第一話「ど根性美少女」
このままでは人目につく、ということで、ひとまず俺はその『痛Tシャツ』を身に着けたまま自宅マンションまで戻った。くすんだ赤レンガで覆われた、築年数を感じる建物だ。駅から徒歩十五分という便利とはいえない立地だが、場所柄、都心へのアクセスはよく、不満を覚えたことはない。
自宅の鍵を開け中に入ると、こざっぱりとしたリビングが俺を出迎えた。テーブルと椅子以外はほとんどなにもないような殺風景な空間だ。奥に俺の部屋と母の部屋が一つずつある。もっとも母の部屋はほとんど使われておらず、物置みたいな状態になっている。
「とりあえず自己紹介が必要よね?」
リビングの椅子に腰かけたところで、Tシャツが待ちきれないとばかりに口を切った。
「あたしは平子。平平平子。高校二年生よ」
「知ってる。去年同じクラスだったからな」
「そ、そうだっけ?」
……そうなのだ。
ちなみに現在は隣のクラスだったように思う。Tシャツ化しているうえに私服だからすぐには平平だと気づかなかった。
俺は基本的にクラスメイトの顔と名前をろくすっぽ覚えていないのだが、こいつのことは頭の片隅に記憶していた。変わった名前だからっていうのもあるけど……なにより、俺とは対極の世界に住むキラキラした女の子だったから。
「言われてみれば、あんたの顔見たことあるわね。この視点からだとわかりにくいのよ」
「それはそうかもな」
見上げる形だから視界は反転しているだろうし、肉体がTシャツサイズに縮小しているから俺の顔がかなり大きく映っているはずだ。
「俺は源。源・A・トモナミ」
名乗り返すと、平平は記憶を探るように視線を彼方にやった。
「あ~、そういやヘンな名前だったわね」
「失礼なヤツだな……」
お前にだけは言われたくないし。
「よろしくねトモナミ」
「お、おう」
いきなり下の名前で呼ばれてドギマギしてしまう。距離詰めんのはえーなー。
「あたしも『ぺら子』って呼んでいいから」
「え?」
「ぺら子。あんまり好きな名前じゃないけど、みんなそう呼ぶし、もう慣れた。苗字よりは呼びやすいでしょ?」
女子をファーストネームで呼ぶのはかえって俺が慣れないが、それを気取られるのも癪だ。
「わかったよ……ぺら子」
ぼそぼそとその名を口にすると、ぺら子は満足げに笑った。
去年まで同じクラスにいたのに、今さら初めましてみたいなやり取りをしているのは妙な話だった。
だけど、無理もない。
活発で社交的な彼女はクラスの人気者で、根暗なコミュ障オタクの俺は爪弾き者だった。俺とぺら子は、同じクラスにいながらも遠い存在だったのだ。
「で、トモナミ。これどういう状況なの?」
明るい髪をかきあげ、Tシャツの中で威張るようにふんぞり返るぺら子。真っ平らな胸が強調され、その真っ平らぶりが鮮明になっていた。こんな状況でも怖気づかず堂々としていられるのは素直に感心する。
「わからん。とりあえず状況を整理しよう」
このままだと話しづらいので、俺は『ぺら子Tシャツ』を脱いでテーブルの上に広げた。ぺら子は俺の上裸を見て、「ぴゃ!?」と鳥みたいな鳴き声をあげる。
「ちょ、ちょっと! 急にやめてよね!」
ぺら子は赤面して目をつむっていた。そんな大げさなリアクションをされると俺まで恥ずかしくなってくる。こいつ意外にウブなのか?
