母娘の絆
2021年6月20日午前
吉川美樹子(40)
吉川小雪(14)の遺体が自宅で発見された。第一発見者は吉川美樹子の夫、吉川博貴(42)
美樹子は寝室のクローゼットの中で首を吊り、小雪は自室のベッドで首にロープが巻かれた状態で発見された。母の美樹子が娘の小雪を殺害した後に自殺した無理心中と見られる。
遺書は無かった。
警察官の成瀬と工藤は夫の博貴に話を聞いていた。
「昨夜の奥さまのご様子は?」
「夕食を食べてから…私は1階の自室でテレビを見てそのまま寝てしまいましたし、3階の寝室は何年も前から妻の部屋になっていますので、そのあとはわかりません」
「何時ごろまで、ご家族で過ごされてましたか?」
「いや、夕食を食べ始めたのが19時過ぎからだったから、20時には1階の書斎に下りて今日の8時過ぎまでは2階には上がってきてないんです。二人ともリビングに居ないから、寝室に入ったら…」
「奥様を発見されたと…」
博貴の通報で成瀬と工藤が駆けつけた時、博貴は放心状態で涙を流していたが、美樹子の遺体はクローゼットのポールに吊り下がったまま放置されていたのだ。
成瀬が3階の寝室に入った時に衝撃を受けた、部屋には綺麗に整えられたベッドがあるだけ。あとは何もない。
開け放たれたクローゼットに美樹子の遺体があった。
クローゼットに衣類やバッグが一つもない。
隣の小雪の部屋も、中学校の鞄と教科書は学習机に置いてあるが美樹子の部屋と同様に衣類や下着類が無かった。
ただの無理心中ではないのかもしれない。
「奥さまはスマートフォンやタブレットはお持ちじゃ無かったでしょうか?」
「スマホを持ってますよ」
「お部屋を見せて頂いたときに…ご主人、電話を掛けていただけますか?」
「はい」
“お掛けになった番号は電源が入っていないためお繋ぎ出来ません”
「電源が入ってないみたいですね」
「念のため番号を控えさせて下さい」
「どうぞ」
吉川美樹子×××-××××-××××
「ありがとうございます」
「どうだ成瀬」
「工藤さん、なんとも言えない気持ち悪さを感じます。すみません」
「わかる、在宅中に妻と娘が亡くなったというのに落ち着いている。まるで他人事だ」
「そうなんです。奥さまのご遺体を放置だなんて…」
「夫も調べたほうが良いな。無理心中の原因がありそうだ」
「そうですね…」
数日後
「成瀬!吉川美樹子さんの遺書が見つかった、スマホも一緒に」
「どこにあったんですか?」
「加田弁護士事務所」
「えっ」
「まあいい、行くぞ。連絡済みだ」
「はい」
加田弁護士に会いに行く。
「吉川美樹子さんはこちらにはどういったご依頼で…」
「四か月ぐらい前ですね、夫の浮気に対して、精神的な慰謝料請求ですね。夫に対してと相手の女性に対してとどれぐらいの金額と社会的制裁が出来るか…を聞かれてましたけども…」
夫の浮気だけでは娘を道連れに無理心中を図るには、理由が薄い気がした。
もっと深い理由が…遺書を見る。
“歪んだ家族を続けるのに疲れました
吉川博貴と桃田あかりは絶対に許さない”
加田弁護士事務所に届いた封筒には、吉川美樹子の遺書、スマートフォン、探偵事務所が集めた吉川博貴の浮気調査の報告書、美樹子名義の残高が0円の預金通帳が入っていた。
“ご迷惑をおかけします”と一筆添えられていた。
ただの無理心中ではない、遺書を見ればわかる夫への復讐。母娘が心中して価値がなくなったマイホーム。消えた預金。
自分自身が夫の浮気に絶望して自殺しても未来ある娘にまで手をかけるのか?娘を両親に託して…違う道もあったんじゃないか?
そういえば密葬のときに、写真がないって吉川博貴が慌てていたと様子を見ていた捜査員が話していた。美樹子の父親が持っていた、美樹子の両親が撮影した二人の写真を使ったって聞いたが、夫なのに写真すら持ってなかったのか?吉川家は美樹子が生前整理をした痕跡がある。写真は全て処分されていたんだろう。
それと、密葬と言っても金は掛かる。食器棚の引き出しに入っていた、住宅ローンや公共料金などの引き落とし用の博貴名義の預金通帳には残高がほとんど無かったそうだ。
美樹子がパート先を辞めたのは約四か月前、
最後の給料が振り込まれた直後に預金を全て引き出し何に使ったのか?
