日常
「コウさん!」
背後から響いた大声にびくりと肩を震わせる。
「お昼ご飯ですよ!何度も呼びましたよね!」
「ちょっと待ってくれ、あと少しで切りのいいところだから」
ちょうど知性と魔力独自性の関係について本題の考察に入ったところだった。いいところだが無視するのは悪いと、手にした本から顔を上げ振り返る。
視線の先ではあけ放たれた扉を背にして、まなじりを吊り上げたセシリアが仁王立ちしていた。閉め切られていた書斎の風通りがよくなったことで、光の中を漂っていた埃が舞い上げられる。
「昨日も一昨日もそう言って、結局一時間近くかかってたじゃないですか!」
その声にゆったり降下し始めていた埃がふわりと僅かに横に振れた。
「そもそも、私の分は用意しなくていいと言ったろう」
私は勢いづく彼女に淡々とそう返す。
竜は人間ほど食事に重きを置いていないので規則正しく一日三食食べる必要はない。確か昨日も同じようなやり取りをしたはずだ。
「だめです。やっぱりちゃんと食事はとらないと」
「竜は人間ほど頻繁に食事をとる必要はないと説明したはずだが」
「栄養が足りていればそれでいいというわけではないんです。それにずっと書斎に缶詰めでは効率も落ちますよ」
「これくらいで参るほど軟弱じゃないんだがなあ」
口うるさい彼女にやれやれと思いながら腰を上げる。こうも騒がしくては本を読むどころではない。その辺にあった紙切れを適当に手に取り、読みかけのページに挟んで本を閉じた。自身を中心に広がったメモや文献の海から床板をちょんちょんと渡って脱出する。
「ほら、早く来てください。ご飯が冷めちゃいますよ」
そう言って戻っていくセシリアを追うように廊下へ出ると、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。ソーセージの匂いだろうか。
広い食堂に入るとすでに食卓にはカリカリのパンと数種類の野菜、焼き立てで湯気の立つソーセージにスライスされたチーズ、二種類のソースが並べられていた。机が無駄に長いせいで端にちんまり料理が並ぶ光景はなんだか寂しく見える。
「どうぞ召し上がれ」
席に座るよう促され、彼女が言うのを合図にパンに手を伸ばす。次に菜っ葉、その上にソーセージとチーズをのせてソースにつけた。まだ熱々のソーセージの熱でとろりとチーズが溶ける。ソースが垂れそうになって、慌てて口へ運んだ。ピリッとした香辛料の香りとほのかな甘みが口の中に広がり、破けたソーセージの皮から肉汁が溢れる。シャキシャキした野菜のさっぱりさと肉汁の相性が抜群だ。
黙々と食べ進めていると、対面からふふっと空気の漏れる音がした。口に物が入っているのでむっと視線だけで抗議する。
「すみません。なんだかんだ言って、夢中になって食べているものですからつい」
ゆるんだ頬を軽く手で覆った彼女は言った。抑えようとしているのだろうが声が震えている。
「旨いものは旨いというだけのことだ」
「でも美味しいものを食べると幸せな気持ちになるでしょう?そういうことが大事なんですよ」
少しばかり威張った彼女の様子に私の眉が寄る。
「それに少なくとも私は、一人で食べるより二人で食べるほうが美味しいです」
ほころぶような笑みで言うのだから質が悪い。反射的に視線を机の角に向けた。
これではまるで私が悪いことをしているようではないか。この広い部屋で一人食事する彼女の姿を想像して一抹の罪悪感が生まれる。まあ世話になっている身であるし、彼女に合わせるのが筋というものかもしれない、とも。
「そういう訳なので、明日からもきちんと昼食を取ってくださいね」
パンを片手に満面の笑みで畳み掛けるセシリアに、結局私はうなずいたのだった。
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あるよく晴れた午後。私は屋敷の中でも一等よく日の当たる部屋の窓際で書斎から持ち出した本を読んでいた。せっかくの天気だからと開けた窓からは冷たい風が吹き込み、陽の暖かさで体が火照るのを防いでくれる。木々から落ちた葉が擦れる音がかすかに耳に届く。
とんとんと控えめなノックが響いた。
「なんだ?」
ここ最近、このぐらいの時間に私がこうしてここで本を読んでいることは彼女も知っていて、邪魔しないようにしてくれていた。何かあったのだろうか。
「すみません。今お時間いただいて大丈夫ですか?もしあれでしたらまた後で声をかけますので」
「いや、大丈夫だが。どうした?」
珍しい。頼みなら用件を真っ先に言ってくるのに。
「あの、ですね…」
「うん?」
「その…、簪をつけて欲しいんですが、お願いしてもいいですか?」
「別に構わんが」
思いがけずなんてことのない頼みで、おや、と思いながらもとりあえず頷いておく。
それから、鏡がある場所でというセシリアについて彼女の部屋に向かった。扉を開ける彼女に続いて足を踏み入れたのは、既に何度も入った代り映えのない部屋。相変わらずほとんど飾りっ気がないが、鏡台の前には以前買った藍色の簪が置かれている。
