(第15話)アスター侯爵が失ったもの~お父様目線~
執事からの速達でデイジーが目覚めたと知った俺は安堵した。これできっとデイジーはフレディ殿下の側妃に選ばれるだろう。
だが、いつも通り仕事を終えてディナーの席に着いた時に、テーブルセットが一人分しか用意されていないことに首を傾げた。
「デイジーは目覚めたんだろう? なぜ俺の分しか準備がされていないんだ?」
そんな俺の疑問に返ってきたのは、執事の感情を感じさせない声だった。
「デイジーお嬢様は先にディナーを召し上がられてすでに就寝されております」
デイジーが先にディナーを食べた? そんなことは今まで一度だってなかった。デイジーは王宮に泊まる時以外は、たとえ俺がどんなに遅くなったとしても必ず俺の帰りを待っていた。
「医者の診断ではどこも問題なかったんだろう?」
「はい。デイジーお嬢様ご自身も体調に問題はないとおっしゃっておりました。ただ『学園には一週間ほど様子を見てから通いたい』ので、旦那様にそれで問題ないか確認するように言われております」
「それは問題ない。それよりもなぜデイジーは勝手にディナーを食べたんだ!?」
「勝手に? ですか?」
「勝手に、だろう? なぜ俺を待たずに先に食べるんだ!」
思わず声を荒げた俺に、執事は悲しそうな顔をした。
「旦那様はいつもデイジーお嬢様に『一緒に食べる必要なんてない』とおっしゃっていたではないですか? お食事の席でデイジーお嬢様が何を話しかけても碌々お返事もされなかったではないですか」
至極まっとうな執事の問いに、俺は何も答えられなかった。
「……もういい。デイジーとは明日の朝食の際に話をする」
「明日の朝食も旦那様とは別にご用意するように仰せつかっております」
「なんだと!?」
「朝食は旦那様が出掛けられた後に一人でお召し上がりになるとのことでございます」
なぜだ? 今までデイジーは俺がどんなに言っても『お忙しいお父様とせめて食事の時間だけでも一緒に過ごしたいのです』と言って譲らなかった。だから、妻が死んでからも俺は必ずデイジーと一緒に食事をしていた。それなのに……。
「僭越ながら、デイジーお嬢様は原因不明の病から目覚めたばかりです。お話をされるのであればお嬢様が起きている時間に旦那様が合わせてはいかがでしょうか?」
執事の言葉は何も間違っていない。
だが、今まで俺がデイジーに合わせたことなど一度もなかった。デイジーはいつだって俺を待っていた。俺の都合に合わせてデイジーが動くことが当たり前だったんだ。それなのにいくら目覚めたばかりだとはいえ、俺の方がデイジーに合わせて調整するなどと……。
「目覚めたばかりで甘えているだけだろう。俺が合わせる必要はない」
俺はそう切り捨てた。執事は何も言わなかった。
そうだ。病み上がりで我儘を言っているだけだ。体調が戻ればきっとまた俺の都合に合わせて行動をするはずだ。デイジーにとって今は側妃に選ばれるかどうかの大事な時期なのだ。俺が甘やかして我儘になっては困る。そうだ。すべてはデイジーのためなのだ。
だから俺はデイジーのために仕事を調整することはしなかった。だが、二日経ち、三日経ってもデイジーが俺と食事を共にすることはなかった。
結局、俺がデイジーと話をしたのはデイジーが目覚めた四日後、俺の仕事が休みの日だった。
俺がデイジーの朝食の時間に合わせた。そんなことは妻が死んでから初めてのことだった。
「お父様。おはようございます」
俺を見たデイジーは微笑んだ。だがその顔は、二か月前まで必死で俺の機嫌を取ろうとしていた顔とは違って見えた。それは、まるで公務の時のような完璧な微笑みだった。
いつもなら俺が何も話さなくてもデイジーが必死で話しかけてくるのに、今日はデイジーは何も話しかけてこなかった。まるで俺なんか存在しないかのように黙々とナイフを動かしていた。
「今は側妃に選ばれるかの大切な時期なんだ。何を拗ねているか知らんが我儘はいい加減にしなさい」
デイジーの態度に腹が立っていた俺は、苦言を呈した。このくらいいつも言っていることだ。きっとデイジーは反省してすぐに謝るだろう。
そう思っていたのに。
「私は、側妃になどなりません」
デイジーは怯むことなくきっぱりと言った。
「俺に逆らうのか!?」
「私がフレディ殿下の側妃になって使い潰されたところでアスター侯爵家の利になるとは思えません」
「俺は、アスター侯爵家ではなく、お前の幸せのために言っているのだ!」
俺の言葉にデイジーは今日初めて表情を崩した。ひどく驚いた顔をしていた。
「……私の幸せですか?」
「そうだ! 俺がお前の幸せのために今までどれだけ苦労したと思っているんだ!」
「……ご冗談でしょう?」
「なんだとっ!」
「だって、私、お父様と一緒に過ごしていて幸せだったことなんて、一瞬たりともありません」
デイジーは真顔で言った。
体中から力が抜けていくようだった。
なんだ? これは? 何が起こっているんだ?
デイジーが俺といて幸せだったことがないなんてそんなことはありえない。いや、たとえ今はそうだとしても、結婚式で、結婚式の日に、デイジーは泣きながら俺に向かって『お父様のおかげで私はこの国で一番に幸せになれました』と言うんだ。
そうでなければいけないんだ。
なぜなら、それが妻の最期の望みなのだから。
だから、そうでなければいけないんだ。
「お父様。私、きっと今まで忙しすぎたんです。お母様が亡くなってから毎日毎日学ぶことが多すぎて、自分の時間なんて少しもとれませんでした。それを当たり前だと思っていましたし、アスター侯爵家のため、お父様のために自分に出来ることは精一杯やろうと決めていました。ですが日々時間に追われて、やるべきことをこなして疲れ切って眠るだけの日々の中で、自分自身のことを考えることが全く出来ていませんでした」
デイジーはまっすぐに俺を見つめて言葉を続けた。
「この二か月間で、私は自分のことを考えることが初めて出来ました。お父様。私のために優秀な先生を手配してくださってありがとうございます。私の教育にお金をかけてくださって感謝しています。でも、それだけでした。お父様と過ごす時間は苦痛だったのだとやっと気づきました」
「……俺と過ごすのが苦痛?」
「はい。お母様が亡くなってからずっとお父様と心を通わせたいと思っていましたが、何年間も毎日毎日必死で話しかけても無視されるのは、とても苦しくて悲しかったです。自分の心を殺してまでもお父様と、自分に関心のない、自分のことを道具としか思っていない人間と、無理をして寄り添う必要はないとやっと気づきました」
いいや違う。俺はただお前を、妻の望み通りにこの国で一番に幸せにしたかっただけなんだ。だからすべてはお前のためなんだ。
そのことをデイジーに伝えなければいけないと思うのに、乾いた唇から言葉は出なかった。
そして、デイジーも俺の言葉を待ってはいなかった。
そのまま無言で食事を終えて『ご馳走様でした』とだけ言って、俺を一瞥もせずに席を立った。
俺には、ひどく遠くなってしまった娘の背中を見つめることしか出来なかった。