洋服や雑貨を処分する費用なんて知れているし、母娘で贅沢をしたのか?スマートフォンに残された写真ファイルを見る。
日付を見るとこの四か月間の土日に二人でテーマパークや温泉地に行った写真がある。夫は気づいて無かったのか?無理心中の一週間前に美樹子の両親の家に行っている。
美樹子のパート先に話を聞きにいく。
Aさんの話。ご主人とは会話も無いって言ってたわね、生活するために結婚してるから小雪ちゃんが高校を卒業したら離婚したいって言っていたわ。どこもそんなものよ。お金と時間がないと離婚は簡単に出来ないのよ。
Bさんの話。吉川さんとは家庭の話はあまりしてなかったですね。急に退職されたのでびっくりしました。亡くなったなんて、信じられないです。
社員Cの話。真面目できっちりした方なので、昇級の話も出ていたのですが時給も上がる分シフトや休日の変更も対応してもらわなければならず、娘さんのためにそれは出来ないと断られましたよ。退職は正直困りました、一旦休職でどうかと慰留したんですが本人に強く退職すると言われたので…いや、本当に残念です。
もうパート先を辞める時には心中を決めていた?
中学生の小雪の同級生に話を聞くのは憚られた。
小雪の中学の担任教師の話。
最近の小雪さんですか?この数カ月様子が変わってました、テストも白紙で提出、ノートの提出もなし、三年生ですよ?信じられません。本人に問いただしても無言を通してました。でも、まさかこんなことになるなんて…
娘は死ぬことを知っていたのか?
密葬から落ち着いたころに美樹子の両親に話を聞く。市営住宅の一室だ。
両親の話。
一週間早いけど父の日だって、デパートで買ったとお菓子とお酒を持って小雪と二人で泊まりに来たんだよ。先月の母の日もお花を送ってくれてね。ここには小雪が中学に入る前に来たきりだったし、久しぶりだったから嬉しかったよ。それなのにいきなり死んでしまって、それに二人の形見になるようなものが何も残ってないなんて。
博貴の両親にも話を聞きたいが…大丈夫だろうか?連絡をすると博貴の母親が渋々ながらも了承してくれた。
驚いたことに博貴の母親は博貴の長年の不倫を知っていた。美樹子との結婚が最初から気に入らなかったのだそうだ、桃田あかりのことは気に入っていて何度か会ったことがあるという。
10年前に桃田あかりが妊娠した時に小雪が小さいので美樹子に博貴の母が離婚を勧めたのだそうだ。
桃田あかりが流産して、その話はなくなり吉川博貴の母親と美樹子の間に確執が生まれた。それから美樹子と小雪は吉川博貴の実家には一度も訪れていないし、美樹子からの連絡も一切ない。
美樹子が気に入らなかった理由を聞いてみた。
「だって、美樹子さんは高卒でしょ?それに美樹子さんの実家もねぇ、あまり良い家じゃないのよね。博貴が美樹子さんに子供が出来たって言うから仕方なく結婚を認めたけど、私はもっと学歴のある女性と結婚して欲しかったのよ」
桃田あかりはどうなのだろうか?他人の夫に手を出す女。
「あかりさんは大卒で、良家のお嬢さんなのよ。そのときの赤ちゃんが残念なことにならなければ博貴のお嫁さんに来てもらえたのにね」
なんだこれは?美樹子と小雪が不憫で堪らない。
美樹子はどうして10年前に離婚を選択しなかったのだろうか?
夫婦関係は破綻している、10年前から継続して博貴は桃田あかりと不倫関係にあるのに美樹子は黙認していたのか?
無理心中の一か月後、吉川博貴と桃田あかりが勤める会社と吉川博貴の実家、桃田あかりの実家に内容証明が到着する。
美樹子の両親には美樹子と小雪が書いた手紙が届いた。
死んだ人間が郵便局で手続きができるわけがない。誰が発送したのか?
