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昼過ぎの嵐山駅はまだ込み合っていた。
電車から降りてくる人の波に押されながら、それでものろのろと順番を待って改札を通り、ふいに誰かに呼ばれたような気がして振り返るけれど、そこには誰もいない。
そういうことを何度か俺は繰り返した。
「……いないんだなあ」
溜め息をついて首を振り、
「いなくなったんだ、な」
言い直した。
他でもない俺が、周一郎を里岡家に置いてきた。
何かの拍子に自分が何に関わっているのかを知ったとしても、『直樹』なら里岡家として為すべきこと、耐えしのぐべきこともちゃんと見極めるだろう。
後は記憶が戻ってこないように祈るだけだ。
缶コーヒーを買って、人気の失せたホームの椅子に座る。隣に置いたボストンバッグの中でごそごそとルトが身動きして、にぃ、と不愉快そうに鳴いたから、周囲を見回してちょっとだけだぞ、とチャックを開けてやった。
暗がりにきらりと光った瞳にまっすぐ見上げられて、その向こうにまだ周一郎の視線が繋がっているように思えて辛くなる。
「責めんなよ」
ぼやいた。
「お前だって、あっちのほうが幸せそうだと思ったろ?」
ふん、とルトは鼻息で応じた。
「何なら、お前だってあっちに飼ってもらえばよかったんだ」
「な、ぁ?」
「……あ、そっか、へたに刺激しちゃ、まずいのか」
ルトがじろりと睨み上げてくる。
「そっか……俺はお前からも周一郎を取り上げちまったのか」
「な~う」
「……すまん」
とりあえず謝って、軽く振った缶コーヒーの蓋を開ける、と。
「どわ!」
ぶしゅしゅしゅしゅと中身がいきなり泡と茶色の液体を吹き零した。止める間もなく思いっきり服に浴びて、慌てて立ち上がったせいでなおさら周囲に中身をぶち撒く。
「何だよ、これ、コーヒーじゃないのか? ……は?」
ぶしゅぶしゅと景気の悪い音をたてながら、ようやく噴出がおさまってきた缶をまじまじ見つめて呆気に取られた。
「微炭酸ですので振らないで下さい……? 微炭酸? コーヒーの微炭酸?」
何だよ、それは。
「新感覚飲料あなたの頭を刺激する……? ………刺激してくれなくていいって」
思わずげんなりして缶をゴミ箱に捨て、茶色まだらに汚れたジーパンとシャツに顔をしかめた。
「これで帰るのか……?」
余りにも目立つ……ってか、正直こんなに汚れてちゃ、座席に座るってのもはた迷惑な気が。
「はた迷惑よね」
「うぎゃ」
ジーパンの股間を覗き込んでいた矢先、背後から耳元に囁かれて飛び退いた。
「お…由宇」
「一人なの?」
「……あ……うん」
「置いてきちゃったの、『里岡直樹』」
「うん……って、えええっ」
知ってたのか、と叫ぶと、まあいろいろとね、でも昨日よ、確認したのは、と相手はロングヘアを揺らせて上品に笑った。
「なんだか、なあ」
とにかくその格好じゃ帰れないでしょう。
お由宇はそう言って、前にも世話になった家へ連れ帰ってくれた。
「お前も京都に別荘があるのか」
そんなセレブだとは知らなかった、ととりあえず渡されたバスローブを掻きあわせながら、淹れてもらったコーヒーを飲む。
「馬鹿ね、違うわよ、ここは知り合いの家。一時的に借りてるだけ」
洗濯機で俺の服を洗ってくれながら、お由宇はお腹空いたでしょ、とトーストを焼いてくれる。
「前になんで京都に居るのかって聞いたら、ちょっとね、で済まされたけど」
「ちょっとね」
「おい」
「……と言うわけにも、いかないか」
はい、と焼き上がったトーストにマーガリンを添えられて、手を伸ばした。ルトも足下でミルクをもらって、あれだけでかい家の猫にしては好みがうるさくないというのか、文句一つ言わずに食事を続けている。
「『SENS』って……知ってるわよね?」
「……おい」
「恐い顔しないの、使うわけないでしょ」
「…そりゃ…そうだろうけど」
「そんなものなくても、私には世の中は十分刺激的よ」
お由宇はくすくす笑って、自分もカップを取り上げた。
「『SENS』を追っているのは叔父のほう」
「麻薬系…だったっけ?」
「違う。仲のいい同僚の配下がそれに関わっていて、もう少しで綾野の尻尾を掴めるって時に馬鹿馬鹿しい連絡ミスがあってね、彼は死ぬ羽目になった」
「うん?」
いや、それはいいんだが、お前は一般大学生じゃなかったっけか。
「その配下は三条良紀、って言うんだけど」
「!」
「知ってるわよね?」
「知ってるも何も……え、え?」
「彼はこっち側から綾野の方に潜り込ませていた人間で、今度確実な証拠を持ち帰ってくるはずだった。叔父と同僚はこちらでちゃんと彼を確保して、そこで警察内部で彼と証拠の安全を守る予定だった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
何が、何だか?
「なのに、その情報が漏れてて、空港でへたな大捕り物、挙げ句に追い詰められた良紀を捕まえかけたのは、綾野と通じているかもしれないと疑われていた警官」
「う…」
「証拠も、自分の安全も守られない可能性があるばかりか、綾野側に利用されるかもしれないと良紀は考えた」
「だから…自殺…?」
「表向きはね。けれど、ばたばたしていた時に良紀を突き落としたという目撃情報もある」
「……じゃあ、なんで」
そこまでわかっていて綾野を追い詰めなかったんだよ、と唸ると、
「証拠が消えちゃったのよ」
「は?」
「良紀が持っていたのは手帳だけ。そこに周一郎の名前があったから、こちらも動かざるをえなかったけれど」
上層部じゃ周一郎は今回ほとんど関わっていないと見ている。
「けれど、肝心のものがない。可能性があるとしたら、直前に良紀が周一郎に頼まれたものに紛れ込ませて送ったか、妹か家族に託したか」




