(第11話)後悔まであと一歩~フレディ殿下目線~
デイジーが目を覚まさなくなってもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。
デイジーとの婚約を解消してから、少しずつ歯車が狂いだしたように上手くいかないことが増えた。今までよりも増えた業務量に、やる必要のなかった生徒会の仕事まで重なり、とても試験勉強なんてする時間もなく、順位が大幅に落ちた。ただでさえイラついているのに、学園や王宮内での僕に向かう視線がなんだか以前とは違って突き刺さるようで居心地が悪いのだ。
「これから僕の受けている王子教育の内容が変わるから、もう兄上の業務は手伝えないよ」
珍しく僕の執務室を訪れたジェイクは、先日母上がお茶会で浮かべていたような、いつもの笑顔で言った。
「ジェイクの王子教育の内容が変わる? どういう意味だ? いや、それよりもこれ以上僕の業務の負担が増えるのは困る」
いつもなら自分の弱みになるようなことを弟に言うはずがないのに、この時の僕はそんなことにも気付かないほど追いつめられていた。
「兄上。僕は兄上の英断に感銘を受けたんだ」
「……僕の英断……?」
「兄上にはデイジー様が必要なのに、国のためにデイジー様との婚約を解消したじゃないか」
「何を言っているんだ? 僕がルーラを選んだのは『真実の愛』のためで……」
「冗談でしょう? 『真実の愛』だなんて王族どころか貴族でさえ失笑するような言葉を兄上が本気で言うはずがないよ」
「なんだと!」
「第二王子である僕や、第三王子のブレイクだって国のためであればどんな相手とだって結婚をする覚悟があるのに、第一王子である兄上が『真実の愛』なんて理由で婚約者を選定するだなんてそんなはずがないじゃないか」
「それは……。ルーラは聖女だから」
「そうだよ。ルーラ様が聖女だからこの国のために兄上は自分の婚約者にしたんだ。自分自身の欲のためなんかではなく、この国のために。そうでしょう?」
「……ああ。そうだ。すべて国のためだ。僕はやがて国王になるのだから」
「兄上が国王になるつもりなら、やっぱり兄上の英断は本当にすごいよ!」
「つもりも何も第一王子である僕が国王になるのは当然のことだろう!」
「だってこれからオルタナ帝国語とソルト王国語をマスターしなければいけないし、その他にも足りていない項目をすべて学び直すんでしょう? 兄上はあまり学ぶことは好きではないのかなと思っていたんだけど、国のために重い腰をあげたんだね! さすが兄上だよ!」
僕にはジェイクの言っている意味が理解出来なかった。
「どうして僕が今さら学び直しなど……」
「えっ? だって王太子に任命されるためには、最低でも近隣三か国語を話せることが条件じゃないか。王子自身が条件を満たせない項目についてその婚約者が満たせている場合には認められるという特例があるから今までは兄上がマスター出来なくても免除されていたんでしょう?」
言われて初めて思い出した。
もう何年も前になるけれど、外国語をマスター出来ない僕にデイジーが『オルタナ帝国語とソルト王国語は私が勉強します』と言ったんだ。だから国外から来賓が来た時にはいつもデイジーが王宮に泊まってまで僕と一緒にその対応をしていたんだった……。デイジーがいないと僕は彼らの言葉が理解出来ないから……。
そういう項目は他にもあった。僕が苦手だったり出来ないと言えばデイジーはいつだって『私が勉強します』と言って引き取ってくれたから……。
「それに国内貴族の領地のことも一から学び直す必要があるだろうし、兄上はこれからとても大変だと思うけど、それでもデイジー様を手放す決断をするなんてすごいよ!」
「……貴族の領地……?」
「えっ? だって聖女のお披露目パーティーで挨拶に来た貴族とまともに会話さえ出来なかったんでしょう? 今までは常にデイジー様が兄上と一緒にいてその貴族の領地の名産品や特色を教えてくれたけど、それがなくなったら何を話していいか分からない兄上はただ曖昧に笑っているだけだったって王宮中で話題になってたよ?」
