第六話「代償」
それから俺たちは、毎晩のようにアニメの鑑賞会を開いた。思う存分オタトークに花を咲かせた。それは俺にとって……きっとぺら子にとっても、かけがえなく大切な時間だった。
共同生活はすっかり板についた。一緒の教室で授業を受けることにも慣れた。ぺら子には悪いが、俺はいつしか元の日常に戻りたいとはあまり思わなくなっていた。俺の心にぽっかり空いた穴が塞がったような感じさえしていた。
けど、楽しい時間には必ず終わりがくる。ぺら美さんから連絡があったのは、週の終わり、金曜日の夜のことだった。
翌土曜日の昼過ぎ。
俺たちはぺら美さんに呼び出されて、ふたたび平平邸を訪れていた。前回と同じようにオシャレなリビングに通され、ふかふかのソファーへと誘導される。ガラステーブルを挟んで向かい側に、ぺら美さんともう一人、タンクトップ姿の筋骨隆々な中年男性が座っていた。重戦車のような巨体のせいで、もとより小柄なぺら美さんがさらに小さく見える。
「平平益男だ」
男性は簡潔にそう名乗った。腹の底まで響くような重厚な声だった。
「パパ、帰ってきてたんだ」
「ああ」
ぺら子のお父さん……益男さんは重々しく頷くと、鋭い眼光で俺の胸元を射抜いた。
「ぺら美から聞いていたが、まさか本当にTシャツの中に入ってしまっているとはな」
驚いた、と、全然驚いてなさそうに言う。
『なにこの人? 軍人?』と俺が内心でビビり散らかしていると、益男さんの威圧的な眼差しが今度は俺の顔に向けられた。
「この一週間、ぺら子が世話になったそうだな。ええと……」
「源です。源・A・トモナミ」
「A・トモナミくん」
益男さんはなぜか、俺をミドルネームから呼んだ。いやホントになんで?
「きみ、ぺら子にヘンなことはしてないだろうね」
「してないです」
だからTシャツだって言ってんだろ。どいつもこいつも勘弁してくれ。
「悪いが、信用できないな。娘はこの通り、Tシャツになってもかわいい」
「ちょっと黙ってて、パパ」
真顔で親バカなことを言い出す益男さんを、ぺら子がしっしと迷惑そうにあしらう。それからぺら美さんのほうに視線を向けた。
「それでママ、あたしとTシャツを分離する方法はわかったの?」
「ええ。おばあ様からばっちり聞いてきたわよ」
「ホント!?」
ぺら美さんから笑顔の報告を受けて、ぺら子の表情もぱあっと華やぐ。
「よかったぁ……もしかしたら一生このままかと思ってたから……」
ぺら子は安心しきったように息をついて、俺を見上げた。
「やったわね、トモナミ」
「……そうだな」
嬉しいような、残念なような、複雑な気持ちだった。
いや、残念な理由なんてない。現実的に考えて、ずっとこのままの状態で生活できるわけがないし、なにより離れ離れになったところで、それが今生の別れになるわけじゃないんだ。お互い、人間の状態でまた会えばいい。今度はちゃんとプライベートの時間だって取れるようになる。ぺら子が元の状態に戻ることは、お互いにとって得しかない。
「Tシャツ化を解くには、具体的にどうすればいいんですか?」
どんなに自分に言い聞かせても拭えない寂しさを無理やり押し殺して、俺はぺら美さんに尋ねる。
「方法自体は簡単よ。壇ノ浦の近くに温泉があるんだけど、そこにTシャツを浸けるだけだから」
「温泉って……そんなことでいいんですか?」
「壇ノ浦温泉は、昔から数々の神秘を起こしてきた特別な温泉なの。平平家は、代々そこで平面化を解除してきたらしいわ」
「ヘー。そのダンノウラって、どこにあるの?」
「山口の下関よ。平面化を解除できるのが壇ノ浦温泉だけ……という事情もあって、平平の一族は迂闊に山口を動くわけにはいかなかったのね」
ぺら子の質問に答えたぺら美さんの表情に一瞬だけ影が差す。ぺら美さんが山口から帰ってくるまで思ったより時間がかかったけど、実家で一悶着あったのかもしれない。
「方法がはっきりしているなら、話が早いな」
益男さんがむっくと立ち上がった。
「早速行くぞ。ちょうど今日明日は仕事も学校も休みだ」
「うん! 早く元に戻りたい!」
ぺら子は跳ねるように益男さんの提案に賛同する。対して俺は、ぺら子ほど浮かれた気分にはなれなかった。
――ぺら子は人間の姿に戻ってからも、俺と仲良くしてくれるだろうか?
