(第10話)アスター侯爵の信じた幸せ~お父様目線~
「ねぇ? 愛しい貴方。お願いね。どうかデイジーを、私達の愛するたった一人の娘を、この国で一番に、どうか幸せにしてあげて」
それが妻の、世界でたった一人のかけがえのない妻の、遺言だった。
その日の朝には笑顔で見送ってくれた妻が突然の事故にあったと知らせを受けた俺は、仕事をすべて投げ出して妻のもとに向かった。そんな俺に残された妻からの最後の言葉だった。
最愛の妻が亡くなったのはデイジーがまだ五歳の時だった。
それまで子育てのすべてを妻に任せていた俺は、妻がもうこの世界にいないというショックとあわせて途方に暮れた。
ただ単に育てるだけなら使用人に任せればいい。だけど妻の遺言はただ育てるだけでは果たせない。
デイジーは、この国で一番に幸せにならないといけないのだ。
俺は妻を心から愛していた。妻さえいれば他には何もいらないと本気で思えるほどに。妻が産んだ子どもは可愛いとは思ったが、妻よりも大切だとはどうしても思えなかった。きっと俺には父親として必要なものがどこか欠けているのだろう。
そんな俺には、どうすればデイジーが幸せになるのかなんて分かるはずもなかった。ただ、自分自身が愛する妻の死から立ち直れずに時だけが流れて焦っていた。とりあえずデイジーを幸せにさせるためにはどこに出しても恥ずかしくない教養やマナーが必要だろうと有名な家庭教師を手配して最高の教育環境を用意した。
その甲斐があって、デイジーに第一王子との婚約の打診が来た。
その時に、やっと妻が望んでいたことが分かった気がした。
そうだ。この国の王妃になることがデイジーにとって一番の幸せなんだ。なぜならば王妃こそがこの国で一番に身分の高い女性なのだから。だからデイジーを王妃にすることこそが妻の願いなのだ。
だから、デイジーは妻のために王妃にならなくてはいけないのだ。
それ以来、デイジーを王妃にすることだけが、俺の目標になった。
「私がフレディ殿下に嫁いだらアスター侯爵家はどうなるのでしょうか?」
それなのにデイジーは、フレディ殿下との婚約を告げた時に喜ぶどころか心配そうにそんなことを言った。そうじゃないだろう。ここは『第一王子の婚約者に選ばれて幸せだ』と言って笑う場面だろう。
「余計なことを考えるな。お前はただフレディ殿下のために尽くすことだけを考えなさい」
デイジーの幸せを思って俺は言った。フレディ殿下のために尽くすことこそが、デイジーがこの国で一番に幸せになるための、王妃となるための、最も有効な手段なのだから。
だから、その時にデイジーがどんな顔をしていたかなんて見てすらいなかった。
アスター侯爵家は遠縁の優秀な若者に継がせることにした。本来ならアスター侯爵家で後継者教育をさせるべきだが、万が一デイジーとの間に男女の何かがあってはたまらないと家庭教師だけを派遣していた。学園を卒業したデイジーが王宮で暮らすようになったら、アスター侯爵家での教育を開始する予定だ。
デイジーには後継者の存在について説明や紹介すらしていない。
それもこれもすべてはデイジーの幸せのため。デイジーが余計な心配をせずに王子妃教育に励めるように配慮した結果なのだ。
「フレディ殿下がティアーズ病を発症した」
そのことを聞いた時も俺は動じなかった。
なぜならば第二王子であるジェイク殿下には婚約者がいなかったからだ。
フレディ殿下に万が一のことがあったとしても、すでに王子妃教育をほぼ完璧に習得しているデイジーがジェイク殿下の婚約者に指名されてそのまま王妃となることは間違いないだろう。
デイジーが王妃になれるのなら、妻の最後の願いを叶えることができるのなら、デイジーの結婚相手がフレディ殿下だろうがジェイク殿下だろうがどちらでも良い。
だが、聖女の出現と、フレディ殿下が聖女を婚約者にしたいと言い出した時にはさすがに絶望した。
どんなにデイジーが優秀だとしても、ただの人間が聖女には敵うはずがないのだ。
……だとしたら、せめて側妃としてでも……。
側妃だとしても王妃の次には身分が高い。聖女が王妃となることはどうしようもないとして、側妃ならば人間の中ではこの国で一番に幸せだと言えるのではないか?
