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「……滝さん」
「、」
弱々しい震えた声で囁いた『直樹』をより一層草に沈め、抱え込みながら後へ庇う。ぶるぶる全身揺らせながら、『直樹』が必死にしがみついてくる。
「…たき…さん」
吐息が腹のあたりで囁く。
こわいよ…。
「っ、」
銃口がゆっくり茂みをかきわける。覗き込まれたらおしまいだ。まず俺から撃たれて、それから『直樹』が始末される。
「、、、」
せっかくこんなに素直に気持ちを打ち明けられて、せっかくこんなにちゃんと人に救いを求められて、せっかく明るく笑えるようになったこいつをまた、あの光の牢獄に押し込めてしまうことになる。
歯を食いしばって銃口を睨み据える。
ああ、怖い、怖いさ、前に目の前で周一郎が撃たれたのを見ている。溢れる血とむせ返る熱が一気に流れ去る人の体も知っている。
悲鳴を上げればこの怖さはすぐになくなり、安らかで柔らかな暗闇の平穏が待っているとわかっている、こんな恐怖に耐えるよりはきっと、その方がうんと楽なはず、それでも。
『直樹』をきつく抱え込む。
怯むな。
眼を閉じる。
深呼吸する。
体を緩める。
そうだどうせ一度きりの人生だ、慌てなくてもいつかちゃんと死ぬだけだ。
「たき…さ」
「…」
静かに『直樹』の体を撫でる。優しくその背中を叩く。眼を見開いて手を伸ばす。揺れている銃口をうまく掴んで引っ張れたら。その先を地面に向けられたら。一発目が外せたら、二発目までの時間ができる。すぐそこの用水路に『直樹』を追い込むことができる。
「…走れ」
「え…」
「俺が掴んだら、すぐ走れ」
「でも」
「いいから走れ、わかったな!」
「うあ!」
叫ぶと同時に銃口を掴んだ。力の限り引き寄せて、そのまままっすぐ引き下ろす。相手が悲鳴を上げて大きく震える。『直樹』の背中を殴って促す。
「走れっ!」
そうだ今が走るとき、走る走る走るとき走れば走れ!
「くっ」
鋭い舌打ちは『直樹』のものか、周一郎のものなのか。
側から跳ね起きた少年、同時に掌の中で衝撃があって、どんっ、と重い振動音が俺の腕のすぐ側で弾けた。
「いたぞ!」
軽い発射音と重い衝撃、焼け付くような感覚に両手を離してしまって、それでも突っ込んできた男の頭を思いっきり抱え込んでしがみつく。
「どわああああああ!」
「うああああ!」
わめいたのは俺わめいたのは男、もんどりうって一緒に草の上に転がる、『直樹』の足音がふいに地面から消える、ああどうかうまく用水路に飛び込んだのであってくれ、でなけりゃ俺がなんで苦手なハードボイルド、『半熟卵』にはきつすぎる。
「がっ」
抱えた頭はすぐに振り払われて、引きずり出されて顔を殴られ、そのまま地面に転がった。
「このくそがああ!」
激怒しまくってる相手がどすっと俺の胸を踏む、待てそれで普通に死ねるから、その上撃たなくっていいから!
「うわっ」
構えられた銃口にもう終わりだと顔を背けた矢先。
ピイイイーーーーッ!
「確保ーーーっっ!」
「えっ」
鳴り響く警笛、空気を圧する十数人の怒号、ぎょっとした男が振り返る先を見たとたん、全身凍りついた。
「なっ」
「たきさん……っっっ!」
駆け寄ってくるのは周一郎、涙でぐしゃぐしゃの顔で両手を広げて、まるで男も銃も周囲の何もないように、俺しかそこに居ないようにまっすぐ何ためらうことなく。
その背後から、どこにそんなに潜んでいたのか、次々と踏み込んでくる制服警官、それを先導するように芝生を楽しげに跳ねる小さな猫と、それを追うお宇の姿。
「こいつう!」
男は激怒した。一瞬にして真っ赤になった顔が主人の言いつけを忘れて餌に飛びかかる猟犬みたいに歪んで見えた。俺を蹴って向きを変え、走り寄ってくる少年の胸に狙いを定める。
「やめっ」
お前は馬鹿かアホかすっとこどっこいかきゅうりのへたか。
「俺が先だって言ってただろ!」
「うお!」
蹴られた左肩が熱くなる、それでも男の足を掴んでがっしり引き寄せてやってバランスを崩させ、ざまあみろ、そう思った瞬間。
「っっ!」
振り返った男がライフルを構えた。
至近距離。
狙いがぶれる。
スローモーションで引き金が引かれ、銃口が軽く跳ね上がり、飛び出した弾が俺の左肩へ吸い込まれる。
「く…あ…っ!」
「志郎っっ!」
高い悲鳴。
「この野郎!」
二発目を撃つ時間は男にはなかった、次の瞬間飛び込んできた警官らしき塊に視界からあっという間に跳ね飛ばされて消え去ったから。
その代わり。
「い、てええっっっ!」
とにかくそう叫ぶしかなかった。
体中から汗が噴き出し、まるでそれで貼付けられたみたいに地面に寝そべったまま身動きできない。血の気が引いて吐き気がしてこのまま吐いたら窒息死するそれは笑える銃で撃たれて窒息死だぞなんだそりゃとか思っているうちに、涙で歪んだ真っ青な空に突き出された顔に瞬きする。
「お…由宇…」
「しゃべらないで!」
「っっっ」
すいません何したんですかすんごく痛い気が狂いそーなほど痛いんですが、と目で訴える。
「弾は…擦っただけね」
ほ、と汗を浮かべた顔で険しく寄せていた眉を緩めて、お由宇が左肩をまた強く押した。
「いたいいたいいたいいたいっ」
「痛い痛いってタフね、もう」
呆れたようにお由宇が応じる。
一応撃たれて結構な傷になってる、今止血してるところだから痛いのぐらい我慢しなさい、そう言いながら、駆けつけてきた警官から何かを受け取りなおきつく肩を押さえて手当してくれている、らしい。
「吐きそう…なんだが」
「我慢なさい」
「……吐くぞ」
「窒息するわよ」
「……なら横向けてくれ」
「もう」
いやもうってあのな俺は認識に間違いがなければたぶん重傷で。
「うぎゃあああ」
「男のくせになに」
「いたいいたいいたいいたい」
横向けられて死ぬかと思った。こみ上げてきた吐き気が痛みで倍増しになった。よしもう完璧に吐く、そう息を吸い込んだとたん、目の前に立ち竦んでいる姿に気づく。
「……たき…さん…」
えーと『直樹』だっけか周一郎だっけかああもうどうでもいいや今。
「ぶじ…だったんだな…」
「……ぶじ…じゃない…」
よろめくようにふらふら体を揺らせて近寄ってくる少年はくしゃくしゃになった髪の毛に草を絡ませ、あちこり泥だらけになっている。
「けが…」
したのかおい。
思わずぎょっとして起きかけて、ぴ、と頭のどこかで停止音がして沈む。




