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第一話

 僕が布団に潜ってどのくらい経っただろうか。

 無粋な電話の音で、僕は眠りから強制的に起こされた。

(畜生……。誰だ、一体。人が夜勤明けで寝ているっていう時に……)

 僕は鉛のような体を引きずって、電話の子機を手に取った。

「はい、もしもし」

「柳田光治さんでいらっしゃいますか?」

 聞き馴れない男の声だ。僕は一瞬、何かの電話セールスかと疑う。

「はい、そうですが」

「突然のお電話、失礼致します。私は神奈川県の小田原保健福祉事務所の澤井と申します」

 僕はその名前を聞いて、嫌な予感がした。その澤井さんは続ける。

「実はお父様の長太郎さんが、お亡くなりになりました」

「はあ……。で、僕にどうしろと言うんですか?」

 そう言う僕の口調は、かなり突っ慳貪だったかもしれない。

「お父様と光治さんとの関係が悪かったことは、私も存じ上げております。ただ、お父様は身寄りが他にいないんですよ。お葬式だけでも上げて戴けないかと思いまして」

「お断りします! あんな奴、父親でも何でもありませんよ!」

 僕は口調を荒げた。子機に自分の唾がかかるのがわかる。

「それでは、せめてお骨だけでも引き取って戴けませんでしょうかね? 私どもは葬儀まではできても、お骨までは預かれないんですよ」

 まだ半分眠っている僕の頭には、その言葉がやや事務的に聞こえた。

「いい加減にしてください。何で今更他人の骨を引き取る必要があるんですか?」

「そうは言ってもね、お父様、最後は光治さんに会いたいって言っていましたよ。好きだったお酒も断って、いつも家族の写真を眺めていたんですよ。最後は湯河原の自宅で亡くなっているのを、ヘルパーさんに発見されたんです」

 そう言う澤井さんの声は、どことなくしみじみとしていた。だが僕には父が酒を断ち、家族を思い出す姿など想像できない。

「ちょっと、考えさせてください」

「お父様は明日、荼毘に付されます。できれば今日の夕方までにご連絡戴けますか?」

「わかりました」

 僕は子機のスイッチを切った。同時に胸の中にドロドロとした感情が渦巻く。

 僕の勤務する製鉄所は同じ勤務が一週間続く。今夜も夜勤だ。それまでには答えを出さなければならない。僕は暗澹たる思いで布団を被った。しかしそれからは寝付けなかった。


 父が湯河原町で生活保護を受けていたことは知っていた。以前にも福祉事務所から、僕のところに「扶養届」なる文書が送られてきたこともある。もちろん僕は、扶養はできないし、する気もない旨を記載して返送した。

 僕は湯河原町の土肥というところで生まれ、高校生の時までそこに住んでいた。

 土建屋で働いていた父は、酒を飲んでは、よく母に暴力を振るった。雨で仕事が休みの日など、朝から酒を飲んでは絡んできたものだ。母の話では、給食費が酒代に消えたこともあったらしい。

 今で言えば、父の暴力はドメスティック・バイオレンス(配偶者・恋人からの暴力)と言ったところだが、当時はそんな言葉もなかった。

父の母に対する暴力に理由などなかった。「家事が遅い」だの「酒が足りない」だの、ただ因縁をつけては、ひたすら暴力を振るっていたのだ。母はただじっと、父の言われ無き暴力に耐えていたのである。僕もまた、そんな母が殴られるのを黙って見て、怯えながら耐えるしかなかった。子供心にも、自分が大人になったら、父のようにはなるまいと思ったものである。いわゆる反面教師というやつだ。

 だがそんな母も、ついに堪忍袋の緒が切れる時が来た。僕が高校を卒業すると同時に、僕と一緒に川崎に家出したのだ。僕は川崎の製鉄所に就職が決まっていたので、母と安いアパートを借りることにした。

 湯河原の家も安い平家の借家だったので、住めば都だった。

 その後、母は父との離婚に向けて、裁判を起こすことになるが、それからが長い道程だった。家庭裁判所の調停まで二年はかかったと思う。

 僕が母と川崎に来てからは、一度も湯河原に足を向けていない。湯河原は母や僕にとって「鬼門」だったのである。そればかりではない。いつしか、西へ向かうことさえ、忌み嫌うようになっていた。

 だがここのところ、母もようやく明るさを取り戻してきた。今は午前中のみ、スーパーで清掃のパートをしている。六十を過ぎた母の年齢から考えれば、使ってくれるところがあるだけでも有り難い。いわゆる、生きがいとしての仕事だ。