「加田弁護士!どういうことか説明してください!」
「もう見つかりましたか、日本の警察は優秀ですね」
「なぜ美樹子さんを止めなかったんですか!」
「最初に相談に来られた時は協議離婚でいかに有利に離婚出来るかの相談でした、つい最近までは美樹子さんは娘の小雪さんが高校を卒業したら博貴さんと離婚して、小雪さんと二人で生きていこうと思うと話していました。…ですが小雪さんにもう生きる気力が無かった。美樹子さんに、一緒に死んで欲しいと懇願したんだそうです」
最初に相談に来たのは約10年前、結婚して数年、マイホームも建てたばかり、離婚の慰謝料も大した金額にならないし、養育費不払い問題が多い中パートをしていても生活力に不安のある美樹子に「離婚はいつでもできるから」と離婚しないで良妻賢母を演じて博貴をうまく飼い殺すことを勧めたのは加田弁護士だった。美樹子も納得しそれから一年に一回ほど話を聞いたりしていた。
「最後に美樹子さんに会ったのはいつですか?」
「亡くなる一週間前ですね。実家に行ってきた帰りだって話していたよ。美樹子さんはすっかり憑き物が落ちたような穏やかな顔をしていましたよ。美樹子さんの苦悩をずっと見てきました。…私を罪に問えるなら何でしょうか?」
年老いた弁護士に成瀬は何と声をかければ良いのかわからなかった。
小さい頃の記憶でよく思い出す記憶がある。
運動会の数日後に保育園で仲良しだった美優ちゃんとの喧嘩した記憶。
「小雪ちゃんにはパパがいないの?」
「いるよ」
「どうして運動会を見に来ないの?」
「ママがお仕事だって言ってたもん」
「普通はお仕事休んで見に来るのに、ニセモノのパパだ」
「運動会に来ないからってパパがニセモノなんて言わないで!美優ちゃんひどい!」
私が大声で泣き出す、びっくりした美優ちゃんも泣き出す。先生が慌ててる。
お迎えに来たママが先生から事情を聞かされて、悲しい顔をしていた。
美優ちゃんのママが、美優ちゃんと謝りに来た。
「小雪ちゃん、ごめんなさいね」
「うん。いいよ」
「美優ちゃん、小雪と仲良くしてやってね」
「小雪ちゃん、さっきはひどいこと言ってごめんね」
「もう、いいってば」
そのあと園庭で追いかけっこをした。
そういえば家族三人で何処かに出かけた記憶は無い。アルバムを見ても家族写真はない。パパのおじいちゃんおばあちゃんはどんな顔なのかもわからない。
ママのおじいちゃんおばあちゃんが住んでいるお家に行く時はママと二人で行く。
「博貴くんは仕事が忙しいの?」
「そうなの、お母さんごめんね」
「大変ね」
嘘だよ、おばあちゃん。保育園の運動会も発表会もお仕事が休みでも来てくれたことがないんだよ。
小学校に入っても、運動会はママだけが見に来てくれた。ママだけが私を愛してくれている。パパはご飯を食べるときだけ2階に来て「いただきます」も「おいしい」も「ごちそうさま」も何も言わないで黙ってご飯を食べて、1階のパパの部屋に戻って行く。パパの声は聞いたことがない。
家事は全部ママがしている。私もお手伝いする。私はパパみたいな人は大嫌い。
中学生になって、私は勉強がわからなくなった。友達が居るから学校は好きだけど勉強は大嫌い、高校なんか行きたくない。
でもママは高校だけは卒業してねという。あなたが高校を卒業したら、パパと離婚して自由になりたいからと。
どうして?今離婚しないの?高校生の時が一番お金がかかるのよ。
高校さえ卒業していれば小雪がアルバイトでもしてママと二人で生活していけるから、もう少しだけ我慢するの。ママ…ずっと我慢してるよ?私が保育園の時からだよ。
私、高校なんか行きたくない、もう勉強したくないよ、幸せになれる保証なんてこの先絶対にないよ、死にたいよ!ママ!私と一緒に死んでよ!
