第八話「俺の相撲道」
週明けの月曜日。
ぺら子と自由に過ごせる最後の日が来た。明日の朝、俺たちはぺら美さんに付き添われて山口に発つ。
「あんたの教室で授業受けるのも、これが最後ね」
いつも通りに登校し、昇降口で靴を履き替えているとき、ぺら子が小さく呟いた。その声には多分に感傷的な色が含まれていた。
この一週間、ぺら子とはまさに肌身離れずの関係だった。一緒にお風呂に入り、一緒にトイレに行き、一緒の布団で寝た。本当にいろんなことがあった。
最初は一人の時間が取れないことに苛立ちを覚えたりもしたけど、じきにそういうことはなくなった。Tシャツからぺら子が消えたとき、俺はきっと日常に物足りなさを感じるのだろう。真っ白なTシャツを見て途方もなく寂しい気持ちになるのだろう。
だけど、それは避けられない別れだ。俺が今できるのは、それを嘆くことなんかじゃない。俺には昨日から一つ決意していることがあった。
「おはようでござるトモナミ氏~」
教室に入り、自席につくや、ワガママボディをたゆんたゆん揺らしながら尾宅がやってきた。
「昨日の『ラブチュッチュ』観たでござるか? 神回だったでござるよ!」
鼻息荒く興奮を伝えてくる。
「あー……すまん。録画はしたけど、まだ観てない」
「なんですと!?」
ぺら子と夜通し別のアニメを観ていたのだ。ここのところリアルタイムでアニメを視聴できていないし、ラノベや漫画の新刊も積んでいるだけで消化できていない。
「またでござるか。トモナミ氏とあろう者が最近ちょっとたるんでるでござるよ」
たるんでる腹をさすりながら、尾宅がやれやれと首を振る。
「そのTシャツを着始めてからでござるよね?」
意外と鋭い尾宅が、丸眼鏡の中の目をしげしげと細め、ぺら子Tシャツに脂ぎった顔面を寄せてくる。ぺら子がびくっと身構えた。
「ふうむ……やはりわからぬ。トモナミ氏、いいかげんこの子の名前を教えてほしいでござる。ネットで『貧乳 ヒロイン』で探しても出てこなかったでござるよ」
「……」
Tシャツの中でぺら子が眉をひくつかせていた。『てめぇ眼鏡叩き割ってやろうか』という心の声が聞こえてくるようだ。抑えろぺら子!
「いや、尾宅、このキャラはな――」
こうして尾宅の追求を躱すのも今日で最後だ。さてどうやって凌ぐかと思考を巡らせていると、デジャヴのように教室の前方で椅子が倒れる盛大な音が聞こえた。
「おら! 今日も稽古だぞウジミツ! たっぷりかわいがってやるからな!」
「ひゅ~う! 関取クンの上手投げが決まったぁ!」
「関取クンの稽古相手に指名してもらってるんだ、光栄に思えよウジミツ!」
「うぅぅ……もう嫌だよぉ……うじうじうじうじ……」
関取に投げ飛ばされたらしい氏光が、教室の床に倒れ伏してうじうじしていた。関取と取り巻きの男子生徒二人がそれを取り囲んでニヤニヤしている。
「またあいつら……!」
Tシャツの中でぺら子がぎりっと歯を噛みしめる。前みたいに大声で止めに入ったりすることはない。俺に配慮して我慢しているのだ。
迷ったのは一瞬だった。俺は静かに席を立った。
「ト、トモナミ……?」「トモナミ氏……?」
ほぼ同時に発せられたぺら子と尾宅の訝るような声を耳に収めながら、俺は騒ぎの渦中に近づいていく。
「やめろよ、お前ら」
氏光を庇うように立って、関取たちと対峙した。
「あ……?」
「なんだてめえ!」
「関取クンの邪魔すんなよ!」
氏光に向けられていた下卑た視線が、敵意の視線に変わって俺に突き刺さる。たまらずうつむくと、心配そうに俺を見つめるぺら子と目が合った。俺は気を持ち直して面を上げた。
「よってたかって恥ずかしいヤツらだな。どうせ一人じゃなんもできないんだろ?」
俺は精一杯の虚勢を張って、関取の顔面めがけてまっすぐ啖呵を叩きつける。関取の表情がぐしゃりと醜く歪んだ。