絶望の中で見出したその希望に俺はすがった。
妻の願いを叶えるために、デイジーをフレディ殿下の側妃にさせなければいけない。
なぜならば、妻のためにデイジーはこの国で一番に幸せにならなければいけないのだから。
だから、フレディ殿下の側妃になることはデイジーの義務なのだ。
そして、それこそがデイジー自身の幸せなのだと俺は信じていた。
……だから、自分の未来を憂うデイジーに『名誉なことだろう?』などと吐き捨てた、その言葉を聞いたデイジーがどんな顔をしていたか、この時も俺には少しも見えていなかったのだ。
デイジーが眠りについてそろそろ二ヶ月が経とうとしている。
このままデイジーが目覚めなければフレディ殿下の側妃となる道が閉ざされてしまうことにどうしようもない焦燥を感じていた。さらには、ここ数週間ほど体調がひどく悪かった。
「薬膳スープとかいうのをまた出すように」
ディナーの席にシェフを呼んで命じた。
何年か前からディナーには薬膳スープなるものが必ず添えられていた。俺はその見た目も味もあまり好みではなかったが、デイジーに、
「お父様。薬膳スープはとても身体に良いのでぜひ召し上がってください」
と言われて、反論するのも面倒でしぶしぶ飲んでいた。
スープなんかで体調が変わるものかとは思うが、デイジーが目覚めなくなってから薬膳スープが出なくなり、それから体調が悪くなったので、もしかしたらと思ったのだ。
「デイジーお嬢様がいなければ薬膳スープをお出しすることは出来ません」
シェフから返ってきたのは、意味の分からない答えだった。
「あの薬膳スープのレシピはすべてデイジーお嬢様が考えておりました。デイジーお嬢様の指示がなければ私達だけでは作ることが出来ないのです」
初めて聞く話だった。あの薬膳スープがデイジーの指示だと?
「デイジーお嬢様は旦那様の体調があまりよくないことをいつも心配しておられました。そのためお忙しい時間の合間を縫って文献などで薬膳に関する勉強をされていたのです」
デイジーが俺の体調を心配して? まさかそんなはず……。……いや、たとえそれが事実だとしても余計なことだ。薬膳の勉強など王妃教育の役には立たないではないか。そんな暇があるのなら、自分の幸せのためにもっと役に立つ勉強をすれば良かったのに……。
「……薬膳スープの件はもういい」
「……はい……」
「次はメニューの件だ。最近ローストチキンが出ていない」
ローストチキンは妻の好物だった。だから俺もいつの間にか好きになっていて、ローストチキンを食べると妻の笑顔を思い出すのだ。
今までは月に数回はローストチキンが出ていたのに、デイジーが眠りについてからは一度も出ていなかった。
「……本当にローストチキンをお出ししてしまって良いのですか?」
「どういう意味だ?」
「ローストチキンはデイジーお嬢様のお好きな食べ物ですので、デイジーお嬢様が目覚めたらいつでもお出しできるようにメニューから外していたのです」
「……ローストチキンがデイジーの好物だと?」
それも初めて聞く話だった。
「はい。『お父様はローストチキンの時だけは味わって嬉しそうに食べているの。きっとローストチキンがお好きなのね。だから私もローストチキンが大好きよ』そう言って笑っておられました」
俺が好きなものだからデイジーも好き? なんだ、それは……。そんなのはまるで普通の親子みたいじゃないか。
デイジーの幸せはそんな些細なものではないだろう? この国で一番の幸せとはそんな細やかなものではないだろう?
誰より完璧で、身分の高い女性にしてやることがデイジーの幸せだと、そう信じていたんだ。
だから、親子としての触れ合いなんかよりも家庭教師を手配する方が大切だと思っていた。寄り添ってやることよりも将来のために道を開いてやることが必要だと思っていた。
本当にそう信じていたんだ。
……たとえそれが本当はデイジー自身のためなんかではなく、亡き妻の願いを叶えるためだけだったとしても……。