…わかった。ママは静かに言った。
「私たちが死んだ後パパがうんと困るようにしないとね。死ぬ前に思いきりママと楽しいことしよう」
ママは私が保育園の時からあの男と桃田あかりが不倫関係を続けていること、生活費は毎月決まった額しかくれないこと、家族なのに私たちに無関心なことを話してくれた…あんな奴パパじゃない、あの男が困る方法で死ぬ。
ママは仕事を辞めた。
10年前に加田弁護士が提案した小雪が大きくなるまで良妻賢母を演じ博貴を飼い殺し離婚して自由になるまで後数年…、無理心中を決めて小雪の学資保険を解約したお金で嫌がらせに使うための証拠を集めるためだけに探偵事務所に依頼した博貴と桃田あかりの浮気調査はほぼ毎日仕事帰りに博貴が桃田あかりの自宅に寄り、数時間過ごして帰宅。土日はほとんど毎週泊まりで桃田あかりの自宅で過ごす。
調べなくてもわかっている博貴の行動。
10年間飼い殺しされていたのは私の方では無かったのか?決まった額でやり繰りする生活費、足りなければ自分のパート代から補填する。
博貴の両親は私が嫌いだし孫が可愛く無いのか誕生日も入学のお祝いも一切してくれない。結婚してすぐにマイホームを購入したのも博貴の両親が強引に話を進めたにも関わらず、援助は一切なし、親戚に見栄を張る為だった。10年前に桃田あかりが妊娠して博貴の浮気がわかった時…博貴の母親に、小雪を連れて出て行けと言われて意地になった。
加田弁護士に相談に行った後に博貴にどうしたいか尋ねた。
「美樹子が小雪にばかり構って、寂しかったんだ。小雪のことは可愛いと思うけど、愛し方がわからない。俺は父親には向いていないのかも知れない。子供は…苦手だ」
「私はあなたにどうしたいか聞いているの?」
「美樹子が離婚したいなら…するよ」
どこまでも他人任せなのか?
「養育費は払ってくれるの?慰謝料は?お義母さんは私と小雪に出て行けと言ったわ!すぐに桃田あかりと再婚する気でいるんでしょ?」
「それは…」
「じゃあ、再婚できないように居座るしかないわね。完全に嫌がらせよ。あなたには愛情も何もありません。でも小雪はあなたの子供よ、成人するまではあなたに責任があるの。あなただけが幸せになるのは許せないわ」
「でも…」
「じゃあ、桃田あかりに会わせて?」
小雪を近所に住むママ友達に預けて、博貴、桃田あかり、私の三人で話し合ったというか私が一方的に話していた。
「博貴は子供が苦手で自分の子供にすら無関心なのに、あなたのそのお腹の赤ちゃんは生まれてきても、きっと愛されませんよ」
と親切にも教えてあげた。私と同じ轍を踏みたくないのなら自分で考えなさいと。
「あと博貴は離婚するかしないかの決定権を私に委ねたので私から離婚することはないですが、今まで通りお付き合いはしてもらっても結構ですよ。愛人として」
ずっと黙って聞いていた桃田あかりが数日後に自主的に堕胎手術を受けた。
意地でも離婚はしない。何が何でも小雪が大きくなるまでは我慢するのだ。
刑事2人が俺を見ている。
マイホームで妻と娘が無理心中をして、俺が第一発見者だ。
土日は長年の不倫相手のあかりの自宅で過ごすことが多いが、父の日であかりが土曜日から実家に帰ると言うので妻にメールで土曜日は夕食を家で食べると連絡しておいた。いつもの平日のように決まった時間にダイニングに行くと夕食が準備されていて、黙って食べて部屋に戻った。
夫婦の会話は10年間無い、連絡はメールだ。翌朝、ダイニングに行くと朝食が用意されていない。冷蔵庫やキッチンを見ても食べ物がほとんど無い。メールをしても返事がない、電話を掛けても“電源が入っていないためお繋ぎ出来ません”。あの10年前の話し合いの後、3階の夫婦の寝室は美樹子の部屋になっている…10年ぶりに3階への階段を上る、ドアを開けて部屋の開け放たれた何もないクローゼットにぶら下がった美樹子を発見したとき驚きよりも「やられた」と思った。しばらく美樹子を見ていたが、小雪は?すぐ隣の部屋に入ってベッドの上の小雪を発見する。首にロープが巻かれている、手首を触るが脈拍は感じられない…美樹子が殺したのか?