「なっ!?」
「学園ではルーラ様のデイジー様への礼儀を弁えない態度の方が噂になっていたから気付かなかった? 僕はそのために兄上はルーラ様の暴走を止めなかったのかと思ってたよ」
「……」
「自分の失態を隠すために、婚約者となったルーラ様がもっと酷い失態をするように仕向けたのかなって。でもよく考えたらルーラ様の失態は兄上の失態なんだからそんなはずないよね? やっぱり僕には兄上の考えは高度すぎて理解出来ないや」
少しも変わらない笑顔で言葉を続けるジェイクが得体のしれないもののように思えた。
「王太子に任命されるためにはこれから兄上には学ぶことが多すぎてやっぱり業務を戻すことは難しいよね? 国王陛下にも相談してみるね」
「やめろ! 父上にそんな相談するな!」
「えっ? でも兄上には出来ないでしょう?」
「……それは……。そうだ! デイジーが目覚めれば! デイジーが僕の側妃になれば今まで通りだ! 僕の足りない項目は側妃であるデイジーが補えば問題ないはずだ!」
「兄上何を言っているの? 疲れているなら少し休んだ方がいいよ」
「どういう意味だ!」
「だって王子が出来ない項目を婚約者に満たさせること自体が特例なんだよ? ただでさえ恥ずべきことなのに、まさか婚約者ですらない側妃候補にその条件を満たさせて王太子に任命されたいだなんてそんなこと議会に認められるはずがないじゃないか。それにデイジー様が兄上の側妃になることはもはや絶対にありえないよ」
「……絶対になどと……」
「絶対にだよ。それにデイジー様自身がそんなことを望んでないことが証明されたからね」
「いや、デイジーは望むはずだ。たとえ側妃だとしても、これからもずっと僕を支えることを望むはずだ」
デイジーは僕を心から慕っているんだから。
『デイジー。僕はこれから生涯をかけて君を大切にすると誓うよ。だから君はいつも僕を信じてついてきてほしい』そう言って笑った僕の顔を見て、デイジーは顔を真っ赤にした。
それからずっと僕に逆らうことなんて一度もなく、いつだって僕のためだけに尽くしてきた。だから目を覚ましても何も変わらないはずだ。
デイジーが目を覚ましさえすれば、彼女が『側妃になって僕を支えたい』とそう言いさえすれば、すべて今まで通りだ。
「兄上は、自分に奇跡が起きたその最も眩しい瞬間に、最も大切なものを見失ったんだよ。誰かに一言でも聞けば、いや自分で少しでも考えてみればすぐに気付いただろうに」
「……何のことだ?」
「兄上は、聖女の力で目覚めた時に言ったよね? 『ずっと苦しみの中で温かさを感じていた』って」
「そうだ。だから僕はルーラを真実に愛したんだ。死にそうな苦しみのなかでずっと感じていた温もり。その温もりこそが僕の命を救ってくれた。聖女であるルーラこそが僕の『真実の愛』の相手なんだ」
「命を救ってくれた聖女を真実に愛するという兄上の理論でいけば、重病を患った患者は全員その主治医を愛することになるね」
「……それは……」
「聖女が兄上の寝室を訪れたのは奇跡を起こす直前だよ。彼女はそれまでデイジー様がいた位置を奪って兄上に祈りを捧げた。少し考えればわかるよね? それまでずっと二週間もの間、兄上の回復を信じてその手を握り続けたのは、デイジー様だよ。兄上の感じていた温もりは、デイジー様だったんだよ」
ジェイクは最後までその笑顔を崩すことはなかった。だけどその瞳が、母上が見せたのと同じように冷えきっていることに、僕はやっと気づいた。
「デイジー様は聖女ではないからティアーズ病を治すなんて奇跡は起こせないけどね。それでも兄上が苦しみのなかでその手の温かさにずっと癒されていたのなら、その手の温かさが兄上を守ってくれていたのなら、僕はそれこそが奇跡と呼べるのではないかと思うよ」
ジェイクが告げた事実は、足元が崩れていくような、信じていた前提がすべて崩れていくような衝撃だった。
それでも僕は、この時でもまだ信じていた。まだ間に合う、と。
デイジーの目が覚めれば、デイジーはきっと今まで通り僕を支えることを望むから、だからすべては元通りになる、と。