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翌朝早く、俺とルトは里岡家を出て行くはずだった。はずだった、というのは、昼近くになってもまだ、俺は里岡の家に、正確に言うと『直樹』の部屋に居たからだ。
実は、あの後『直樹』は夜中過ぎに発熱し、今朝は見事に床から起き上がれなくなってしまったのだ。
里岡夫妻は今日の会合を抜けるわけにはいかず、かといって、他に別荘に残る人間が居るわけもなく、通いで来ている家政婦は、今日は昼すぎからしか来られない。
一人で大丈夫か、と尋ねられた『直樹』は、いつもの通り、大丈夫です、そう答えるはずだったんだろうが、今日は控えめに、家政婦が来るまでの数時間だけ、俺についていてほしいと言い出した。
もちろん事情がある里岡は渋ったし、俺もできればさっさと出て行きたかったが、熱のある潤んだ目で「駄目ですか」と不安そうに見上げられては、他に手立ても見つからない。
家政婦が到着次第、家を出て行くということで俺は『直樹』に付き添うことになった。
佇まいにふさわしく、というか、額に張り付けるジェル製冷却剤一つないと言われて、与えられたのはタオルと洗面器、それに氷枕。
冷水で絞って冷やしたタオルはすぐに熱を含んで重くなる。
「……すみ、ません」
汗の滲んだ額にタオルを載せてやると、『直樹』は掠れた声で謝った。
「気にすんな」
今さら謝るぐらいなら引き止めなきゃよかっただろう、と苦笑すると、『直樹』ははにかんだように笑った。
「本当にそうですね…でも」
一人で寝てるの、今日は嫌だったから。
くたりと布団に身を任せたまま、『直樹』が眉を寄せて見上げてくる。
それはいつかの寺で、同じように布団に横になっていた周一郎を思い出させた。
「……滝さんに居てほしかったから」
「……」
きっと、あいつはそんなことを死んでも言わないだろうが。
どれほど一人が辛くても、どれほど竦むような思いをしていても、周一郎は助けなど絶対求めてこない。こっちが捜し回って倒れているのを見つけるまで、自分では動けなくなるまで平然と、苦痛などは感じていないという仮面を被り続けるだろう。
ならば、そういうことだけでも、自分が必要なときに助けを求められるなら、『直樹』のほうがいいのかもしれない。いや、きっと人間としては、いい、はずだ。
「…ん…っ」
「どうした?」
「……どこかへ……落ち…込みそう…」
急に『直樹』が手にすがってきて覗き込むと、真っ青な顔をして喉を鳴らしている。
「吐き……そう……」
「気分が悪いのか」
「…めまい……が…して………」
「めまい? ああ」
俺は慌てて周囲を見回した。確かに昼間なら照明も要らないほどの明るい部屋、当たり前の人間には気持ちいい場所だろうが、体調が崩れている時にこの光の中に居るのは周一郎にとってきついはずだ。
「ちょっと待ってろ」
「たき…さん…っ」
必死にしがみついてくる手をそっと解いて、額のタオルを広げて目元まで覆ってやる。それから、立ち上がって窓の障子を閉め切り、雨戸がついているところはできる限り閉めていった。
「『直樹』くん?」
「…は…い」
「もう少ししたら楽になるから」
白くなった唇を震わせている相手の目元を掌で押さえてやる。
「…………あ…れ…」
やがて浅い呼吸を繰り返していた『直樹』がゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。枕元に胡座を組んで座った俺にしがみつきそうだったのが、少しずつ丸めていた体からも力を抜く。
「…ほんと…だ……」
「だろ? ここはまぶしすぎんだよな」
目は閉じたままでいろよ、そう呟いて、温まってしまったタオルを絞り直してもう一度載せようとすると、『直樹』がそろそろと目を開けた。
「こら、また気分が悪く」
「どうして……?」
「は?」
「……どうして、こうすると、楽だって、知ってるんですか」
ふわりと急に開いた瞳にまぎれもなく周一郎の表情が過って、一瞬ことばを失った。
「それは」
ほら、俺も風邪とかで寝込むと、あんまり明るい部屋とかに居たくないしさ。
「でも……滝さん……知ってたみたいだ」
「何を」
「……こうすると、僕、は楽になるんだ、って」
「う」
「まぶしいって…言わなかったのに」
すぐに部屋を暗くしてくれた、と『直樹』はじっと俺を見た。
「他の誰も、してくれなかった」
僕がまぶしいって言うまで。
「どうしてわかったんですか? 僕がまぶしいのが、つらいんだって」
「あ~……それは……」
まっすぐで曇りのない瞳に凝視されて口ごもる。こういうときに限って、ルトは側に居てくれない。今ごろあちこち探索しているのだろうが。
「……勘、だ」
「勘?」
「そうだ、勘」
「……僕を周一郎さん、と間違えたのも?」
「……勘だ」
「……あてにならないんじゃないの」
「そうかもしれん」
「そうかもって…」
くす、と『直樹』が微かに笑う。苦しいのがずいぶんおさまってきたようで、血色も戻ってきてほっとした。
「おかしな…人だなあ」
「ほっとけ」
年上捕まえて失礼だろうが、そう唇を尖らせると、今度は目を閉じてタオルを載せられた『直樹』が、手も下さい、とねだった。
「気持ちいいから」
「わかった」
タオルの上から掌を重ねる。そんなことをしたらすぐにタオルが温まるよなあ、と思いながらも、まあ相手がいいって言うならいいか、と思い直す。