「てめえ、ナメてんのか?」
関取は一歩俺に近づくと、ガバッと上衣を脱ぎ捨てた。まるまる太った裸体が外気に晒される。こうして見るとかなり体が大きい。突き出た下っ腹が俺の鳩尾付近に当たり、ぺら子が迷惑そうに顔をしかめていた。
「オレは関取! いずれ横綱になる男だ!」
なぜ突然脱ぎ出したのかと思えば、この決め台詞を言いたかったらしい。苗字のせいで、すでに十両昇進済みの力士みたいになっている。関取は俺の腰に手を回すと、ベルトを掴んでぐいっと強い力で引っ張った。
「どすこい‼」
俺はあっさり体勢を崩し、投げ飛ばされる。無様に氏光の横に這いつくばった。ぶつけた膝や肘に熱さが灯り、遅れて痛みが込み上げくる。
「いってて……」
「トモナミ!」
ぺら子が悲鳴を上げる。興奮気味の関取はそれには気つかず、ドヤ顔を決め込んでいる。
「どうだ、オレの上手投げは。キレッキレだろ?」
「また決まったー! 伝家の宝刀!」
「なんせ関取クンは上手投げ以外できないからな!」
褒めてるのか馬鹿にしてるのかよくわからない取り巻きたちのヨイショを余所に、俺はズレた眼鏡を直してよろよろと立ち上がる。
「四つに組んでねーんだから……上手も下手もねーだろバカが……」
「う、うっせーよ! 気分だけでも上手投げなんだよ! キモオタは空気読めねーなぁ」
蔑むようにキモオタと呼ばれ、むかし俺をイジメていた連中の影が脳裏によみがえった。無性にムカついてきた。さっき投げ飛ばされたことで、脳内でアドレナリンがドバドバ溢れ出していた。
「……キモオタで悪いか!」
俺は関取に対抗するようにYシャツのボタンを外し、ぺら子Tシャツを露出させる。
「ちょ、ちょっとぉ!?」
慌てふためくぺら子を尻目に、俺は見栄を切った。
「俺は自分がオタクであることに誇りを持ってる! お前はどうだ関取! 自分より力の劣る者をいたぶることが、お前の相撲道なのか!」
「ぐっ、このぉ……偉そうにぃ!」
関取が再度俺のベルトに手を伸ばす。それをぺら子がべしっと振り払った。
「は……? 今……うごい……は……?」
「もうどうなっても知らないからね!」
ぺら子はTシャツの中で助走をつけ――
「トモナミを――」
――関取の下っ腹に勢いよく飛び蹴りをかました。
「――イジめるなぁぁぁぁぁっ‼」
「げふぅぅっ!?」
関取は机や椅子を巻き込んで吹っ飛び、床をごろごろ転がった。
「ふー……すっきりしたぁ」
ぺら子は一仕事終えたとばかりに額の汗を拭っている。達成感に満ち満ちた顔をしていた。いや、強すぎでしょお前……。
「い、今Tシャツの女の子が動いた……? つーか、しゃべった……?」
「んなわけないだろ! あいつが……源がやったんだ!」
取り巻きたちは動揺を露わにして、床で伸びている関取に駆け寄る。「いったん退却だ!」と関取を引きずって教室を出ていった。……もう授業始まるぞー?
「横綱は弱きを守るべき存在……ヤツには関取という苗字すらもったいないでござるな」
いつの間にか隣に来ていた尾宅が、戦友面をして俺の肩に手を置いた。
「お疲れ様でござる。トモナミ氏の勇姿、しかと目に焼きつけたでござるよ!」
それを皮切りに、成り行きを見守っていた他のクラスメイトからも歓声が上がってくる。
「おおおおお!」「すげえ! 関取に勝ったぞ!」「よくやった源!」「俺らも本当は関取たちにむかついてたんだ!」「うじうじ……うじうじ……ありがとう源くん……助けてくれて……」
「……なんだよお前ら、すぐ手のひら返しやがって」
小さく毒づいたものの、周りからの好意をまっすぐ受け取れないほど子供じゃない。俺はなんだかくすぐったいような気持ちでYシャツのボタンを留め直していく。ぺら子が優しげな目で俺を見守っていた。