「ふ、服着てくる」
俺は逃げるように自室へ向かった。簡素な内装のリビングと違って、俺の部屋は物で溢れ返っている。漫画とかラノベとか、アニメ円盤とかゲームとか、ポスターとかタペストリーとか、フィギュアとか抱き枕とか……端的に言えばオタクグッズだ。長年、俺の心を支え続けてきてくれた宝物たち。
その中には正面に美少女イラストがどーんと描かれた痛Tシャツもある。
「……まさか元クラスメイトが痛Tシャツ化しちまうなんてな」
口に出してみて、改めて事の深刻さを思い知らされたような心持ちになった。
皮肉なことに、ぺら子は三次元女子の中ではルックスがいいから充分グッズとして耐えうる。ってなに言ってんだ俺は。マジで変態じゃないか。
俺は大きくかぶりを振って、無地の適当なTシャツを見繕ってリビングに戻る。
「うぅ……」
するとどういうわけか、テーブルの上でぺら子Tシャツが苦しそうに呻いていた。
「ど、どうしたぺら子!?」
あわてて駆け寄る。
ぺら子は見るからに衰弱していた。顔色が青くなっている。
「わ、わかんない。なんか急に具合悪くなって……」
「熱は?」
焦った俺は、ぺら子の額部分に人差し指を突き当てる。
「ふぎっ!? あ、あんたバカ? そんなんであたしの体温がわかるわけ……」
「あ、熱い……!」
「……わかるんだ」
発熱していることはわかったが、原因はわからない。さっきまで元気だったのに。いったいどうすりゃいいんだ!?
「ん、あれ? なんだかだんだん気分がよくなってきたわ」
「本当か?」
俺はほっとして指先を額から離す。
「あっ……また具合が」
ぺら子の表情が露骨に曇る。
俺はまさかと思い、もう一度ぺら子の額に指を当てる。「ふぅ……」とぺら子の表情が安らぐ。
「なぁ、これってもしかして」
日本のサブカルチャーに毒されている俺はすぐにある仮説を打ち立てた。そしてそれを証明するべく、さっき部屋で着てきたばかりのTシャツを脱ぎ捨て、代わりにぺら子Tシャツをがばっと身にまとった。
「あぅ!? め、目が回るからもっとゆっくり着て……………はれ?」
Tシャツの中で、ぺら子は目をぱちくりさせていた。
「体が、楽に……」
「やっぱりな」
俺は中指でクイッと眼鏡を押し上げた。
「お前、俺から離れると具合が悪くなるんだよ」
「うっそ」
ぺら子は絶望に顔を染めていた。
「じゃあ、四六時中あんたと一緒に行動しなきゃいけないってこと!?」
「……そうなるな」
「トイレも!? お風呂も!?」
ぺら子は俺の生命エネルギー的なものを使って活動しているのかもしれない。だから俺の素肌から離れると急速に元気がなくなる。さっきから妙に腹が減ると思ったが、もしかしてぺら子に精力が持っていかれてるのか?
「ど、どうすれば元の状態に戻れるの!? ずっとこのままなんて嫌よ!」
急に取り乱し始めるぺら子。やっと危機感が芽生えてきたらしい。
「俺だってそうだ。なにか方法がないか、いろいろ試してみよう」
それから俺たちは様々な検証を重ねた。その結果いくつかのことがはっきりした。
・ぺら子とTシャツがどうやっても分離不可能なこと。
・ぺら子がTシャツの中でかなり自由に動き回れること。Tシャツから飛び出さんばかりの三次元的なアクションで俺を引っ張り回すこともできること。
・ぺら子に感覚があること。痛覚はほとんどないが、温度や圧力は明確に感じ取れること。
・ぺら子は食事の摂取ができない代わりに、俺とエネルギーを共有していること(俺がいつもの二倍、夕食を食べられたことと、満腹の感覚を共有したことから推測)。
ちなみに、海パンとぺら子Tシャツを着て一緒にシャワーも浴びた。俺の体もぺら子の体も綺麗になった。当然ながら一悶着も二悶着もあったが、長くなるからここでは割愛させていただく。
「……それで? 次はどうすんの?」
リビングの椅子でぐったりしている俺に、Tシャツの中でぐったりしているぺら子が訊いてくる。時刻は二十一時を回ったところだった。もうすっかり外は暗い。
「やれることは全部やった。あとは時間が経つのを待ってみるしかないな」
案外、一晩寝たら元に戻ってるってこともあるかもしれないし。
「そんなぁ……明日学校なのに」
ぺら子はどんよりとした顔で、ポケットから自身のスマホを取り出す。
「みんな、あたしからの返信がなくて心配してるかな」
