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「あら」
とっくに駅へ向かっていたと思ったお由宇は少し先で俺を待っていた。
「居座らなかったの」
「は?」
「少し戻りかけたんじゃないの、『直樹』は」
「ああ……うん……って!」
はっとして相手を見遣ると、くす、と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「お前、まさか周一郎を刺激するつもりもあって!」
「あなたがあんまりしょげてるから」
「違うだろ」
そんな優しい理由で動くようなお由宇じゃない。
「そうね、まあ大切なライバルを失うのもつまらないと思って?」
「ライバルって」
ほんとお前と周一郎はどういう関係なんだよ。
「…知らない方がいいわよ」
一瞬ためらったお由宇はすいと笑みを消して前を向いた。
「知らない方がいいことも、世の中にはたくさんあるわ」
軽く鞄を押さえながら、
「これが『直樹』を追い詰めても、『直樹』は必死に闘うだけでしょう?」
「……」
「でも、周一郎の記憶があれば、そんな簡単なことじゃすまない」
「そう、だよな」
お由宇が無駄に動くわけはない。遅かれ早かれ『SENS』とそれに関わる人間は摘発され、やがては里岡にも追及の手は伸びるだろう。
『直樹』でいるだけなら、突然襲ってきた家族の危機に、悩みつつ信頼を揺らがせつつ、それでも温かな父母への思いを頼りに、あいつはしのいでいくだろう。事業を立て直し保持していく才能なら溢れるほどあるのだから、それほどたたずに里岡は『直樹』の活躍で持ち直すだろう。そして、それは『直樹』の評価を格段にあげるはずだ。
けれど、朝倉周一郎なら。
『SENS』とそれに関わる京子や良紀の件、『トップ・トランス』や朝倉家、自分自身への嫌疑も晴らさなくちゃならない。しかも相手は少なからず敵対関係にある綾野だ。いつ裏切るか寝返るか、いやそもそも周一郎や朝倉家を失墜させようとしているのに、状況によってはそっちまで庇わなくちゃならなくなる。
たとえ今回をうまく切り抜けても、身中に虫を飼うことにはかわりない、猛々しく宿主を食い荒らすつもりの牙を隠した幼生を。
「……もう、いいだろ」
俺は唸った。
「え?」
「もう十分苦しんだんから」
楽になってもいいんじゃないか、あいつは。
「そりゃ、好きだけどな、周一郎は」
いじっぱりで意固地で鋭くて疑い深くて皮肉屋で、けれど本当は優しくて、誰よりもいろんなことを見てしまって傷ついているのに、それを一人で抱え込む。見抜かれかけて平静を装おう、薄赤く染まった横顔はカワイイとこだと思う。
「けど」
胸に詰まったのは最後に見た微笑。
俺にもようやくはっきりわかった。
確かにそうだ、俺が側に居るだけで、何かが周一郎の中に動きだしてしまう。『直樹』の意識を破って、周一郎が顔を出す。側に居る時間が長ければ長いほど、『直樹』を周一郎に引き戻してしまう、里岡氏が言ったように。
「……いいんだ、あれで」
『直樹』であいつは幸せなんだ。
「ほんとにいいの?」
ぽつりとお由宇が呟いた。
「ん?」
「『直樹』を『直樹』でいさせるためには、あなたもそれなりに面倒な……志郎っ!」
いきなり前方から眩しい光が照らした。
逃げて、そう叫んだお由宇が一瞬後には身を翻す。
「え、あ、ちょ…っ!」
車のライト、降りてきた人間が走り寄ってくる、それだけ見取って俺は慌てて向きを変えた。背中でじたばたしたルトを逃がしてやらなくちゃ、ととっさにチャックを引き降ろす。
「にゃっ!」
「げっ!」
ルトは俺の頭を思いっきりどついて夜闇に跳ねた。衝撃に視界がぶれ、足下がお留守になり、もちろんそこには反応が鈍くて主の意志をまともに受け取らない、俺のもう一本の脚があり。
思いきり、自分の脚に躓いた。
「うあっ、…っ!」
つんのめると同時に背後に不快な圧迫感、やばいと思う間さえなく、次の瞬間ルトより数倍派手な一撃を受けて、俺は一気に闇に沈んだ。
馬鹿なことをしている。
そうだいつだって、何の得にもならないことで意地を張って馬鹿を見て。
『馬鹿だな、お前は』
頭の中で声が嗤う。
『何のためにつっぱってるんだ、さっさと謝れ、謝っちまえ』
声には聞き覚えがあった。小学校のころの担任だ。
クラスで小さな会を催すことになって、そのために金が集められたことがあった。
だが、その金が体育の時間中になくなって、誰が盗んだと騒ぎになった。
担任は立派とは言いがたい人間で、俺が孤児で経済的に厳しい状況にあることを理由に、疑いをかけてみんなの前で俺の鞄をひっくり返した。当然ものは出なかったが、今度はどこへ隠したとなじられ、盗人の上に嘘つきだ、正直に話すまでそうしてろ、と廊下に正座させられた。
『知らないっ、俺は知らないっっ!』
尋ねられるたびに否定して、そのたびばこりと頭を殴られたけど、適当に謝っちゃえばいいんだよ、そういうクラスメートも居たけれど。
お日様が見てる。
俺が暮らしていた園の園長はそう言っていた。
人生は長い坂で、そこをみんなうんうん唸りながら登っていく。
大きな荷物を背負ってる人もいれば、ほとんど荷物のない人も居る。
お前達は始めから大きな荷物を背負って歩き始めたけれど、心配するな、空にはお日様があって、お前達がどんなふうに歩いたかを坂にしっかり焼きつけておいてくれる。
いつか坂の上に来た時に、お前達は胸を張って誇らしく笑える、お前達が登ってきた道の見事さを指差して。
見ろ、これが俺の為したことだ、と。
きっと今大きなでこぼこがある時なんだ、と俺は思った。
このでこぼこをどうやって歩いていくか、お日様がじっと見てる、俺の背中から。
恥じないように、最後に凄いだろって笑えるように、俺はちゃんと登ってみせる……。
へえ、こんなことを覚えてたんだ。
ぼんやり考えながら瞬きすると、目の前に揺れていたもやが緩やかに固まって、その口のあたりがぱくぱく動いた。
準備はいいか?
準備?
では周一郎について話したまえ。
何を?
何でもいい。
誰かが奇妙な会話をしている。
さあ早く。
どうして?
それは気にしなくていい、さあ早く。
誰と誰が話してるんだろう?
なぜ周一郎について話さなくちゃならない? なぜ俺が? 一体誰に?
ああ、でも理由は簡単だ、俺が一番よく知っているから。
周一郎を、他の誰より、よく知っているから。




