第七話「デート」
源宅に戻る。俺たちの間には重苦しい空気がわだかまっていた。自室のベッドに腰かけたまま、アニメを観る気も漫画を読む気も起きなかった。
「よかったな、元に戻れる方法がわかって」
沈黙を嫌って吐き出した言葉は、俺の予想より遥かに空虚な響きを伴って宙を漂った。
……でも、そうだ。これでいいんだ。この一週間は夢みたいなもの。ぺら子の記憶が消えてしまうならなおさらで、俺とぺら子が共有した時間は、俺の記憶にしか残らない。
もともと俺は、一人で生きてきたのだ。それで充分うまくやってた。だから俺は大丈夫だ。この一週間の思い出を青春時代の輝かしい一ページとして胸に刻み、元の生活に戻っていくだけだ。なんのことはない。
だから――お前はすべて忘れてしまうんだから――お前に痛みは残らないんだから――そんな悲しい顔するなよ、ぺら子。
「あれだけ嫌がってたじゃないか。俺から離れられてせいせいするだろ?」
俺はかすかに震える声で、憎まれ口を叩く。ぺら子が目を剥いた。
「――っ、あんたはいいの!? この一週間の記憶がなくなったら、あたしたち友達じゃなくなっちゃうんだよ!?」
思わぬ怒声が、俺の鼓膜をびりびりと震わせる。
「せっかく仲良くなれたのに……こんなに心から話せる人、トモナミが初めてなのに!」
胸が抉られるように痛かった。
ぺら子に忘れ去られた自分を、ぺら子と他人になってしまった自分を想像して、とてつもない孤独感に襲われた。
同時に、ぺら子が俺と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。ぺら子も俺との時間を大切に思っていてくれたことが嬉しかった。
「いいわけ、ないだろ……俺だって嫌だよ」
俺は膝の上に置いた拳を力強く握りしめ、胸の中で渦巻く嵐のような感情を抑え込む。
「でも、どうしようもないだろ。いつまでもこのままじゃいられない」
ぺら子が人間の肉体を取り戻すことと、ぺら子の記憶がなくなることは表裏一体の関係だ。益男さんの言う通り、決断を引き伸ばすことにメリットはない。
ぺら美さんが期限を決めてくれてよかった。そうじゃないと俺は、みっともなくぺら子を引き留めてしまっていたかもしれない。
「心配すんなよ。お前が記憶をなくしたって、俺が覚えてる」
声には隠しきれない白々さが滲んでいた。
「お前が生身の肉体に戻った後……俺から話しかけにいくよ。そうやって、またゼロの状態から関係を始めればいい」
自分で言ってて、現実味のない話だと思った。
俺との接点を持たないぺら子は、俺にとって正真正銘、ただのキラキラしたリア充だ。同じようにキラキラした友達を引き連れて歩いている、光の世界の住人だ。
そんなヤツに俺は……自分から話しかけにいけるのか? よしんば勇気を振り絞れたとして、今と同じような関係になれるのか?