Tシャツの中は電波が通っていないらしい。
「リア充は大変だな。俺なんか一ヵ月くらい誰からも連絡来ないことあるぞ」
「ふーん、友達作ればいいのに」
スマホをいじりながら、興味なさげに答える。なにがムカつくって、友達の多さが人生の幸福度に比例すると思ってそうなところだ。
「いらねーわ。俺はお前らみたいに群れなくても生きていけるからな。なんてったって俺には二次元が……」
「って、もしかして!」
ぺら子が急に大きな声をあげた。
「今日あんたの家に泊まんなきゃいけないってこと!?」
「……今さらかよ」
それしかないだろ。……まぁ、俺も意識してその話題は避けてたけどさ。
「正確に言えば、同じベッドで寝る必要があるぞ」
「うわぁ……サイアク」
「何度も言うが、俺だって同じ気持ちだからな」
本来なら俺の寝室――サンクチュアリにリア充は踏み入れさせたくないんだ。それに録り溜めていたアニメを消化する時間だって現在進行形で削られてるし……そもそもの話、俺はどこぞへ急いでいたぺら子にぶつかられてこうなったんだから、俺のほうが断然被害者じゃないか。
「お前、あのときなんであんなに急いでたんだ?」
「そ、それは……なんでもいいでしょ、べつに」
ぺら子はバツが悪そうに目線を逸らして、頬を掻く。その腕に嵌められた銀のブレスレットが光る。
ん……? このブレスレットって……。
「それより、ちょっとスマホ貸してよ。ママに電話しなきゃ」
「へいへい」
俺は自分のスマホを取り出して、ぺら子に言われた通りの番号を入力する。発信ボタンを押して、端末をぺら子の口元に持っていってやった。
「……あ、もしもしママ? あたし今日友達の家に泊まるから!」
事情を洗いざらい話しても信じてもらえないだろうし、今はそう説明するしかないだろう。「は~い」という間延びした声が端末から返ってくるのが聞こえた。
「……よし、これでおっけ」
ぺら子のアイコンタクトを受け、俺は通話を切る。
「ずいぶんあっさり許可が出たな」
「今パパが出張中だから……パパがいたら絶対とやかく言われたけど」
想像したのか、うへえと顔を歪める。そりゃ父親からしたら娘のことは心配だろう。
「てゆーか、あんたの家は大丈夫なの? ……親、全然帰ってこないけど」
「そもそもめったに帰ってこないから問題ない。遠慮なく泊まってくれ」
「それはそれで問題でしょ……」
家族の在り方として問題という意味か、俺とぺら子が二人きりになるのが問題という意味か。どっちにしろ俺の回答は同じだ。
「お前の姿を見て大騒ぎされても面倒だし、好都合だろ」
「そうなんだけどね……トモナミの両親も出張中とか?」
「いや。親父は俺が小さい頃に死んでて、母さんは仕事浸けで家に帰ってこない」
父、源頼友は俺が五歳のとき、趣味の乗馬中に落馬して死亡。
母、北条・A・雅子は出版社の仕事が忙しく、会社近くに部屋を借りて連日泊まり込んでいる。
「……そーなんだ」
ぺら子は暗くなりかけた空気を誤魔化すように、話題を変えた。
「と、とにかく、あたしたちの目的は一緒なんだから、元に戻れるまで仲良くやっていきましょ!」
「ああ……」
仲良く、ねぇ。そんなの可能なんだろうか。
「あんた、寝るときあたしにヘンなことしないでよ?」
「しねーよ!」
Tシャツだぞ?
「だいたい、俺は三次元に興味ないからな」
それを証明してみせるように、俺は椅子から立ち上がって自室のドアを開けてみせた。見事なオタク部屋が俺たちを出迎える。
「どうだ? リア充には縁遠い世界だろ?」
案の定、ぺら子は言葉を失っている。さぞキモがっているかと思いきや――
「……」
……あれ? 目を輝かせてる?
「ぺら子?」
「……ん、そ、そうだったわね。あんたキモオタだったもんね。教室でもよくオタ話とかしてて」
ぺら子はごほごほと咳払いして、悪態をつく。
「悪かったな。誰にも迷惑かけてないだろ」
「で、でも、恥ずかしくないの? こんな……」
「恥ずかしい? なんで?」
俺は胸を張って言った。
「好きなことを隠す理由はないだろ?」
「……っ」
ぺら子は気まずそうに目を伏せる。俺が首を曲げてその顔を覗き込むと、あわてたように表情を取り繕った。
「……あんた、二次元にしか興味ないって言ったけど」
「それが?」
「今のあたし、二次元なんだけど」
……そうだった。お前はノーカンで。