健福祉事務所の澤井です。先日はお電話で失礼致しました」
澤井さんが深々と頭を下げた。慇懃なお役人のイメージとは程遠い。
「いえ、こちらこそ。あんな父のために、いろいろとしてくださってありがとうございます」
僕も失礼のないように丁重に頭を下げた。
「さあ、中でお父様がお待ちですよ」
僕は澤井さんに促され、火葬場の中へと足を踏み入れた。ここまできて足を留めても仕方あるまい。火葬場の中にカツカツと革靴の音が異様に大きく響いた。
既に棺は釜の前に安置されていた。焼き上げた骨を入れる骨壷も、味気無いシンプルなものだが用意されている。
火葬に立ち会うのは僕と澤井さん、葬儀屋さんともう一人、若い女性がいた。その女性はハンカチで目頭を押さえている。
(一体、誰だろう?)
そんな僕の疑問に答えるように澤井さんが女性を紹介してくれた。
「こちらがお父様を発見してくださった、ヘルパーの阿部さんです」
阿部さんがハンカチで顔を押さえながら会釈する。
「どうも、父がお世話になりました」
一体、あんな父を世話する物好きなヘルパーなどいるものだろうかと、僕は阿部さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「さあ、それでは故人との最後のご対面でございます」
葬儀屋さんが棺の蓋を開ける。正直言って、僕は父の顔を見るのを躊躇った。だが僕に遠慮をしているのだろう。澤井さんも阿部さんも歩み寄ろうとはしない。仕方なく僕は棺の中を覗き込んだ。
父はそこに横たわっていた。生活保護の葬儀では花はつかないらしい。絹に似せた布に包まれて父は眠っていた。
それは穏やかな顔だった。口元に薄っすらと笑みさえ浮かべているではないか。
これがあの、毎日酒を飲んでは怒り狂い、母親に暴力を振るっていた父の顔とは思えなかった。そう、その顔はまるで悟りを開いた仏のような、別人の顔だったのである。
僕は自然と父に向かって手を合わせた。特に意識したつもりはなかった。何故か父の顔を見ていると、合掌せずにはいられなくなったのだ。
続いて澤井さんと阿部さんが覗き込み、合掌をする。
「本当、最後に息子さんに会えてよかったわね」
阿部さんが涙ながらに呟いた。
「父の死因は何だったんですか?」
僕は澤井さんに尋ねた。
「死亡診断書には心不全と書かれていました。司法解剖も行政解剖も行われなかったので、事件性はないと警察は判断したのでしょう」
澤井さんは淡々と答えた。
「でもね、長太郎さんは最後の方はかなり弱っていたのよ。お風呂に入るにも、トイレに入るにもかなり辛そうでした。本当はもっと援助できればよかったんでしょうけど、要支援2では限界があったのよ」
阿部さんが涙ぐんだ声で言った。
「要支援2?」
「介護保険の基準ですよ。その人の介護度を定めた基準でサービスの量が決まっているんです」
代わって答えてくれたのは澤井さんだった。僕には福祉の制度がどうなっているのかよくはわからない。ただ父にそれほど手厚い介護はなされていなかったようだ。
「それでは、そろそろお別れです」
葬儀屋さんのその言葉で、父の棺が閉じられた。
重々しい音を立てて釜の蓋が開く。自動扉だが、何せ人を焼く釜だ。その音はたとえ、あんな父を焼く釜とはいえ重い。
僕は合掌して父を見送った。
父を火葬している間、僕たちは待合室で待つことになった。
阿部さんが気を利かしてお茶を淹れてくれた。啜ってみると、製鉄所のお茶と大差のない味だ。いや、この時、僕の味覚は麻痺していたかもしれない。
「これね、長太郎さんが最後に握り締めていた写真よ」
阿部さんがそう言って差し出したのは、一枚の写真だった。僕が小学校六年生の時、湯河原の万葉公園で撮った家族の写真だ。確か通りがかりの人にシャッターを押してもらった記憶がある。僕はわざと大きな口を開け、おどけた顔をしている。父は真面目そうな顔でカメラを見つめ、母はにっこりと笑いながら僕の肩に手を置いている。それはカラー写真だが、既に色あせてセピア色に近い。
「これを父が握り締めていたんですか?」
「長太郎さんはね、奥様のことは諦めていたみたい。でも、あなたのことだけは諦めきれなかったようで、いつも光治、光治って取り憑かれたように呟いていたわ。よっぽど悔いが残っていたのね」
「でも、何で笑っていたのかな?」
「最後にその写真を眺めたからじゃないかしら」
写真ひとつで笑って死ねるだろうかと、僕は疑問に思った。
「心不全っていうのは、いわゆる心臓麻痺なんですよ。そいつは相当に苦しいらしいんです。それでも安らかな顔で眠りについたというのは、やはりその写真のお陰なんじゃないですかねえ」
澤井さんがしみじみと言った。
「お父様の生活態度は真面目でした。お酒はもちろん、タバコも吸わない。いつも謙虚でね。私が訪問すると、お国の世話になって申し訳ないって、いつも泣いていましたよ」
澤井さんの口から出た言葉は、僕の知る父とはまるで別人であった。しかし、先程見た顔は、穏やかではあったが確かに父の顔だった。
「父は病院には通っていたんですか?」
「脳梗塞を患いましてね。湯河原厚生年金病院に入院していたことがあるんです。リハビリで単身生活が営めるくらいまで回復しましたが、左半身に少し麻痺が残りましてね。それでヘルパーさんに入ってもらったんですよ」
「なるほど……」
「じゃあ、父はずっとひとりだったんですか?」
「ええ、もちろん。女の人の影は見えませんでしたね。いつも寡黙に小説を読んだりしていてね。どちらかというと、家に閉じこもりがちでしたかね」
