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息子が突然連れ帰った男を、『直樹』の両親は訝りながらも拒まなかった。轢いてはいないけれど、車がぶつかった可能性はある、そう『直樹』に説得されて、とりあえず一晩は様子を見ようということになった。
「滝、志郎さんとおっしゃいましたね?」
「はい、啓仁大学文学部です」
「あまり聞かない名前だな」
ほっといてくれ。
それは口の中で呑み込んで、俺はにっこり笑う。
『直樹』が手配してくれたおかげで夕食にもありつけたし、明るい和室で正座しているのはきついが、あの竹林の中で野宿することを思えば、微妙な里岡夫妻の視線も気にならない。ルトまで隣にあげさせてもらっているのだから、文句を言ってはいけないのだろう。
「御迷惑おかけしてすみません」
ぺこりと頭を下げると、じん、と足に痺れが走る。できればぼちぼち部屋に引き上げさせてほしいが、何が気になるのか、里岡は考え込んだ表情で俺を見つめている。
「なぜ京都に」
「人を探しておられるそうです」
『直樹』が、運んできた茶をそれぞれの前に並べながら口を挟む。
運転手が居るような家の子どもがそんなことをしなくても、と思ったが、里岡家は和扇子団扇商工組合の重鎮でもあって、代々京都扇子の生産を支えてきた旧家らしい。一人息子である『直樹』はその跡継ぎとして高校に通いながら仕事と礼儀作法を学んでいる、その一つとしての接客だと告げられる。
「人を…」
「朝倉、周一郎さん、ちょうど僕ぐらいの歳で……松尾橋から川に落ちたんだそうです」
「そうか」
「何か、そういう話を聞かれてませんか」
「いや」
里岡は微かに首を振った。
「申し訳ないが、私もずっとここに居るわけではないので」
「ここは直樹が使っているんですよ」
夫人がそっと付け加える。
「直樹、くんが?」
「僕は体が丈夫じゃなくて」
『直樹』が隣から無邪気に笑った。
「ちょっと長く歩いたり、うろうろしたりするとすぐに目眩がしたり寝込んだり。情けないですよね」
医者に見せてもどこがどうというのではなくて、精神的なものかもしれないとかも言われてるんですけど。
「それで高校もほとんど行けなくて」
「や、待て」
思わずぎょっとした。
そうだ、そう言えば、こいつ、サングラスをかけてない。
「もしかして、あの『直樹』くん、君、眼鏡とかコンタクトとか」
「え?」
『直樹』は瞬きしてきょとんとする。
「なぜ? ああ、少し眼は悪いんですけど」
でも生活に困るってほどじゃないんですよ。
「でもなぜそれを?」
「あ、いや、その、」
ひょっとして羞明があるのに気付いていないのか? もともと勘がよかったやつだから、視力がほとんどなくても生活できないってほどではないかもしれない、そう思って愕然とする。
ちょっと待て。
それはどういうことだ?
周一郎が『直樹』を演じているのなら、自分の体調や状態はわかっているはずだ。それと周囲に覚らせずに適度に振るまいつつ、体調を保つこともできるだろう。なのに、この『直樹』は本当に自分の状態がわかっていないように見える。本当に、自分が『里岡直樹』だと思っているように見える。
それとも、やっぱりこいつは、異常に周一郎によく似た『直樹』という男なのか?
「不思議だな、どうしてそんなことがわかるんだろう」
『直樹』は首を捻っている。
「僕、おかしなことしました?」
お父さん達だってあんまりそんなこと言わないのに、ねえ、と振り返られて、里岡が一瞬確かに顔を強ばらせた。
「な、直樹、今日は疲れたでしょう、先に休みなさい」
「え? 大丈夫ですよ」
うろたえたように夫人が口を挟むのに、『直樹』が軽く首を振る。
「それより、僕、もう少し滝さんのお話、聞きたいんですけど」
だって、僕と同じぐらいの人が川に落ちて行方不明だなんて、気になるでしょう?
『直樹』が心配そうに続けるのに、里岡がゆっくりと眉を寄せた。
「直樹」
「はい」
「もう下がりなさい」
「でも」
「明日はお前も出なくてはならないんだ」
「あ……はい」
「明日?」
「はい」
『直樹』が少し赤くなって嬉しそうに笑う。
「僕が正式に里岡の仕事を継いでいくことを組合のみなさんにお披露目するんです」
「……少し早いかと思ったが」
里岡が低い声で付け加える。
「伝統産業は周囲の注目もある、若い力を欲している。京都の扇子は新しい時代のアクセサリーとしても瑞々しい感性を必要としている」
「僕のデザイン感覚がいいんですって」
『直樹』が部屋の棚を指差した。
そこに飾られているのは羽根のように広げられた一本の扇子、淡い桜色の地に乱れる花びらと豊かに深い幹、そこを過る白銀の蝶の絵柄、艶やかで華やかで、それはもういなくなった少女を思わせるような色味で。
「あれは……」
「大本の図案があったのを急ぎ仕上げた」
里岡が立ち上がって扇子を取り上げ見せてくれる。受け取った『直樹』がくるりと翻してみせると、一瞬鮮やかな光が零れてどきりとした。裏は桜地に黒と金で花びらを描き込んである、その金が弾かれるように眼を射る。
「こうやって裏表翻すと面白いでしょう?」
「……ああ、綺麗だな」
扇をかざした『直樹』は里岡の側でごく自然に親子に見えた。
能力を生かす場と、温かな家族と、落ち着いた家と。
それは周一郎がおそらく心から望んだものだろう。
体調のことだって、これほど手厚く応対されているのなら、そのうちちゃんと治療を受けられるだろう。何よりも、俺の勘が何度叫ぼうとも、目の前の『直樹』は『直樹』であることを疑っていないように見える、望んでいるように見える。
もしかしたら。
俺は茶を啜りながら、顔をしかめた。
もしかしたら、『周一郎』は、本当に居なくなってしまうのかもしれない。
たとえ、目の前に居るのが本人だとしても、もう『朝倉周一郎』に戻る気はないのかもしれない。




