彼女への想い
イオニス目線です
カラマントス家では男だけで朝食を取るのが決まりだった。
今朝もイオニスは父とネストル、そして5歳になるネストルの息子マーカスとテーブルについていた。
昨日のことが頭から離れない。
目を瞑ると娼婦のようなドレス姿のマリリエンヌが浮かび、結局朝まで一睡も出来なかった。
食事も喉を通らない。もう少ししたら失礼しよう、と思っていた時だった。
「陛下、失礼いたします」
父の側近が入室してきた。
食事中に来るなど滅多にないことだ。
彼が父親に何かを囁くと、父の大きな目がイオニスを真っ直ぐとらえた。
「わかった。下がってよい。」
「何かあったのですか?」
兄のネストルが尋ねた。父はネストルを見もせずイオニスを見つめたまま口を開いた。
「マリリエンヌ嬢が亡くなった」
「なぜ?いつですか?」
ネストルが声を上げた。
「昨日、舞踏会の帰りらしい。横転した馬車の中からマリリエンヌが発見された。」
イオニスは握りしめていたフォークとナイフをゆっくり置くと
「申し訳ございません。失礼いたします」
といって立ち上がった。
逃げるように立ち去ろうとするイオニスの耳には、ネストルが小さく「クソっ」と呟いた声は届かなかった。
日課である執務をこなし会見をこなし…その日のイオニスは誰が見てもいつも通り完璧だった。
才知に溢れ穏やかな笑顔は人々を魅了した。
誰1人気づくはずもない、知るはずもない…まさか理想の王太子である目の前の彼が心の中で叫び声を上げていたことを。
「早く夜になってくれ!」
夜半過ぎ、人々が寝静まった頃、イオニスはひっそり城を出てある場所へ向かっていた。
庭園を抜けて噴水を越えていくと温室がある。
花々が咲き乱れ芳しい匂いが充満する温室はマリリエンヌとイオニスのお気に入りの場所だった。
10歳と8歳の婚約者が初めて手をつなぎデートをしたのもここだった。
イオニスは温室に入り鍵を閉めた。
「うわぁぁぁあああ!!わぁあああ!うううっっっ!ああああぁぁぁぁぁ!」
声の限りに泣き叫んだ。
なぜだ!なぜだ!なぜこんなことになったのだ!!
マリー!!!!!!
彼は地面に突っ伏し泣き続けた。
愛していたのだ。心から。マリーだけを。
彼女の異変には気づいていた。もちろんだ。それでも愛していた。
だから昨日、婚約解消を口にした時も、心では「否定してくれ」「何か言ってくれ」と叫んでいた。何か不平があるなら言ってくれたほうがまだマシだ。
なぜ黙る?なぜ横を向く?なぜ私を見ないのだ!
だから、いっそ未練がましいと思われてしまうくらい彼女に詰問を繰り返してしまった。
今この時を逃したら二度と関係を修復出来ない気がしたのだ。
しかし彼女は答えなかった。横を向いたまま彼を見もしなかった。
まさか、関係を修復するどころか彼女を永遠に失ってしまうなんて。
彼女の瞳、口唇、頬、肌、銀色の髪、手、彼女を初めて抱きしめた時のこと、初めて口づけをした日のこと…
全てが次々と彼を襲い、彼は叫ぶことをやめられなかった。声を出していなければ、自分の思いを自分の身体が受け止められなかった。
どうしたらいいのだ。これから俺はどうやって生きればいいのだ。
彼女からの拒絶が始まっても、様々な悪い噂が耳に入ってきても、それでも彼女を永遠に失うなど考えたこともなかった。
様々な悪い噂…そう、ここ数ヶ月、マリリエンヌの悪い噂はひっきりなしに聞こえてきていたのだ。
マリリエンヌが自分の誘いを断るようになった。最初はただ都合が悪いのだと思っていた。…それまでどんな時も断られたことはなかったのだが…
そして彼女に避けられるのと時を同じくして彼女の義妹であるローダが自分の周りをウロウロし始めた。
マリリエンヌからあまり関係が良くないと聞いていたので彼はローダからは距離を置いていた。
しかしマリリエンヌの態度がおかしいと確信したある日、ついにローダに声をかけた。
彼女は最初は言いにくそうにしていたが
「殿下の醜聞に関わることでもありますので…」
と前置きをし、こう言ったのである。
「最近、姉は複数の男性とよく夜に出掛けているのです」
まさか!マリリエンヌに限って!
