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もし万が一、あいつが周一郎じゃなかったとしたら、本物の周一郎は何処に居る?
病院から出ていったのは確かに周一郎だった。欄干から仰け反るように落ちたのも。
なら。
脳裏に冷たい水の中に沈んでいる周一郎が浮かんで、思わずごっくん、とコーヒーを呑み込んだ。
もし、あの『周一郎』が偽者ならば、俺まであいつを見捨ててきちまったってことになるのか?
「ひえ!」
ふいにさわり、と足下に何かが擦りつけられて飛び上がった。
「にぃ」
「ルト!」
覗き込むとちょこんと座った青灰色の小猫は大きな目を少し細めて牙を剥いてみせた。
「た、ただいま」
報告しろよ、そう言われたような気がして、のそのそと床に座り込む。
テーブルを覆った白いクロスがちらちらするのが邪魔で、ルトを招いたけれどこちらへこない。むしろ少し奥に身を引いて、来いよ、と言いたげに顎をしゃくられ、四つ這いになってテーブルの下へ潜り込んだ。
「高野さんに見つかったら、また一体何をされてるんですかって言われるぜ」
「にゃ」
「どこに居たんだよ、お前……なんか毛並みががさがさしてるな」
胡座を組んだ膝の中へ入ってきて、ルトは耳を伏せて俺の掌に頭を擦り付ける。おお珍しい。撫でてくれと甘えてきているようだ。周一郎がいなかったから寂しかったのか、と抱え込んで頭を撫でていると、ふいに食堂のドアが開いた。
「誰か……っ!」
かぷ。
「うぉ」
急いでテーブルの下から出ようとした俺の指をルトが可愛らしく噛みつく。閃光爆裂、神経回路が一瞬真っ白になった気がした。
「なにをす…」
ぎりり。
痛い痛い痛いっ。
ルトがじろりと冷たい目で見上げてきて、口を閉じてから気付く。
「滝さん…?」
周一郎……?
「あ」
そうか、もし今入ってきたのが本物の周一郎なら、俺を探すことさえしないはず、まっすぐに回ってきてテーブルを覗き込み、何をやってるんですか、あなたは、と眉をしかめて言い捨てるはずだ、何せ周一郎はルトと視界を共有してるんだから。
わかった。確かめてみろって言ってるんだよな。
ルトは俺の指に食いついたまま、じっとこちらを見上げている。
「滝さん? 居ないんですか?」
休むと言ったはずだが、何か気になることがあったんだろうか。
『周一郎』はスリッパを鳴らしてゆっくりとテーブルを回ってくる。息を詰めてルトと睨み合っている俺の横を静かに通り過ぎ、もう一度戻ってきて、それから。
「……トイレかな」
低い呟きを漏らしてゆっくり戸口へ向かい、もう誰も部屋に居ないと思ったのだろう、もっと微かな声で唸った。
「あの間抜け、気付きやがったのか…?」
はい、間抜け、ここに居ますけど。
思わずそう言って飛び出したくなった俺に、ルトがゆっくり口を開いた。わかったよな、と言いたげに指をぺろんと舌で舐めてくる。
「……あいつだけ……おかしな目でみやがって……連絡つけた方がいいかな」
声は周一郎と全く違うイントネーションで呟いた。
「綾野さん……俺がミスったって言うかな」
綾野。
そう言ったよな、確かに。
ルトがまた目を細めて指を舐める。
「……だから俺にはわかんねえって言ったのに」
偽者、なんだ。この『周一郎』ってのは、完璧に替え玉なんだ。
緊張して俺は続いたことばを聞き取ろうと耳をすませた。
「……男同士もそういう関係ってのは、ごまかせねえもんかな」
戸惑った不安そうな声が続ける。
「最後まで……ヤんのかな」
はぁい?
「俺……我慢できっかな」
あいつしつこそうだし、きつそうだしな、と呟く相手にざわざわと鳥肌が立った。
ちょっと待った、そういう関係ってどういう関係だこら。
ぐちゃっ、と潰れた頭の中を必死に立て直しながら考える。
男同士って誰のことだ、ひょっとして俺と周一郎のことか。いや、そもそもその情報はどっから仕入れた、なんか根本的なとこが間違ってるぞ、わかってんのか。わかってないなら今ここで説明してやる、いや、是が非でもしてみたい。
そう体を起こそうとした俺の指を、ルトがしっかり噛み直す。
「い…っ」
「ちっ……やっかいなことになったぜ」
幸い俺の呻きは相手には聞こえなかったらしい、いまいましそうな舌打ち一つして、『周一郎』は部屋を出ていく。その足音が閉まった扉の向こうにゆっくりと消えていくのを待って、俺は唸った。
「ルトっ!」
「にゃん」
「にゃんじゃねえっ、お前人の指をするめか何かと間違えてんじゃないだろうなっ!」
「にゃご」
指を吐き出したルトがいかにもまずそうにべろっと舌をだし、横を向いてけほけほと咳き込んでみせる。
「人の指食っといてそれかっ、大体お前はなっっ!」
「……滝さま」
ふいにがばりとテーブルクロスが引き開けられ、俺は慌てて振り返った。
「……そこで何をなさってるんですか」
岩淵が奇妙な顔で覗き込んできて首を傾げる。ルトがひょいと俺の腕から体をくねらせて飛び出し、いかにも嫌々捕まってしました的に一目散に逃げていく。
残ったのはテーブル下で胡座を組んで、噛まれた指に涙目になっている俺一人。
尋ねられて仕方なく、俺はへらりと笑った。
「……ちょっとかくれんぼの練習を」
「かくれんぼ…」
「今度全日本大学対抗かくれんぼ大会地域予選があって」
「そんなものがあるんですか」
「……ないよな?」
「……聞き始めです」
で、一体何を、とそこは高野とそっくりにあくまで生真面目に聞いてくる岩淵に、のそのそとテーブル下から這い出す。
「さっきの鞄」
「はい?」
「そのままにしといてくれ」
「は?」
「明日……もう一度京都へ出かける」
「もう一度…?」
岩淵が不審そうに首を傾げた。
「周一郎さまもですか」
『どうぞ、滝さんは綺麗な女性と楽しんできて下さい。高野、一人分で手配しろ』
まるで遠い日になってしまったような出発のときの周一郎のことばを思い出してずきりとした。
あの時からきっと、周一郎は覚悟をしていたのだろうけど。
「いや、一人で。………ところで物は相談なんだけど」
バイト代の前借りは高野さんにおっしゃってくださいね。
心得た岩淵のことばに俺は引きつり笑いを返した。