「それじゃあ、お願いします」
彼女は鏡台の前に座ると控えめにそう言って、後ろに立つ私に簪を差し出した。妙にこちらの顔色をうかがっているのが気になるが、一先ずは様子を見ようとそれを無視して目の前の髪に櫛を入れる。癖っ毛ゆえに絡まりやすい髪を丁寧にほどいて、引っ掛かりなく櫛が通るようにしてやる。
彼女の背に広がった髪を指で集めてまとめていこうという時。
「なあ、君。そうもそわそわ動かれたんでは上手くまとめられんのだがね」
「えっ、あっ、すみません!」
先ほどからこちらに何度も目線をやっていたセシリアは一度肩を跳ねさせると、慌てた様子で前を見た。目だけを向けていたつもりだったのだろうが、頭も一緒に動くせいでやりにくくて仕方がなかったのだ。やっと大人しくなった頭でまとめ上げた髪を簪に巻き付けくるりと回し挿す。飾りの位置を調節してやれば完成だ。もう動いていいぞと声をかけ、鏡台の端に寄りかかる。
「で?どうしたんだ?」
「実は大事な、話があります」
このままでは埒が明かないと考えてこちらから動くと、硬い声が返ってきた。
「長くなりますから座ってください。私はベッドに座りますから」
彼女はさっきまでのが嘘のように迷いない動きで、鏡台の前にあった椅子をベッドの前へ運んで言う。ベッドに腰を掛けた彼女にならい、私も椅子に座って向き合った。
「私とこの子の身の上についてです」
彼女は膨らみが分かるようになってきたお腹を撫でて言う。
「私が前まで王宮にいたことは話しましたね」
「ああ」
「お腹の子は先王様の子なんです」
「先王だと?」
突然大きくなった話に動揺が隠せない。
「はい、先王様の弟君にあたる現国王様が正式に即位したのは半年前のことです」
半年前。ちょうど私とセシリアが出会った頃だ。
「王位継承争いから逃げてきたのか」
「その通りです。幸い、先王様が崩御された直後に判明した私の妊娠は、ごく限られた者しか知りませんでした。その後すぐ、次の国王の即位に向けて王宮が慌ただしくなったのに乗じ、城を抜けたのです」
「それで、何で今になってそれを話す?今まで通り隠していてもよかったろうに」
王の代替わりの時期を街で耳にはさんで邪推することはあったかもしれないが、あくまで推測。私もそれだけで首を突っ込んだりしない。彼女が言わずにいればこの件は有耶無耶にできたはずだ。
「もう国王様は即位されたとはいえ、この子が王位継承権を持つことに変わりはありません。王国側の認知していない王子または王女。厄介ごとの種です。今ならまだ何も知らなかったで押し通せます」
「つまり、ここでのことは忘れて立ち去れと?」
「そうです」
私はふっくらしてきた彼女のお腹を見た。魔力を感じない人々にとっては少し太ったと感じる程度だ。相手が信じるかどうかは別として、知らなかったという言い訳はできそうである。
そこまで考えて、無性に腹が立った。
「お前、そんな脅しが私にきくと思ったのか。お国の問題に巻き込まれたくないからと恩も忘れて逃げる腰抜けだと」
話している最中も彼女の手はずっと腹にそえられていた。その意味も分からぬほど馬鹿ではない。
「それなら何も言わず、私にここでのことを口外禁止にして出ていくよう命じればすむではないか」
「そんなことっ」
「私は竜だ。人じゃない。国だの王位だのどうでもいいことだし、ちょっとした軍隊だって叩き潰せる。人間の事情になんてとらわれない。お前が相手にしているのはそういう存在だよ」
「心配するだけ無駄ということですか…」
「そういうことだ。君としては私に迷惑をかけまいとしたんだろうが、まったくもって逆効果だ」
なんだかんだ言って命の恩人の立場を利用して命令しなかったのは彼女も今の状況を心地よく思っているからだと思う。追っ手を恐れ、身重の体で一人、辺境の地で暮らす不安はいかほどだっただろう。
「大体、一人で出産子育てなんて流石に無理があるだろう。産後も昼夜もなにも関係なしに寝る間なく乳をやって、おむつも変えてやらにゃならんし、少し大きくなれば動き回って何にでも手を伸ばして口に入れるのだぞ、子育てなめてるのか」
「それは…、確かにそうなんですけど…」
自覚があったのかセシリアはうつむいてぼそぼそと言う。
「あれ、もしかしてコウさん子育ての経験があるんですか?」
「そりゃまあ、グレンも13ぐらいから私が育てたようなものだし、その子供のお守もしていたからな」
「伝説の紅竜がお守なんて想像もつきませんよ…」
「その子が生まれれば毎日見ることになるぞ」
愕然とする彼女をふふんと笑う。
「はぁー、結局出て行ってはくれないんですね。頑張ってお別れの心構えをしたのに」
「小娘が私に遠慮するなど700年は早いわ」
「何年生きてもかなう気がしませんよ」
深刻な雰囲気はどこへやら、いつも通りの和やかな会話だ。子供が生まれればきっと毎日お祭り騒ぎのように華やかになるに違いない。子供というのはいるだけで場が明るくなるものなのだから。