第二話「オタクとリア充」
翌朝。
爽やかな陽射しの中、俺は制服姿で通学路を歩いていた。登校にあたって電車などの乗り継ぎはない。今の高校を選んだ理由は、自宅から徒歩圏内にあるからに他ならなかった。
「ふわぁーあ……」
Tシャツの中でぺら子が大きな欠伸をしているのが、Yシャツ越しに透けて見える。
「おい、教室ではあんまり動くなよ?」
「わかってるわよ」
昨日の話し合いで、ぺら子のことは周りには伏せておくことに決まっていた。間違いなく騒動になるからだ。ぺら子Tシャツの上からYシャツを着ておけば、俺が痛Tシャツを着ていることはバレても、それがぺら子だとは誰も気づかないだろうとの判断だった。
「……はぁ。俺、こういうの学校に着ていくタイプのオタクじゃないんだけど」
「でも、違和感ないわよ? あんたのキモオタが役に立ったわね」
「あのなぁ……」
昨日から言ってやろう言ってやろうと思ってることがあるんだが……まぁいい、後でじっくり問い詰めてやる。
「それにしても眠いわねー。昨日誰かさんのせいで寝れなかったから」
「お前がうるさかったからだろ」
「はぁ? あんたでしょ?」
昨晩は本当に散々だった。ベッドの中で明け方までぺら子と喧嘩して過ごしたのだ。布団のかけかたとか(俺が肩まで布団をかけるとぺら子の顔が埋もれてぺら子が息苦しく、ぺら子のいいように布団をかけると俺が寒い)、寝返りの打ち方とか、大変しょうもないことで喧嘩した。
そして『一晩経てば元に戻る』という希望的観測は呆気なく打ち砕かれ、こうして朝を迎えてしまったのだ。
「一秒でも早くあんたとおさらばしたいわ」
「俺の台詞だっつーの」
ぺら子の挑発的な物言いに、負けじと応酬する。お互い寝不足ということもあって、ギスギスした空気だった。
「ふんっ、なに不機嫌になっちゃってんの? あんたみたいなモテない陰キャがあたしみたいな美少女と一緒にいられること、光栄に思いなさいよね!」
「あぁ? なんでそんな上から目線なんだよ。つーか自分で美少女とか言うなバーカ! 貧乳! 真っ平ぺら子!」
「なっ……! 言ったわね天パ眼鏡! 源・A・トモナミ! 回文!」
「回文は関係ねーだろ! やるかこらぁ!!」
Yシャツ越しにぺら子の頬を引っ張るが、「望むところよ!」と即座にぺら子の右フックで振り払われる。かなりの攻撃力だ。普通に痛い。
「おかーさん、あの人なにやってるのー?」
「しっ、見ちゃダメ!」
Tシャツと格闘している俺を、お決まりのように通りすがりの親子が見ていた。俺は無性に恥ずかしくなって、空を仰いで後頭部をぐしゃぐしゃ掻き混ぜる。
「バッカみたい」
Tシャツの中でぺら子が拗ねたようにそっぽを向いていた。やっぱりこいつとは仲良くできそうにない。
始業前の教室は雑多なざわめきに包まれていた。俺は誰とも挨拶を交わすことなく、無言のまま窓際後方の自席につく。
「あんたホントに友達いないのね」
ぺら子が小声で話しかけてきた。
「余計なお世話だ。それに、ゼロってわけじゃない」
意地を張るように答えたとき、視界の端でまるっとした体つきの男がのしのし近づいてくるのが見えた。
「おはようでござるトモナミ氏~」
クラスで唯一の友人、尾宅卓郎だ。汗でびっしょり湿った額に謎のバンダナを巻いている。高校に入ってからの付き合いで、よく漫画やアニメの話で盛り上がっている。喋り方や外見まで、イマドキでは珍しいくらいコテコテのオタクである。ここまでいくとむしろ俺的には好印象だ。
「な、なにこいつ……」
一方でぺら子はドン引きしているようだ。……いや、初対面みたいな反応してるけど尾宅も去年同じクラスだったからな?
