2
阪急嵐山駅は家族連れやカップルで賑わっていた。
春休みももう終わり、最後の休日を満喫しようというんだろう。
「風の色が違って見えるな」
「文学的ですね」
「文学部だぞ?」
忘れてるな、と突っ込むと、冗談だと思ってました、と返された。
苦笑する周一郎を後目に、ゆっくり伸びして息を吸い込む。
ほぼ満開に咲き誇った桜の、ピンクや白、薄紅の無数の花びらが風に舞い上がり、渦を作って足下へ吹き寄せてくる。周一郎はと見ると、サングラスの後ろで眩そうに、けれども魅せられたように桜に目を吸いつけられていた。
きっとこんな風に桜を見に来ることなんてなかったに違いない。朝倉家にも桜はあったかもしれないが、それを美しいと思ってみることなんてなかっただろう。
ベージュのシャツ、薄茶のベストに茶色のスラックス、どこぞのおっさんが着るような出で立ちも、桜の中では整った容貌に見事に映えて、まるで一枚の日本画のように見える。いつもの無表情が崩れ、桜に見愡れてる顔は無防備で、それを見ただけでもここに来た価値があったと思った。
「……何ですか」
「いや」
何でもない、と言いながら、その実にやにや笑いを顔中に広げてしまった俺に、周一郎が不愉快そうに眉を顰める。
「良からぬことを考えてたって顔ですが」
「良からぬことじゃないぞ?」
そうしてると、歳相応に、いや歳より可愛らしく見えるよなあ、たまにはそうやって、ガキの顔してぼうっとしてろと思っただけだ、とそれは口に出さないで、駅で買った地図を広げた。
「さて……どうするかな」
駅で買い求めたのは嵐山周辺から嵯峨野にかけての観光散策用の地図で、土産物店や名所旧跡、旅館や電車バス停タクシー乗り場などがイラスト付きで描かれている。
「少し……川の方へ行きましょう」
周一郎は眩しそうな顔で側を通る観光客から目を逸らせた。
「騒がしいのは苦手です」
「ん、そうだな」
日差しが思ったよりもきつい。日陰がある川べりの方がこいつにとっても楽だろうと、向きを変えたとたん、
「わ!」「きゃっ」
ふいにどん、とぶつかられた。地図を片付けかけていた不安定な姿勢で思わず数歩たたらを踏んでこらえたが、腕にすがってきた白い手が、勢いのまま滑って地図の端を掴む。もちろん、紙が何の支えになるわけも、ついでに凍りついた俺が相手を支えるなんて器用なことができるはずもなく。
「げ!」「やぁっ!」
びりりりりいっ。
歳の頃、十四、五。白いブラウスに桜色のカーディガンを着た少女が、地図を派手に引きむしって俺の前に転がり、ひらりと捲れた紺のスカートを慌てて押さえてへたり込む。さすがの周一郎も茫然とした顔で座り込んだ少女を見つめて無言、しばらく三人じろじろお互いを見つめあったが、
「……く、くくくくっ」
笑い出したのは少女だった。
赤くなりながらくすぐったそうに身を捩って笑い、立ち上がって服についた埃を叩きながら、快い響き声で謝った。
「すんまへん……慌ててしもた」
「あ、いや、こっちこそ」
立ち上がるのを支えようと差し出した手に千切った地図を載せてきて、そろんと上目遣いでこちらを見る。笑みを含んだ綺麗な目。ついつい視線が引きつけられる。
「どうしましょ、こないになってしもたわ?」
困ったように眉を下げて微笑んだ。つやつや光る髪に舞い落ちる薄紅の花びら、それが唇を掠めていきなり光が射したように見える。
桜?
桜がいきなり実体化、いや女人化したぞ?