「……そうね」
俺の心情を察したのか、ぺら子は力なく笑う。それから、不自然なくらい明るい声で言った。
「暗いことを考えててもしょうがないわね。せっかく猶予をもらったんだから、この二日は楽しまなきゃ損よ!」
「だな。たくさん遊ぼうぜ」
俺もそれに合わせて、無理やり笑みを作る。
「って言っても、なにするんだ? またアニメの鑑賞会か?」
「うーん、それもいいけど……せっかくだから二人でどっか遊びにいかない? せっかく明日休みなんだし」
「外か……」
これまで俺とぺら子が遊ぶときは、いつも家の中だった。
まぁ遊ぶというか、二人で様々な二次元コンテンツを楽しんでいただけなのだが。オタクにとってはそれが至福の時間なのだからしかたがない。
「遊園地とか、水族館とか?」
なけなしの知識で、デートコースの定番を口にする。……っていうかこれデートなのか? Tシャツ相手だとデートって感じしないけど。
「それでもいいけど、あんた楽しめないでしょ」
「じゃあどこ行くんだよ」
自慢じゃないが、俺は根っからのインドア派だから大抵の場所は楽しめないぞ。
「やっぱりあたしらオタクが遊びにいくトコっていったら、一つしかないわよね」
ぺら子がニヤリと意味深に微笑む。その言葉で俺も理解した。
翌日。
俺たちは電車を乗り継いでオタクの聖地である秋葉原を訪れていた。休日の昼間だけあって、駅の周辺は人でごった返している。
「やっぱりこの土地は落ち着くわね」
ぺら子は大自然の中にいるかのように大きく深呼吸をする。
今日はぺら子Tシャツの上に紺の七分袖カーディガンを羽織り、ベージュのチノパンを合わせてきた。ぺら子が外界に剥き出しになるような恰好だ。土地柄、このファッションでもまったく浮かず、むしろ正装をしているような誇らしい気持ちだった。
「お前、アキバってよく来るのか?」
「全然。知り合いに会うの怖いし」
常連ぶってたわりにビギナーらしい。
「だから今、すっごくワクワクしてるのよね! トミナミ、いろいろ案内してよ?」
「任しとけ。ここは俺の庭みたいなもんだ」
電気街に立ち並ぶアニメやゲームの広告がでかでかと掲げられているビル群を見ているだけで血が騒いでくる。
「とりあえずテキトーにぶらぶらするか。興味を引く店があったら入る感じで」
「そうね。トモナミと一緒だったら、どこに行っても楽しいだろうし」
ぺら子がさりげなく口にした台詞に、心臓が跳ねる。なんでこいつはこんなこっ恥ずかしいことを平然と言えてしまうのだろう。
そう思ってぺら子を窺うと、頬を薄紅色に染めていた。
「…………。お、俺も、ぺら子と一緒なら、どこでも楽しい。……やっ、その、趣味が合うからな、俺ら!」
「そ、そうそう! どのお店入っても話弾むでしょ!」
ぺら子はおよおよ視線を泳がせながら「今日あっつー」と手で自分の顔を仰いでいる。俺も全身が火照っていたので、着ていたカーディガンを一度脱いで手に持った。
「……今日は楽しもうね、トモナミ」
「おう」
Tシャツの中から聞こえる声に、力強く頷いてみせる。
今日、どんなに楽しい思い出を作ったところで、ぺら子は忘れてしまうけど――俺は覚えてる。決して忘れたりしない。
その後、俺とぺら子はアニメショップや同人ショップを冷やかしたり、コラボカフェでくつろいだり、カラオケで好きなアニソンやゲーソンを歌ったりして遊んだ。
いつも一人で楽しんでいた時間を、ぺら子と共有する。一人のときより二倍にも三倍にも楽しい時間が、二倍にも三倍にも早く過ぎていく。そんなの俺にとっては初めての経験で、憧れていても諦めていたことで、本当に夢みたいで。
だから、そのぶん悲しかった。この時間が終わってしまうことが、この時間がぺら子の記憶から失われてしまうことが、やりきれなかった。
――もっと一緒にいたい。
その思いを口にできれば、どんなによかったか。
だけど、それだけは言っちゃいけない。ぺら子を困らせることだけは、しちゃいけない。俺が今できるのは、ぺら子と一緒に笑うことだけだ。そうして彼女の笑顔を胸に刻むことだけだ。