あの父が小説を読むなど信じられない。記憶にあるのは下劣な雑誌ばかりだ。母と僕が逃げ出した後の父は、どうやら僕の知っている父ではなくなったらしい。
「父は改心したのかな?」
僕が唸るように呟いた。
「改心というより、もぬけの殻といった印象でした」
阿部さんがやるせない表情でお茶を啜った。
呼び出しがかかり、釜の蓋が開いた。中から薄茶色の骨が係員により引き出される。
それは頑丈そうな骨だった。かつて土建業で鍛えた体ということもあるだろう。大腿骨の辺りなど、そのままの形で残っている。何度も母を蹴りつけた足の残骸がそこにあった。
「これが、親父の骨」
僕は思わず、そう呟いてしまった。
「そう、あなたのお父様の骨ですよ」
澤井さんが僕に寄り添うようにして言った。後ろでは阿部さんのすすり泣く声が聞こえる。
(もぬけの殻か。確かに親父の残骸だな)
そんなことを思いながら、澤井さんと箸で骨を摘まむ。
係員が残りの骨の説明をしながら、手際よく骨壷に収めていった。薄い頭蓋骨が一番上にきている。
「これは埋葬許可書です。これがないとお墓に埋葬できませんから、大切に保管しておいてください」
係員が僕に埋葬許可書を手渡した。その封筒を受け取るのを一瞬、躊躇ったような気もする。しかし気がついた時には、しっかりと受け取っていた。
(この骨をどうしよう……)
僕はこの時、父の遺骨を母の元へ持ち帰ってもよいものかと、まだ迷っていた。おそらく、ようやく落ち着きを取り戻した母の心を、激しく揺さぶるに違いない。
澤井さんが埋葬許可書の上に先程の写真を乗せてくれた。どうやら待合室のテーブルに僕が置き忘れていたようだ。
その写真を見て僕の心は決まった。
「明日、お父さんの家の片付けをするんですが、もしよかったら一緒に来てもらえませんか?」
澤井さんが静かに言った。
僕は明日から二日間の公休に入る。手伝うことは可能だ。だが、家の片付けまで福祉事務所がやるものだろうか。
「家の片付けを福祉事務所がやるんですか?」
「他にやる人がいなければ仕方ないでしょう。誰かがやらなきゃならないんです。大家さんに苦情を言われるのも我々ですからね。生活保護は生きている間はお金を出せますが、亡くなった後の片付けの費用までは出せないんですよ」
僕は片付けを行政に任せる後ろめたさと、父が人生の終焉を迎えた場所をこの目で確かめたい気持ちが入り混じり、了解しようと決めた。
「わかりました。是非、僕にも手伝わせてください」
「それでは午後二時に家の前に来ていただけますか? 家の場所、覚えていらっしゃいますよね?」
「はい」
僕は力強く頷き返した。
父の家の片付けの約束までし、川崎まで戻ってきたが、いざ自分のアパートの前まで来ると、足取りが重くなった。錆びた階段を一歩一歩上る。親父の遺骨が異様に重かった。
部屋のドアの前までは来たものの、開けるのをつい躊躇ってしまう。向こうには母がいるのだ。父にさんざん痛め付けられてきた母が。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。僕は思い切ってドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
落ち着いてはいるが、どこか力の抜けたような母の声が返ってきた。
母は僕を出迎えてはくれなかった。奥の六畳間にいるのだろう。それでも僕は親父の遺骨を母に見せようと、足を進めた。
(これは僕の務めだ)
自分にそう言い聞かせるが、心臓の鼓動は鳴り止まない。
襖は閉められていた。
ゆっくりと襖を開けると、母は西日のあたる部屋でひとり、正座をしていた。
「それがあの人のお骨かい?」
そう呟いた母の顔が随分と老けて見えた。
「ああ、親父の遺骨だよ……」
僕は母の前に親父の遺骨を置いた。母はそれをじっと眺めている。その瞳は潤んでいるようだった。
「それと」
僕はポケットから一枚の写真を取り出した。阿部さんにもらった万葉公園での写真だ。
「親父は死ぬ時、これを握っていたそうだよ。その死に顔は笑っていた」
そう言うと、母は堰を切ったように泣き崩れた。親父の遺骨にしがみつき、横隔膜が壊れてしまうのではないかと思うくらいの勢いで泣いた。号泣とは、まさにこのようなことを言うのだろう。
そして母は何度も「ごめんね、ごめんね」という言葉を繰り返す。この時、母は心の奥底で、まだ父のことを愛しているのだと思った。でなければ「赤の他人」とまで言った人間に、ここまでの涙を流せるものだろうか。
どうやら僕が両親と過ごした時間と、母が父と過ごした時間は違うらしい。何だか、そんな気がした。
「このお骨、どうしようか?」
「この人には実家なんてないも同然だからね。今更お墓に入れてもらえるかどうか」
母が力なく呟いた。
「やっぱり、我々の手で供養して、お墓に入れてあげるのがいいのかな?」
「光ちゃんが許してあげられるんなら、そうしておやり。こんな人でも無縁仏じゃ可哀想だからね」
母が涙を拭いながら言った。その目は慈愛に満ちた優しさを湛えている。母の唇が「おかえり」と動いたのを、僕は見逃さなかった。
やはり父の遺骨を持って帰ってきて正解だったと、僕は思った。
その夜は父の遺骨を枕元に置き、母と一緒に寝た。家族三人で寝たのはいつ以来だろうか。
母の布団からすすり泣く声が聞こえた。
僕は夜勤明けで父の火葬まで行き、疲れているはずだった。それでも何故か寝付けない。母への心配と父への複雑な思いが入り混ざり、寝苦しい夜だった。
二人とも眠りについたのは日付が変わってからだろうか。