「……観光にきはったんですか?」
「滝さん」「うぉ」
思わず側の桜を見上げて、周一郎に小突かれた。
「はい?」
「あ、いや、ごめん、こっちの話」
小首を傾げた相手に慌てて弁解する。なんだよ、勝手に人の心を読むなよな、と周一郎に向かって唇を尖らせつつ、少女に向き直る。
「あ、うん。桜を見に来たんだけど、ついでにちょっと歩いてみようかって。な?」
お前も話せ、と周一郎を振り向いた。軽く頷いた周一郎は、にこりとよそいき用の笑顔を作る。
「東の方やねえ……嵐山は初めてですのん?」
「ええ、そうなんです」
「えーそうなんや」
頷いた周一郎に、少女は露骨に話し相手を変えて、嬉しそうに微笑んだ。
はいはい、そうだよ、そうだよな、そっちに目がいくよな、普通。
わからなくはないが、ちょっといじけてみる。
「それやったら……地図あかんようにしてしもたし………あたしが案内しましょか?」
「え、いいの? 初対面の人間に」
一応ここは大人の振る舞いをだな。
俺は周一郎に負けず劣らずのつもりで、にっこり笑って見せる。
「かましまへん。うち、人を見る目は確かですねん。ちょっと待ってて下さいね?」
相手は身軽に頷いてくるりと背中を向け、携帯を取り出してやりとりを始める。
「……いいのかな」
周一郎が少し気遣った顔で眉を寄せた。
「いいんじゃないか? ああ言ってくれてるんだし、甘えちまおう。地図もおしゃかになったし」
地図を丸めて屑篭に放り込みながら笑うと、周一郎は小さく溜め息をついた。
「気楽ですよね、滝さんは」
いやだって、女性と知り合う貴重な機会を棒に振って京都へ来たわけだからな、ちょっとぐらい楽しい出会いとか出会いとか出会いとかあってもバチは当たらんだろ?
ぶつぶつ言うと、別に付いてきて下さいなんて頼んでませんが、と冷ややかに言い返された。
「あのなあ」
「何ですか」
「だいたいお前が」
「…お待たせしましたぁ。家のもんには友達と出かける言うてしもた」
ちろっとピンクの舌を出して振り返った少女はにこにこ嬉しそうに自己紹介に入る。
「私、三条京子、言いますのん。御名前、お伺いしても構いません?」
尋ねた先はもちろん、周一郎の方だ。いやむしろ、俺にことは既に忘れつつあるというか。
「……」
この分ではこいつといる限り、女の子と楽しいおつき合いってのは不可能かもしれない。
遅まきながら、そこに気づいた。
「朝倉周一郎と言います」
「周一郎、さん。かっこええ名前やねえ」
褒められても周一郎は平然としたものだ。まああれだけややこしい家に育っていたら、いくら可愛らしく見えても、そうそう女に優しくしようという気にはなれないかもしれない。
なら俺の出番、だな?
「あの……俺は?」
おそるおそる切り出してみる。
「あ、はいはい、お名前は?」
「滝志郎です。大学三年」
朗らかにはっきり応じたのに、京子ははいわかりました、と事務的ににっこりしただけで、すぐに周一郎に向き直った。
「へえ、大学生………で、周一郎さんは?」
おーい、それだけか。男はな、中身なんだぞ中身。
「僕は……ちょっと」
「こいつは事情があって引きこもりなんだよ」
口ごもった周一郎にフォローに入る。
「で、俺が家庭教師」
「へ、ええええ?!」
いや、そこで驚かなくてもよさそうなもんだが。
「大変なんですねえ、周一郎さん」
だから、どうしてそいつに話を振るかなあ? ってか、なんで『大変』なのが『周一郎』なんだ?
溜め息まじりに天を仰ぐと、くすくす京子が笑った。
「それで、どちらへ? どういうところがよろしいのん?」
「うーん……金のかからない、綺麗な所!」
「………そんなん、正味、桜しか見られまへんえ」
「うう」
「………難しなあ……周一郎さんもそういう所がええ? それやったら、念仏寺とか、天竜寺とか……お寺ばっかりになるしなあ……それでも拝観料はかかるし……賑やかな所はお嫌い?」
「いや……」
周一郎が曖昧にことばを濁して気づいた。
そう言えば、日差しはさっきからどんどん強くなっている。春とはいえ、周一郎がこれほど長く外に居続けるのも珍しい。
ひょいと顔を覗き込むと、微かに汗で額を光らせている。心無しか顔色も悪い。
こいつ、また苦しいのを黙ってるんじゃないだろうな。
「あー、俺、物凄く静かな所がいい! うんとのんびり休めて、ついでに昼寝とかできるとこ!」
「はぁ?」
「な、周一郎、そういうところへ行こう! 健康にいいぞ!」
「滝さん……」
このおせっかい、そう言いたげな表情が過ったが、どこか苦しそうに周一郎は目を逸らせる。
「ということで、そういうところ、行こう!」
「うーん……ほな………京都の名所言うのとはちょっと違いますけど、観光コースを少し外れたとこに、うちの知り合いがいますのん。堂明寺言うお寺やけど、そこならゆっくりしてもらえますえ」
「あ、俺そこがいい!」
「…滝さん」
間髪入れずに叫んだ俺に周一郎が眉を寄せる。
「僕は別に」
「いや、俺は凄くそこに行きたい! さ、行こう行こう、ほら!」
俺は渋る周一郎と困惑顔の京子を押すように歩き出した。