イオニスはすぐに側近長ジリルを呼んだ。
彼はイオニスより一廻りほど年上で、イオニスが慣れない執務に奮闘している時からずっと隣でイオニスを支えてくれた、イオニスが最も信頼していた男だった。
イオニスは彼にマリリエンヌの周辺を調べてほしいと頼んだ。
ジリルはすぐに報告を上げてきた。その報告はローダの言葉を裏付けるものだった。
イオニスは愕然とした。
それからというもの舞踏会でもお茶会でも、マリリエンヌの夜遊びの噂は話題の的だった。そしてそれは1つや2つの噂ではなかった。
同時に、自分とローダが婚約をするという噂も流れていた。
イオニスはマリリエンヌと話をしたかった。確かめたかった。しかし何度会いたいと文を送っても、彼女からの返事はなかった。
そして昨夜の舞踏会。珍しくマリリエンヌが来ると聞いてイオニスは喜んだ。
きっと実際に会えば誤解は解ける。きっと彼女は以前のような笑顔を向けてくれる。
そう思ってホールに出向き、彼女を見たとたん身体から一気に血の気が引いた。
そこには娼婦のようなドレスを着た、イオニスの知らないマリリエンヌがいた。
真っ白なきめ細やかな胸元には見せつけるかのように輝くパープルルビーのネックレス。
…他の男からの贈り物か?!
そう思ったとたん、一気に怒りがこみ上げた。
人目も憚らず彼女に詰め寄り婚約解消を宣言したイオニスは怒りに震えながら自室へ戻ろうとしていた。
その腕をいきなり誰かに掴まれ振り返ると、そこにはローダがいた。
その媚びるような目に虫唾が走った。
「ローダ嬢、私がいつあなたに、私に触れて良いと許可したのだ?」
「え?でも…」
「なにか思い違いをされているようだが、私はあなたとどうこうなるつもりは一切ない。
例えこのままマリリエンヌとの婚約がなくなっても、あなたを私の妻に迎えることは絶対にない。
勘違い甚だしいぞ。控えよ。」
呆然とするローダをその場に残し、彼は自室へ向かい一睡もできず朝を迎えたのだった。
全てが昨日のことだったなんて信じられない。もう遠い遠い昔のことのようだ。
マリリエンヌと過ごした時間すらもういつのことなのかわからないくらいだ。
空が白み始める頃、ようやく彼は涙を止めることが出来た。
ーーーーーー
マリリエンヌの死から数日が経った。
イオニスは眠れない日々が続いていた。夜になると、涙はいつ枯れるともなく彼を襲った。
「この度は本当になんと悲しいことで。お気を落とされませんように」
回廊ですれ違う際に、兄の正妃であるライザールに声をかけられた。
「ライザール様、お気遣いありがとうございます。大丈夫です。」
「…大丈夫そうには見えませんが」
ライザールは悲しげに微笑んだ。
「最後の…彼女との最後の会話があまりにも残酷だったので…それが…情けない話です」
「残酷?」
ライザールはマリリエンヌの噂は知っているようだが、舞踏会での出来事は知らなかったようだ。
なぜか…回廊での立ち話だというのに…イオニスはライザールについ話し始めてしまった。
心が弱り、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
ライザールは少し考えこみイオニスには理解出来ない言葉を言った。
「…そういうことになっていたのですね…どこまで卑劣な…」
イオニスが聞き返そうとするとライザールは続けた。
「イオニス様、ところでイオニス様はマリリエンヌ様の噂を信じていらっしゃったのですか?」
「え?いえ…そういうわけでは…ただ…ジリルから報告も受けていましたし…」
「ジリルから報告…ね…」
「イオニス様、私はあなたをとても立派な方だと思っております。我が夫のネストルと同じ兄弟とは思えないほど……」
「ライザール様?」
「でもイオニス様はお人が良すぎます。もっと人を疑うべきですし…本当に大切なことはどれだけ忙しくてもご自身で確かめるべきです。
そしてもっとご自身を信じるべきです。」
「私は…あなたがお選びになったマリリエンヌ様がそのような噂の方とは露ほども思っておりません。
恐らく…マリリエンヌ様を知る多くの方が同じように思っているはずです。
「今回、イオニス様に咎があるとするならば、それは大切なことと思いながらご自身で確かめなかったことです。
人は…1つの思いだけで生きているわけではありません」
ライザールはイオニスに一礼すると立ち去った。残されたイオニスは少しの間動けずにその場にいた。
何か…何かわからないが、大きな事を自分は見落としているのだろうか。
しかし、それは何なのだ。