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「扇、明日には届くと思うてますけど……」
清が遠慮がちに切り出したのは、四月三日、俺達が清の家に来た次の日のことだった。
周一郎は俺が起きる事にはもう身支度を整えていて、部屋の隅に座っていた。明るい日差しを不快がる風もなく、目を閉じ、サングラスを指に引っ掛けたままべたりと脚を投げ出して壁にもたれ、まれに見る寛いだ表情になっている。
安心と平穏。満ち足りた表情はいつもより数段幼くも見える。
家族とは名ばかりの冷め切った人間関係の中で、清に対する周一郎の信頼がどれほど大きなものだったか、今さら思い知らされた気がして、俺はしばらく声さえかけられなかった。
もし高野が心配しているように、清までこいつを狙っていたとしたら、こいつは本気で清に殺されるつもりなのかもしれない。
そんな不安がちらりと胸の底を掠めた。
「……ふ」
視線に気づいたのか、周一郎がゆっくり目を開ける。俺がじっと見つめていたのに気づいても、いつものように警戒するわけでもなく、ただうっとりとどこか眩しそうに目を細めて、
「目が覚めましたか? もう十時ですよ」
柔らかい声音だった。
「んー、そんな時間かあ」
オーライ、俺は気づいてない、何も見てない。
気づかなかったふりで伸びをしてのそのそ寝床をはい出し、畳の上に温かく落ちている日ざしをぼんやり眺める。
「いい天気だなあ」
くす、と周一郎が笑った。
緩んだ目元が溶けそうだ。
「…もう、起きやっしゃあ!」
階下から声が響き、階段を静かな足音が上がってくると、清が温和な笑みを見せた。
「ああ、起きたはりましたん」
「あ、すいません」
片付けの邪魔をしたかと慌てて布団を畳みにかかると、それを押しとどめて清はにこにこ笑った。
「ほな、ぼちぼちご飯どすな」
ひょいと周一郎を振り返り、
「坊っちゃん、お腹空かはったやろ」
「え?」
きょとんとした俺に清が目を細める。
「ほんまにこないなことしはるやなんて、思いもしまへんでしたえ」
布団を片付けながらくすくす笑う。
「坊っちゃんなあ、えろうはよ起きはったのに、滝さんと食べるんや、言うて、朝ご飯食べんと待ったはったんどっせ」
「清!」
慌てた口調で周一郎が口を挟んだ。清が改めて気づいたように口をすぼめる。
「すんまへん、言わへん約束どしたなぁ」
軽い舌打ちを耳にして、照れたようにそっぽを向いた周一郎を振り向く。
「すまん、待たしてたのか?」
「別に待ってたわけじゃありません」
「朝飯は食ったのか?」
「…食べてません」
「じゃあ」
「たまたま食べ損ねたんです」
誰かの間抜けた寝顔が面白かったから。
「誰かって?」
「しつこいですよ。早く着替えて下さい。昼まで抜くのはごめんですから」
「わーった!」
俺は急いで着替え、顔を顰めて先に階下へ降りてしまった周一郎を追いかけた。
なんか、ほぐれてきてるよな?
少し浮き足立ってそう思う。
やっぱりこいつ、少しほぐれてきてるよな。
振り返らない細い背中ににやにやした。
食卓は相変わらず素朴で温かく、味噌汁の味は格別だった。
清は三杯目の味噌汁のお代わりをにこにことよそってくれながら、
「どうせ扇は明日しか届きまへん。ええお天気どっさかい、嵐山へでもおでかけやす。もうそろそろ桜が見ごろですえ」
「桜かあ」
こっちも三杯目の飯をかきこみながらうなずいた。
「もうそんな時期なんだ」
「松尾から一駅どすし……『桜急行』もありますし」
「『桜急行』?」
俺が首を傾げるのに周一郎が茶を飲んでいた手をとめて解説する。
「桜の時期に増発される、梅田嵐山間を直接繋ぐ急行です。普通は桂で乗り換えるんですが、この時期だけはそういうラインがあるんですよ」
「後、紅葉の時にも出ますんえ」
清が嬉しそうに付け加えた。
「そっちは『紅葉急行』………坊っちゃん、よう知ってはったこと」
周一郎は薄く頬を染めてそしらぬ顔で茶を啜った。
「ふぅん…」
止めていた箸を動かしながら、ことさらのんびりと茶を飲む周一郎を目の端で見る。
周一郎が電車に興味があったとは聞いてない。ましてや地方の一時期だけ走る特別列車を一々覚えているとは思えない。
なのに、なぜそんなことを知っているか。
ぱりぱり、とタクアンを噛みながら飯をかきこむ。
ひょっとしたら、周一郎は、清が乳母を離れた後、ここへ来る方法を調べていたんじゃないだろうか?
朝倉家の隠しアイテムだったこいつが、早々外に出られたはずがない。命を狙われていたならなおさらだ。
けれど会いたくて。
自分を唯一普通の子供として愛してくれた人に、もう一度会いに行きたくて。
苦しかったり辛かったり悲しかったりした時に、密かに京都へどうしたら行けるか、考えていたんじゃないだろうか。
脳裏を、屋敷の隅で地図と時刻表を繰る周一郎が過る。
仕事の合間、人目を盗んでこっそりと、もう側にいない優しい人の姿を求めて、指先で道を辿る。
『京都、嵐山、えーと、路線は……』
積み上げた経済雑誌や報告書や企画書の陰で。振り仰いだ空の彼方に続く遠い場所を思って。
それでも来たことはなかっただろう。
来れるはずもなかっただろう。
『桜急行って、あるんだ』
呟いた幼い声と、小さく噛みしめた唇が見えた気がして思わず誘う。
「行こう」
きっぱりはっきり言い切った。
「え?」
「俺も桜を見たい」
そうだ、見たいぞ、何が何でも見たいぞ、周一郎が唯一信じたその人が暮らしている場所を、そこに行きたいと願った場所を。
もう、ひょっとすると、周一郎には、二度とは来れない、場所だから。
「………僕は」
一瞬惑った顔で見返した相手に笑う。
「日本人なら見に行こう」
「……なんですか、それ」
微かに笑った相手にほっとした。