 問題は先程の福祉事務所からの電話を、どう母に伝えるかだ。僕は枕を抱きながら、虚ろな目を天井に泳がせた。


 ギィーッ……。

 建て付けの悪い、安普請のドアが開く音がする。どうやら母が帰宅したようだ。

 母はなるべく物音を立てないように、忍び足で歩く。夜勤明けで寝ている、僕への配慮だ。

「母さん、お帰り」

「あら、光ちゃん、起きていたの?」

 母が驚いたような顔で僕を見た。

「ああ、寝付けなくってね」

「今夜も夜勤なんだから、横になっておいた方がいいわよ」

 母がスーパーのビニール袋から夕食の食材を取り出し、冷蔵庫に入れる。その後ろ姿が平凡で、どこにでもありそうな幸せだった。

 僕は怖かった。もし父の死を母に伝え、この平凡な幸せが、一瞬で脆くも崩れ去ったとしたら。そう思うと、躊躇わざるを得なかった。

 それでも母の耳には一応入れておかねばなるまい。僕は意を決し、母の背中に声を掛けた。

「あのさあ。さっき、福祉事務所の澤井さんって人から電話があったんだけど、親父が死んだらしいよ」

 母の背中が一瞬、ビクッと跳ねた。開け放した冷蔵庫の冷気が伝わる。母の手にはネギが握られたままだ。

「そう……」

 母はそう呟くと、ネギを冷蔵庫に仕舞った。そしてそのまま俯き、固まってしまった。

 沈黙の時間が流れる。張り詰めた空気が、異様に重かった。

「福祉事務所は骨を引き取ってくれって言っていたけど、あんな奴の骨を拾ってやらなくてもいいよね?」

 緊張に耐え切れず、思わず僕は母に同意を求めた。これが僕の本心だ。

 しかし母は「はあーっ」と深いため息をつくと、意外な言葉を返したのである。

「あんな人でも、光ちゃんのたった一人の父親なんだよ。私にとっては、もう赤の他人だけどね。お骨を拾ってやるか、やらないかは、光ちゃんが自分で決めて頂戴」

 母は僕に背中を向けたまま、力のない声で言った。

 僕は混沌とした自分の気持ちが、更に掻き乱されたような気がした。

「だって、母さんにあれだけ暴力を振るった親父じゃないか。僕だって耐えていたんだ。母さんが殴られているのを、ただ怯えて見ているしかないのを。僕だって辛かったんだ。だから、あんな親父なんか死んだって関係ないさ。そうさ、あいつは親父なんかじゃない!」

 僕は一気に巻くし立てた。

 母は何も言わず、そのまま台所へ行き、昼食の準備を始めようとする。 

「母さん、何か言ってくれよ!」

 本当はこれ以上、母を追い詰めてはいけないことは承知していた。しかし意外な母の言葉に混乱を来した僕の頭は、目の前にいる母に救いを求めるしかなかったのだ。

「だから言っただろう。お前の父親のことなんだから、お前が決めなさい。もう大人なんだから」

「そんなこと言ったって……」

「ひとつだけ言っておくわ」

 母がやるせない顔をして振り返る。その表情は、そうだ、父と暮らしていた時の、暗く淀んだ母の表情だ。僕はこの時、少しばかり母を追い詰めてしまったと後悔した。

「何だい?」

「お父さんとお母さんはね、あれでも好いて一緒になった仲なんだよ。あんな人でもね、逃げる時は本当に後ろ髪を惹かれる思いだったんだよ。あの人はね、誰かが側についていなきゃ、だめな人なんだよ」

 母がエプロンで瞼を拭った。目尻にできた小皺が光っている。

 僕はまだ母が父を愛していることを知った。しかしこの時、正直なところ、僕には母の気持ちが理解できなかった。ただ、母が僕に父の遺骨を拾ってほしいと訴えているような気がしてならなかった。母の願いとならば、聞いてやらねばなるまい。

