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「お帰りなさいませ!」
高野はきっとずいぶん長く、玄関で待っていたのだろう。俺達が門扉を開けて小道を進む間に、もうそこまで出迎えに来ていた。暮れ始めた春の日射しの淡さのせいもあったのだろうが、明らかにあやうげな足取りの周一郎を気づかったようだ。
「お疲れでしょう」
いそいそと荷物を受け取り、少し先を進む高野が、時々物問いたげに振り向いてくる。
俺と同じ違和感を感じたのかと声を低めて尋ねてみる。
「何だ?」
「いえ」
「何だよ」
「……あれほど、お願いいたします、と申し上げましたのに」
「う……すまん」
責めるような相手の視線に思わず謝る。
そうだ、そうだった、俺は一応周一郎の供として付いていったんだ。
「滝さんのせいじゃない」
周一郎が鋭く聞き付けて、高野をたしなめた。
「僕が不注意だったんだ」
「……申し訳ありません」
一瞬戸惑ったような顔になった高野が周一郎へとも俺へともわからぬ曖昧な仕草で頭を下げる。
「僕は……楽しかった」
顔を背けながら微かに呟いた周一郎が、そういう自分に照れたように足を速める。よかったですね、と言いたげに振り向いてくる高野に、俺は微妙に引きつった。
だからさ。
そういうことをあいつは言わないって。
「………高野さん、ルトは?」
「は?」
「いつもならまっ先に迎えに来てそうだけど」
そう言えば、と高野が周囲を見回す。
湖の方へ回る小道からも、屋敷の方からも駆けてくる青灰色の姿はない。
「さきほどまでは居たのですが……」
玄関のドアを開けた岩淵が慌ててスーツケースを受け取る。吐息をついて肩を落とす周一郎に、高野が影のように寄り添う。
「お食事はお部屋に運ばせます。お風呂は」
「食事も風呂もいい」
「ではお休みのお支度を……滝さまは」
「あ、俺、腹減ったから何かもらってくるよ」
「そうですか…じゃあ、すみませんが、僕は先に休みます」
「ああ、おつかれさん」
高野に付き添われ、のろのろと部屋に向かう周一郎を見送る。
「お荷物を」
「あ、頼む」
岩淵が俺の鞄を抱えながら食堂に案内してくれた。
「あまり整えておりませんが」
「うん、コーヒーとパンでいい……それより、ルトを見なかったか?」
「ルト、ですか」
岩淵が不思議そうな顔で眉を寄せ、そう言えば、このところあまり見ていませんね、と続けた。
「周一郎さまが御不在のときもお部屋に居ることが多いのですが」
「ふぅん」
どうぞ、と促されて、白地に緑で草花を描いたカップのコーヒーと一盛りの各種テーブルロール、バターとジャムを揃えられた席に腰を降ろす。もぐもぐ食べ始めた俺を残して、岩淵が夜の巡回の手配に出ていく。
整理しておこう、と思った。
綾野啓一という男は周一郎を恨んでる。
今回の『SENS』がらみの一件にわざわざ身内の清を巻き込んだ遣り口、しかも手駒である良紀の意味がなくなったとなるとあっさりと始末していっているような動きには、本当に容赦がない。
けれど、そういう手管や俺を狙ったことにはどんな意味があったのか。
周一郎を孤立させる意図はあったんだろうが、もし周一郎を殺したかったのなら、そんな面倒なことをしなくても京都に居る間にいくらでも機会があったはずだ。
清の世話になっている間には面倒を起こしたくなかった? まさか。そもそもそういう殊勝なことを考えたなら、わざわざ周一郎を京都に呼び出したりはしないはずだ。
それに、あの『周一郎』だ。
あれほど似ている人間が、それほどほいほい世の中に居るとは思えない。だから、あれは周一郎、そう考えるのが筋が通ってるはずだ。
朝倉家に『周一郎』は居る、いつものように、いつもの顔で。だから事件は何も起きていない、たとえ本物の周一郎がどこかに捨て去られていても。
「そうやって周一郎を心身ともに孤立させて追い詰めて、……自分から姿を消すようにし向けた……?」
つまり綾野は、周一郎の偽者をたてて朝倉家を乗っ取ろうとしている、そういうことか?
偽『周一郎』にはここでの豪勢な暮らしが手に入り、綾野は周一郎を苦しめることで妹の復讐ができ、同時に『SENS』がらみで危うくなった朝倉家を立て直すことを口実に事業を仕切る、絶好のチャンスになる。
それこそ世間一般には何の問題もなく。
まるで、この間、周一郎がやったことみたいだ。自業自得、そう言ってしまえばそうだろうけど。
ばくりと胡桃入りパンを噛んだ。しっかりした歯応えと胡桃の香りを味わいながら、いつかの朝食、めったに見せない周一郎の淡い微笑を思い出す。
『どこにそれだけ入るんですか』
『ブラックホールみたいに言わないでくれ』
『驚いてるんですよ』
『呆れてんだろ』
『………食事も楽しいものですね』
サングラスの向こうで細めた瞳の静けさ。
誰かと一緒に食べるのも、楽しいんだな。
聞こえるか聞こえないほどの小さな声で。
俯いた顔でわずかに綻んだ口元は、見ていなければわからなかっただろう。
「幸せなんかじゃ、なかったのに」
周一郎にとっては、この朝倉家も強制された居場所の一つ、ここでしか生きていけなくて、しかも望んでトップに就いたわけでもない。莫大な財産とか広大な屋敷とか通常手に入らない地位とか権力とか、人生で成功の証とされるものを次々受け取ったあいつの世界には、いつも血みどろのものしか残ってなくて。
幸せじゃなかったのだ。
それこそ、綾野が羨むようなものなんて、周一郎は何一つ得ていなかったのに。
窓辺に立ち竦む小さな姿。
大悟の墓標を叩く幼い仕草。
傷ついて痛みを堪えて一人耐えて眠れない夜に側に居たのはルトだけで。
それでも、それまであいつが生きてきた世界よりはまだずっと生きられる場所だっただけ。
綾野の妹が早くに死んだのだって、その後大吾が早々に若子を迎えたのだって、あいつの責任じゃない。
なのに、掌でそっと抱えるようにあいつが守っていたものまで奪い去れる、どんな権利が綾野にあった?
「……くそっ」
唸って苛立ってきた頭を無理矢理戻す。
今最大の問題はそういう人生論じゃない、と無理矢理頭を切り替えた。