夕方、俺たちはまたアニメショップに寄った。昼に行ったのとは違う店だ。こういう店はどれだけ見て回っても飽きない。
そこで俺たちは、思いもよらないものを発見した。
「あ、これ、『スクメモ』の……」
「おお、すげーな。ひと昔前のアニメなのに置いてあんのか」
俺たちが『神作』として意見一致した『スクラップ・メモリーズ』のグッズが、他のアニメグッズに混ざってひっそり陳列されていた。
「これ、いいじゃん。サトルくんのやつ。あんたそっくりで」
ぺら子が『サトル』というサブキャラのマスコットストラップを指差し、ころころ笑う。
「じゃあ、買ってやるよ」
俺はすぐさま応じ、その商品を手に取る。
「あはは! やった! それならあんたはこっち買いなさいよ」
今度は『ミチエ』というサブキャラのマスコットストラップを指差す。いつだか俺が『ぺら子そっくり』と言った女の子キャラだ。
「名案だな。そうするわ」
「サトルくん買ったら、あとでママに預けておいてね。お金はあたしの財布から渡してもらうから」
「いいって、金なんか」
俺はレジに行って、サトルとミチエのストラップを購入する。
「プレゼントだ」
「……ありがと」
ぺら子が嬉しそうに微笑む。この場でぺら子に手渡せないのが歯痒かった。俺は俺たちの分身を、丁重に手持ちのトートバッグにしまう。
「トモナミそっくりのサトルくんマスコットが家にあれば、もしかしたら記憶がなくなった後にトモナミのこと思い出せるかもね」
「ありえるかもな。人間がTシャツになるんだ。なにがあったっておかしくない」
「だよねだよね!」
俺たちは前向きで、上滑りしたやり取りを交わしながら、店を出る。空はいつの間にか薄闇に覆われていた。
「……そろそろ帰るか」
「……うん」
今日という日を終わらせたくなかった。だけど時間の流れに逆らう術を持たない俺たちは、駅に向かって歩くしかなかった。
「ねぇ」
信号待ちをしているとき、ぺら子がふいに真面目な調子で切り出した。
「サトルくんとミチエちゃんがくっつく未来って、あったのかな?」
「……え?」
「『スクメモ』の話。サトルくんはアイちゃんが好きで、ミチエちゃんはシュンくんが好きだったでしょ? 二人とも失恋しちゃうけど」
『アイ』というのがメインヒロインで、『シュン』というのが主人公だ。ラストではこの二人が結ばれ、サトルとミチエの恋は叶わない。
「作中ではサトルくんとミチエちゃんってあんま接点ないけど、結構お似合いな二人だと思ってるのよね」
「ヘタレで引っ込み思案のサトルと、高飛車ツンデレのミチエじゃ、むしろ相性悪いんじゃないか?」
「そこがいいんじゃない! 好対照な感じで」
「……たしかに、組ませてみたら案外いいコンビになるかもな。音楽が好きっていう共通点もあるし」
信号が青になり、渡り出す。雑踏の中、そばを行き過ぎたサラリーマンが、Tシャツの中で動いているぺら子に気づいて瞠目する。もはや隠すつもりはなかった。どうせ見間違いかなにかだと思うだろうし、ぺら子は早晩、人間に戻るのだ。
「でも、仲良くなる機会がないよな。あの二人学校違うし、サトルの性格上、簡単にはミチエに心開かないだろうし」
「そうそう。だから、仮によ。仮に、二人がアイちゃんとシュンくんみたいに、特別な出会い方をする世界線があったとしたら……二人はもしかして、恋人同士になってたかもね」
Tシャツの中で、ぺら子が楽しそうに、けど切なそうに笑う。
「……ああ。そんな可能性もあったかもな」
横断歩道の真ん中で、俺は思わず足を止め、後ろを振り返る。オタクの街はネオンの煌びやかな光を放ち、来たときとはまた違った面持ちを見せていた。
「お前が人間に戻ったら、また二人で遊びに来たいな」
「……そうね」
ぺら子は痛みを堪えるように顔を歪めていた。それを見て俺は胸が張り裂けそうになった。
こんなにも多彩に表情を変える少女のことを、俺の感情を揺さぶってくる少女のことを、もうTシャツだなんて言えない。
ぺら子は人間の女の子だ。そして俺が、初めて好きになった女の子だ。