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「京都に?」
翌朝、いつもより少し遅く朝食を取っていた『周一郎』はさすがに驚いた顔になった。
「昨日帰ってきたばかりですよ?」
「それがさ」
清のところに忘れものしてきたみたいで。
俺はへたな言い訳を続けた。
「大学の資料本、ほら、持っていってた文庫本あったろ?」
「……そう、ですか」
やっぱりな。
『周一郎』は戸惑い、あやふやに頷く。
別にあれは特別な本じゃない。それどころか『持っていった本』でさえない。どこの駅にでも売っている最近の話題作というやつ、それこそ暇潰しにキオスクで買ったものに過ぎないけれど、それをこいつは知らない。
「仕方ないですね……でも、滝さんまでなぜ襲われたのかははっきりしてないんですから、無闇に動き回らないで下さいね」
「大丈夫だろ、向こうにお由宇も居るし」
「……佐野さんですか?」
「話してなかったっけ?」
「あっちで会われたんでしたね」
「ああ、なんで向こうに居たのかはっきり言わなかったけど、知り合いの家を別荘代わりにしてるとは言ってたろ?」
「ええ」
ほら、また引っ掛かったぞ、お前。
思わずそうからかいたくなって、慌ててコーヒーを呑んだ。
お由宇の話など周一郎にしていない。というか、周一郎が川に落ちた後に出会っているのだから話せるはずがない、なのにこいつは驚きもしない。
とすると、やっぱりいろんな情報は逐一こいつに伝えられてはいるけれど、凄く細かなこと、俺と周一郎の間のやりとりなんかは十分に掴んでないってことだ。
だから俺が狙われたんだな、と気付いた。
もちろん周一郎に罪悪感を負わせるという意図もあっただろうが、俺が一番、周一郎の違いに気付く可能性があった、だから消しておこうと思われたのだ。
「げ」
「は?」
「あ、いや」
待てよ、と喉に詰まりかけたトーストを無理矢理呑み込む。
ってことは、俺もあんまりうかうかしてられないってことじゃないのか? もし『周一郎』が俺の動きが不審だとか考え出したら、それこそ傍目外聞かまわずに始末されかなねいってことじゃないのか。
「清に…」
「ん?」
「清に連絡して送ってもらってはだめですか?」
『周一郎』が考え込んだ口調で尋ねてきて、また違和感に首を捻る。
だからさ。
ああいう事態になって、しかも清に複雑な思いを抱いている周一郎なら、絶対そんなことは言い出さないだろうに、なぜこいつもこいつを送り込んできた奴も、そういうところは見逃しているんだろう。ここまで完璧に『周一郎』をやれるんだから、きっと並々ならぬ努力をして練習してきたに違いないのに。
まるでこれじゃ、周一郎の上っ面しか見てないようなもの……。
そう考えてふいにすとんと納得した。
そうか。
こいつの振る舞いは世間が知っている『朝倉周一郎』そのものなんだ。
冷静で温和で物静かで苛立つこともなく穏やかで大人で切れ者で。
おそらくは周一郎が世間に向けて被っていた仮面そのままを演じている。
けれど、本当の周一郎っていうのは、いじっぱりで頑固で意固地で性格が悪くて皮肉屋で寂しがりで落ち込み系で、ついでに世間を舐めてて嘲笑ってて絶望してて、けれどそういうのを感じる自分も大嫌いなんだなんて、誰も知らないのだ。
周一郎がどれほど普通に平凡に暮らすことを望んでいて、小さなほっとする時間を探しまくっていたかも、誰も知らない。誰にも一度も見せていない。
だから、今こいつが演じているこのままが『朝倉周一郎』だと思われている、おそらくは、高野、にさえ。
だから、誰も気付かない、のか、こいつが『周一郎』じゃないってことに。
「ひでえ…」
「何?」
「あ、いや、こっちの、こと」
何だかひどく辛くて俺は残ったコーヒーを一気に飲み干した。
そんなのあんまりじゃないか。
こんな人形みたいな、こんな造りものみたいなやつが、周一郎だなんて思われているなんて。
誰かにそっくり入れ代わられちまってるのに、一番側に居るはずの高野まで気付いてやれないなんて。
それはつまり、誰も本当の周一郎のことなんか見てないってことじゃないのか。
あいつがどれほど苦しんでるか、誰もわかってないってことじゃないのか。
今も行方不明になっているままなのに誰も探してやらない、この状況と、そっくりそのままだったってことじゃないのか。
あんな思いまでして、大怪我して世界中を欺いて、周一郎が必死に守った居場所なのに。
その居場所で一緒に居た人間は、周一郎の願いも気持ちも気付いていない。
それでも僕にはここしかない。
呟いて冷たく背中を向ける姿が脳裏を掠めて胸が詰まる。
「もう出かけるんですか」
「うん、列車、予約したから」
じゃあ、俺は探してやらなくちゃいけないよな。見つからなくても、もっとひどいことを見つけてしまっても、俺は周一郎を探してやらなくちゃいけない。
でないと。
「あいつ、どこへも帰れなくなっちまう」
思わずつ呟いて、しまった、と顔をあげると、目の前の『周一郎』が凍りついた顔で俺を見つめている。
「あいつ…?」
「あ、ああ、その……文庫本をそう呼んでるんだ!」
「はい?」
「だから、文庫本を『あいつ』って」
「……あいつ……」
「そう、あいつ」
「………変わった趣味ですね」
「そ、そうか?」
ごまかせたか? ごまかせなかったよな?
ちらちら『周一郎』を見ると、相手はしばらく固い表情でこちらを見ていたが、やがてゆっくりと溜め息をついて、テーブルに置かれていた手紙の束に手を伸ばした。
「まあ、今さらあなたの趣味をどうこうしようという気はありませんが」
「は……はは……は……?」
引きつり笑いをしていた俺の視界に、ふいに『それ』が見えた。
『周一郎』の右耳たぶの後ろあたりに小さいけれどくっきりとした黒子がある。いつもはまっすぐ向いているし、髪の毛に隠されていて見えない場所だが、俺は何度か寝込んだ周一郎の面倒を見ているから覚えている。
周一郎は、珍しいほど黒子がほとんどない。特に顔から首筋にかけては、思春期の男にあるまじき滑らかな皮膚、陶器を思わせる白さで透けるのはあまり日差しを浴びないせいだろう。
前に宮田が、彼はあそこがいいよな敏感そうで、とにやにやしたのを殴ったこともあるからはっきり覚えている。
けれど、目の前の少年の皮膚にはくっきりと黒子が浮かんでいた。
状況証拠ではない物的証拠、というやつ。
それを見せつけられて、さすがに平静が保てる自信がなくなってきた。
こいつは周一郎じゃない。ならば本物の周一郎はどうしたんだ。
生きているなら、なぜ連絡を寄越さない。連絡を寄越せないような状態になっている、のか。たとえば、とっくにもう。
背中に氷を当てられたような気がして、慌てて席を立った。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
差し込んだ日射しの中で眩そうに目を細めた相手が、ほっとした顔で振り仰ぐ。
その、周一郎そっくりの、けれど決して周一郎がしないだろう表情に胸が痛んだ。