ぺら子は俺と違って人気者だ。俺以外にもたくさんの友達がいる。聞いたことはないけど、もしかしたらカレシだって……いるかもしれない。
俺とぺら子は、しょせん住む世界が違う。今は奇跡のような偶然で俺とぺら子の人生が交わっているが、このイレギュラーな状態な解かれたら、俺たちの関係も終わってしまうんじゃないだろうか。
不安だった。でも、こんな女々しい心の内をさらけ出すわけにはいかなかった。
俺はぺら子をTシャツに引き留めたいわけじゃない。ぺら子にはぺら子の生活がある。これ以上、ぺら子に学校を休ませるわけにはいかないし、ぺら子の友達もぺら子を心配しているだろう。だから俺も、今は素直に喜ぶべきだ。
「やっとこんな不自由な生活からおさらばできるな」
努めて明るい口調で言い、益男さんに続いて立ち上がろうとしたとき、「ちょっと待って」というぺら美さんの固い声が俺の動きを制した。
「……ママ?」
「話はまだ終わってないわ」
ぺら美さんは気まずそうに「実は」と切り出す。
「Tシャツ化を解除する方法自体は簡単だけど、代償があるの」
「なに、それ?」
ものものしい台詞に、ぺら子が怯えたように訊き返す。固唾を呑む俺たちに、ぺら美さんは悲愴な口ぶりで告げた。
「ぺら子はTシャツから分離する際に、Tシャツになっていた間の記憶を失ってしまうのよ」
「――」
頭が真っ白になる。俺もぺら子も、言葉がなかった。
「だからなんだっていうんだ。せいぜいこの一週間の記憶がなくなるだけだろう? たいした代償じゃない」
益男さんの言うことは、理屈的には正しい。たかが一週間分の記憶が消えたところで、ぺら子の人生にほとんど影響はない。
だけどその一週間が、俺とぺら子にとってはすべてだった。
「……」
ちらりとぺら子の様子を窺う。内面の動揺がありありと表情に現れていた。たぶん俺も似たような顔になっているだろう。ぺら子からこの一週間の記憶が失われてしまったら、俺とぺら子はただの他人に戻ってしまうことになる。
「マ、ママ。そのダンノウラってトコ、すぐに行かなきゃダメかな。ちょっと考える時間がほしいっていうか……」
「ダメに決まっているだろう。これ以上学校は休ませられないし、A・トモナミくんと一緒にもいさせられない」
益男さんが断固とした調子で言い切る。
「トモナミは良いヤツよ! それにこんな急な話、あんまりじゃない!」
「良いヤツかどうかは関係ない。男と生活を共にすることが問題だと言ってるんだ。だいたい、どれだけお別れの時間を引き延ばしたところで、その間の記憶は全部なくなるんだから無意味だろう」
「そ、そんな言い方……!」
「まぁまぁ、お父さん」
議論がヒートアップしかけたところで、ぺら美さんから助け船が入った。
「二日でどう?」
俺とぺら子、益男さんを順繰りに見回して、ぺら美さんは提案する。
「あと二日、源くんとぺら子には猶予をあげる」
「二日……」
その数字が長いのか短いのか、俺にはわからなかった。
「明日と明後日は好きにしていいわ。その代わり、三日後の火曜日には、私と一緒に壇ノ浦に行ってもらう。それでいいわね?」
「ぺら美お前、そんな甘いことじゃ……」
なお不満げな益男さんに、ぺら美さんが「なにか異論でも?」と凄むように微笑みかける。益男さんはおののくように全身の筋肉をガタガタ震わせると、黙り込んでしまった。
「残り二日、悔いのないように過ごして」
ぺら美さんの優しげな視線が、俺とぺら子の間を行き来する。これはぺら美さんが与えられる最大の恩情だろう。俺たちに拒否権はなかった。