 僕は電話の受話器を持ち上げて、自分を確かめるように数字を押す。電話のコールが異様に長く感じられた。

「お待たせしました。小田原合同庁舎でございます」

 品の良い、柔らかな女性の声に後押しされて僕は言った。

「福祉事務所の澤井さんをお願いします」


 その夜、僕は製鉄所の溶鉱炉の中を眺めていた。

 ドロドロに溶かされた鉄は対流し、まるで生物のように蠢いている。僕はいつもこの光景を見て思う。鉄は生きているのではないのかと。

 僕は汗を拭った。作業服の中はいつも蒸れている。ここでは常に、夏とは呼べない暑さが支配しているのだ。

「よう、どうした? ぼんやりして」

 コンビを組む柿澤先輩が声を掛けてくれた。気さくな中年の先輩で、僕の面倒をよく見てくれる。そんな彼を僕は慕っていた。

「いや、いつも思うんですよね。鉄って生きているんじゃないかって」

 僕が溶鉱炉の中を覗き込みながらそう言うと、柿澤先輩も灼熱の泥流を覗き込む。

「そうよ。鉄は生きているんだ。何せ俺たちが魂を込めて作っているんだからな」

 僕は柿澤先輩の横顔を覗いた。その顔は自信と男の誇りに満ちていた。

「そうですよね……」

 僕も自分の仕事に自信と誇りを持ちたかった。しかし毎日繰り返される同じような作業は決して面白いものではない。

 毎日、煤けた商店街を抜けて製鉄所の門をくぐる。そして繰り返される単調な作業は、半ば諦めに似た感情を僕に抱かせる。

 時々、レバーを引く自分の手が機械のように思えることがある。製鉄所という要塞に配置された部品。そんなふうに自分のことを感じることがあるのだ。

 給与にしても振込みで、もらうのは薄っぺらな明細書のみだ。これでは働いて金銭を得たという実感が湧かない。それでも食べていくには働かねばならない。僕の胸の中は溶鉱炉のように熱くはなく、いつも不完全燃焼状態だった。

「この鉄も冷えて製品になる。そこから先は生かすも殺すも使い手次第だ」

「えっ?」

 僕はその言葉に一瞬、心臓がドキッとした。自分でも脈が乱れたのがわかる。

「人も同じよ。生まれた時にはまっさらだし、良く生きようと自然に努力するもんだ。本能でな。でもそのうちに不純物が混じったり、自分自身の使い方を間違ったりしちまうんだなあ」

 柿澤先輩がしみじみと言った。少し脂ぎった顔に汗が滴っている。

「そうだ、ボーナスが出たら、久々にパーッと夜遊びでも行くか?」

 柿澤先輩がニタリと笑って僕の方を向いた。

「いや、今はそんな心境じゃないんです。父が死んだんですよ」

「ほう、あのお袋さんと逃げてきたっていう……」

「ええ、もう赤の他人だと思っていたんですがね。福祉事務所から電話があって骨だけでも引き取って欲しいって……」

「そうか……」

 柿澤先輩は腕組みをし、目を瞑った。仕事の時に見せる真剣な顔とは違い、神妙な顔つきだ。

「俺もな、親父の死に目には会えなかったんだよ。まあ、それほど仲の悪い親子じゃなかったけれどな。親父の遺骨を埋葬する時、お寺さんに無縁仏があってよ。それが薄汚えんだ。あんなところに埋葬されるのは可哀想だって思った記憶があるなあ」

「無縁仏……ですか?」

「手入れなんかされていなければ、誰も花ひとつ供えちゃくれねえ。きっと死んだことすら忘れ去られた人たちの墓なんだろうな」

 僕は父が無縁仏に埋葬され、そのまま永遠に生きていた証まで抹消されるイメージが広がった。

(あんな親父なんて……)

 そう思う反面、母の揺れる思いが僕の心を揺さぶる。

 溶鉱炉の鉄は対流を続け、高鳴る僕の心臓のように脈打っていた。

「今しかできないことってあるぞ。俺の人生なんか後悔だらけだ」

 そう言って笑顔を作る柿澤先輩の目は、笑ってはいなかった。

 僕は溶鉱炉の中で蠢く、溶解した鉄を見つめ続けた。


 翌朝、夜勤明けで喪服に着替えた僕は東海道線に飛び乗った。父の火葬は午後一時半から、真鶴町にある火葬場で執り行われるという。

 朝の東海道線は混み合っていた。川崎駅から乗っても、既に空いている席はない。夜勤明けで真鶴まで立ちっぱなしは少々きつい。

 だが藤沢駅でドッと人が降りた。僕は対面式シートの窓側に座ることができた。以前は硬く、座り心地が悪かったシートも、今は改良されている。しかしお尻の辺りがモゾモゾとして、座り心地が良いわけではなかった。それは僕が父に会いに行くのを、心の奥底で拒んでいるからに他ならない。決してシートのせいではなかった。

 早川駅を過ぎると、左手には海が広がる。深い青に太陽の光が眩しく反射し、銀をちりばめたようだ。僕は思わず目を細めた。磯場には波が豪快に打ち付けられる。

 観光客にとっては絶景であるこの景色も、今の僕にとっては重苦しい、淀んだ景色に過ぎない。磯場に打ち付ける白波もまるで牙のようだ。それは線路が進むにつれ、僕の心に重くのしかかってくる。

 ふと、深海の海底に降り積もるマリンスノーのイメージが浮かんだ。それは決して綺麗なものではなく、僕の胸の中に降り積もりながら、淀んでいく澱だった。


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