「おおっ、トモナミ氏! 今日は痛Tシャツを着てきたのですな?」
尾宅はふんすふんす鼻を鳴らしながら、俺の胸元に顔を近づけてくる。太い指先でカチャリと丸眼鏡の位置を整え、首をひねった。
「ふうむ。見覚えのないキャラでござるな。拙者、2000年以降のアニメにはほとんど目を通しているのでござるが」
「あ、ああ……マイナーなキャラだからな」
体をのけぞらせて応じる。尾宅の脂ぎった顔面に迫られたぺら子が『なんとかしてよ!』と俺に目線で訴えかけていた。涙目だった。
「ふうむ。Yシャツ越しだとよく見えないでござるな。すまないがトモナミ氏、少しYシャツをはだけてもらっても――」
どうやって誤魔化そうか頭を悩ませていたところ、教室の前方で椅子が倒れる盛大な音が響いた。
「おら立てウジミツ! いつまでもウジウジしてんじゃねーよ!」
「ごめんなさいごめんなさい生きててごめんなさいぃぃぃ……」
クラスメイトの宇治氏光が、同じくクラスメイトの関取太志に『稽古』をつけてもらっていたらしい。ナヨナヨした体つきの氏光が教室の床に倒れ伏しており、どっしりとした体つきの関取が、それを見下ろしていた。対照的な二人だ。
「もう一番いこーぜウジミツ! オレの華麗な上手投げを見せてやるよ!」
「関取クンはオマエが貧弱だから鍛えてやってんだぜ? 感謝しろよ?」
「ひゅーう! 見込みのないヤツにも稽古をつけてやるなんて、さすが未来の横綱様は懐が広いぜ!」
関取の周りで、取り巻きの男二人が囃し立てている。いつもの光景だ。誰も止めに入ったりはしない。これは『イジメ』ではなく『稽古』だから。
「うひゃあ……またやってるでござるよ」
関取と負けず劣らずの豊満なボディをぶるりと震わせ、尾宅が顔をしかめる。
「拙者たちは目をつけられないようにおとなしくしてようぞ。明日は我が身……」
クラスカースト、というものがある。
関取みたいな上位カースト勢は、大概のことをしても許されるが、俺や尾宅のような下位カースト勢は肩を小さくして生きなければいけない。あえて序列をはっきりさせるなら、最下層が氏光で、その一つ上のグループに俺と尾宅が属しているといった感じか。
ちなみにぺら子は、最上位カーストに属する人間なわけだが――
「……ちょっと!」
突然、自分の胸元からぺら子の叫び声がして、ぎょっとした。
「あんたたち、なにやってんのよっ!」
「ぺ、ぺら子!?」
俺はあわててぺら子の口元をYシャツの上から手で塞いだ。「むぐぐっ」と抵抗するぺら子をなんとか押さえ込む。
「な、なんだ今の声? 誰だ?」
関取を初めとして、クラス中が困惑したようにあたりを見回している。俺は冷や汗が止まらない。
「い、今のトモナミ氏でござるか?」
「そ……そんなわけあるか。女子の声だったろ」
「ござるよね……でも、このあたりから聞こえたような……」
尾宅は訝しげに眉を寄せている。他にもぺら子の友人らしき女生徒が、「今の声、ぺら子っぽくなかった?」と話しているのが聞こえる。
「……俺、ちょっとトイレ!」
俺は胸のあたりを押さえたまま、逃げるように教室を飛び出す。人気のない渡り廊下まで走ってきたところで、やっと手を離した。
「ぷっはぁっ~~!」
ぺら子が空気を求めて口をぱくぱくさせる。
「はぁ……はぁ……やっと息できた! あんたあたしのこと殺す気!?」
「お前こそ俺のこと殺す気か!」
「ど、どーゆーこと? 意味わかんないんだけど」
「いいか、俺は事なかれ主義なんだ。下手なことして俺があいつらに目つけられたらどうすんだよ」
俺のような下位カーストの人間が上位カーストの人間に歯向かうということは、クラスという社会で『死ぬ』ことを意味している。俺は平穏無事な高校生活を送りたいのだ。
「だからって見過ごせってこと? あれ、完全にイジメだったじゃん!」
ぺら子がキッと咎めるような眼差しを俺に向ける。
「どうして誰も助けてあげないの!?」
「そ、それは……」
人それぞれ、いろいろ主張はあるだろう。飛び火するのをおそれて、とか。面倒事に巻き込まれたくない、とか。氏光の側にも見くびられる原因がある、とか。まだ『遊び』で済まされる範疇だ、とか。
共通してるのは、みんな仲良くもない他人のことより自分のことが大切ってことだ。
「いいわ、今からでもあたしが助けにいく!」
「お、おいっ」
ぐいっとTシャツごと体が引っ張られる。俺は「いいかげんにしろ!」とぺら子の額部分をデコピンで弾いた。
「いったぁ……くはないけど! なにすんのよ!?」
「バカかお前! そんな状態でなにができるんだよ!」
「くぅ~~でもでも~~っ!」
ぺら子はTシャツの中で地団駄を踏んでいる。本気で悔しそうだ。
「隣のクラスであんなことがまかり通ってたなんて~~っ!」
「……俺だって、嫌だよ」
蚊の鳴くような声で独りごちる。
俺だってああいう弱い者イジメみたいなのは大っ嫌いだし……なにより、見て見ぬフリをしている自分が一番嫌いだ。
ぺら子はさっき、本気で氏光を助けようとしていた。俺が知ってるリア充は、ああいうとき空気に合わせて行動することしかできない主体性のない連中ばっかりなのに。
中学時代の記憶がフラッシュバックする。
俺がイジメられてたとき、俺は誰かに助けてほしかった。もしあのとき、同じクラスにぺら子がいたら――。