俺はどうすればいいのか?下手に誰かに連絡すれば疑われるかもしれない。警察に通報した。
今まで美樹子に任せきりだったのが仇になった、密葬で使う写真を聞かれては困り、費用の支払いに困り、自分の両親から美樹子と小雪の保険はどうなってるの?と聞かれて調べるとすべて解約されていた。
お悔やみの言葉に混ざって、“あの家売るのかしら?”、“奥さんとお子さんが無理心中した家でしょ?タダでも住みたくないわよ”、“事故物件なんて好き好んで買う人なんて居ないわよ”と聞こえてくる。
まだローンは残っているのに価値はマイナス。
自分で家族を壊しておきながら、俺は後悔ばかりしていた。
お前には必要ないものだと美樹子の両親が激怒して美樹子と小雪の遺骨を持って帰ってしまった。
「寂しい」と家族よりも、あかりを選んだ日を思い出していた。
吉川主任と私はニ人で泊まりの出張に行った時をきっかけに急接近した。
「顔色が悪い、どうしたんだ?」
「大丈夫です。うっ」
食事を吐いてしまって、コートを汚してしまった私をビジネスホテルに連れて行ってくれた。
「仕事を済ませてくるから、ゆっくり休んでて」
「戻って来てくれますか?」
「ああ。戻ってくるよ」
数時間眠って起きたら、スマホにメールが届いていた。
『隣の部屋に居ます。用があったら連絡してください』
『起きました。ご心配かけてすみませんでした』
『大丈夫?何か食べられそう?』
『はい』
『軽食を買ったから、持って行くよ』
数分後、部屋のチャイムが鳴りドアを開けると吉川主任がコンビニのレジ袋とファストファッションの紙袋を私に差し出した。
「桃田さんのコート、ホテルのクリーニングサービスに出したんだけど明日に間に合わないから買ったんだ。無いと困るだろ?」
「すぐにお金を…」
「ああ、いい。安い物だから」
「じゃあ、しっかり休んで。また明日」
くるっと背中を向けて、行ってしまった。
コンビニのレジ袋にはおにぎり、カップ味噌汁、ペットボトルのお茶が入っていた。
紙袋の中にはトレンチコート。
優しい人。体調を崩した部下にここまでしてくれるものなのかな?
私の中に芽生えた淡い恋心。
でも主任は既婚者…
次の日、取引先を数カ所訪問し帰路についた。
「お礼させてください」
「気にしなくていい」
「でも…」
「わかった。桃田さんの気の済むようにして」
仕事中には見たことがない寂しげな表情に、思わず主任の手を取った。
「主任、私の部屋に来て下さい」
「俺、結婚してるよ?」
「知ってます」
「…」
「主任、好きです。もう少しだけ一緒に居たい」
ため息をついて眉間に皺を寄せて、考えている主任。
「ダメだ、妻と子供が…」
「やっぱり…家族が大切なんですね」
何かに気づいたような顔をして、私の目をまっすぐ見つめた主任がポツリ
「寂しい」
「私も寂しいです」
「いいのか?」
「困るなら誘ってません」
その日から、主任は仕事帰りに数時間私の部屋で過ごすようになった。
妊娠した時、嬉しかったけど主任の奥様に会ってから堕胎を選んだ。
「今まで通りお付き合いはしてもらっても結構ですよ。愛人として」
“絶対に許さない”と言われるよりも。衝撃だった。
そして、主任から会社にかかって来た電話に10年間の不倫を後悔した。
「妻が、子供と一緒に無理心中をした」
今日は、私と娘が死ぬ日。
加田先生に私の密葬が終わったころに内容証明の発送をお願いした。
博貴が帰ってくる前にスマホの電源を落として、封筒に遺書、浮気調査の報告書、通帳を入れてポストに投函した。
この三か月私と小雪の物を処分した、私達の物は今日着ている服と数千円しか入ってない私のお財布しかない。
死んだ後でも博貴に自分の物を触られるのが嫌だった。
やっと、この苦しみから解放される。小雪を道連れにしてしまうけど、置いて死ぬことはできないから。
眠っている小雪の首にロープをかける。
ベッドに足をかけて思い切り締める…
「ごめんね。小雪」
涙が出て、でももう止められない。
「ママもすぐ行くからね」
小雪の死を確認して、自分の部屋に入る。
早く行かないと小雪が待ってる、ひとりぼっちにしたくない。
「さよなら」
後悔ばかりだった、選択を間違えて幸せから遠ざかっていた気がする。
小雪の為に生きていた。もうそれも終わり。
一番幸せを感じた、生まれたばかりの小雪のその小さな身体を初めて抱いた瞬間を思い出していた。
半年後。
一か月前から行方不明になっていた吉川博貴と桃田あかりの遺体が山中の車の中から発見された。
遺書があった。
“私たちが原因になった罪を償います”