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「あの家は知り合いの家なのよ」
数日後、俺と周一郎が戻ると聞いて、お由宇は嵐山駅まで送りに来てくれた。
「ちょっとこっちですることがあって来てたの……清さんは来てないのね」
「ああ」
俺はホームの椅子にちょこんと座っている『周一郎』を横目に声を潜めた。
「いろいろあいつの仕事のものもあったから、荷物は取りに行かせてくれたんだけど」
俺の頭の傷は案じてくれた、無事に朝倉家へ戻れるように神仏に祈ってくれるとも言ってくれた。
けれど、『周一郎』に対しては終始頑なで、周一郎が何度か話し掛けても、丁寧だけどそっけない、失礼ではないけれど関わる気はない、そんな対応ばっかりで。
どうも清は、京子や良紀の事件に警察が碌に動かないことに苛立っていて、それは朝倉家が『何か』したのだろうと思っているらしい。
『人の真実言うのは、お金や力で動かせへんもんでっせ』
別れ際にぽつりと言われて、周一郎は一瞬怯み、
『いつか清も、僕が何も関わってないってわかってくれるよ』
小さな声で呟いた。
そうしてやっぱり俺は、周一郎ならきっとそんなことは弁解しないだろう、と思い。
真実。
その真実が、自分にとって惨いものでも、清はやっぱりそう言うんだろうか。
もし俺に見えている通りのものが真実ならば、清は、他でもない、自分の息子が、乳母として育てた子どもの命を狙い、大事にしてくれていた知人を殺し罪を被せたこと、また覚醒剤を流通させて多くの人間を苦しめているということ、を受け入れなくてはならない。
清自身も、息子を信じる余り、周一郎を自殺させるまで追い詰めたことを認めなくてはならない。
そんなことを本当に望んでるんだろうか。
……たぶん、それは望まない。
自分や自分の身内が汚れた手の持ち主だと受け入れることは、清の世界を壊してしまうから。
だからこそ周一郎は沈黙を守って身を引いたのだ、もう誰に信じてもらえなくても構わないと。そしておそらくは、それでもまだ大切な、かけがえのない人に、無用の苦しみを与えまいと。
「そうなんだよな」
「え?」
「周一郎、は黙り続ける、つもりだったはずなんだ」
お由宇が少し首を傾げる。
「なあ、お由宇?」
「何?」
「あいつ、『周一郎』に見えるか?」
「……どういうこと」
「見えるよなあ? どっからどう見ても、『朝倉周一郎』だよな? 他人の空似とかクローンとか、あいつそっくりのアンドロイドとかには見えないよな?」
お由宇はゆっくりと眉を寄せた。
「……つまり、あなたには『周一郎』に見えない、と?」
「お前にはそう見えるよな?」
「……ええ」
「だよな? やっぱりそうだよな?」
はぁ、と思わず溜め息をついた。
そうなんだ、誰が見ても『周一郎』に見える。清だってそう扱ったし、電話で迎えに来るの来ないのを打ち合わせていた高野も別に何も感じていなかったみたいだし、何よりここまで仕草や何かまでそっくりな人間なんていないんじゃないかと思う、思いはするのだが。
「なんだかなあ……」
ほら、今だって、と思わず考えちまう。
あいつはサングラスの後ろで、確かに眩そうに目を細めている。けれど、視線の先にあるのは日差しを浴びてきらきら光っているようにさえ見える桜で。
周一郎なら、あんなものを見ているだろうか。
一瞬、脳裏に朝倉家に居る周一郎を思い浮かべる。
そうだ、きっと周一郎なら、どれほど見事な桜でもどれほど心魅かれても、眩しそうに羨むように見た次の瞬間、静かに目を背けるだろう。生き生きと輝く桜にもう居なくなってしまった京子を重ねるから。この美しい世界から彼女を切り離してしまったのが自分だと改めて思い知るから。
きっとあんなふうに、ただ単純に美しいなあという顔では見ないだろう。
「見えてるもんだけじゃ、ないもんな」
周一郎の視界に入るのは、表面に見えている事柄だけじゃなくて、その事柄が成り立った意味込みだ。通常では見えないその世界、できれば見たくなかったものまでも、目の前に突き付けられ確認させられ、人の好意とか誠意とか優しさなんて全く信じられなくなってるのが周一郎なのに。
ああそうか、と気がついた。
二つの世界の境界に立って、どちらの世界にも属せずに、ただ一人引き裂かれる。
この前から俺が感じていたあの感覚をずっと抱えているのが周一郎なのだ。
だからこそ、気持ちを封じ感覚を封じ、人と深く関わる事を恐れて。
ふい、と急に『周一郎』が振り返り、じっとこちらを見てどきりとした。
「……何だ?」
「いえ、滝さんがいなくなったような気がしたから」
微かに目を細め、すぐにそういう自分に照れたように苦笑した。
「子どもみたいですね」
「……高野に迎えに来てもらった方がよかったな」
「いえ……もう嵐山へ電車で来る機会もないでしょう」
だからこれでいいんです、と続けたのは確かにやはり『周一郎』に見える、けど。
俺がいなくなったと不安がることができる、それを人に訴えられる、そんなことができるなら、あの橋の上であれほど虚ろな目はしなかったと思うのは考え過ぎなんだろうか。
「……凄く引っ掛かってるのね」
「うん」
「ある人間が確かにその人間であるかどうか、かなり難しい証明だわね」
「だよな」
「人間は何をもって個別認識されているか、ってことよね」
「……うん」
顔も姿も仕草も癖も、ことば遣いさえそっくりで、なのに、なぜ俺は『こいつ』は周一郎じゃない、と感じているのか。その拠り所となると、ことばにしてしまえば幻のような、僅かな僅かな反応の違いにしか過ぎないのに。
人は変わる。
周一郎が清や京子のことでいろいろ衝撃を受けて、少し甘え気味になったり人なつこくなったりすることはあるはずだ。事実、朝倉家の事件の前と後では、周一郎はずいぶん俺とは距離を縮めてきたのだから。
同じような変化が、本当のところは自殺かどうかわからない、あの一件で周一郎に起こらなかったとは言えないはずだ。死にかけた恐怖が周一郎を人に近づけた、そう考えればいいだけだ。
だけど。
「確実に見分ける方法なんてないしねえ」
「うん……」
確実に見分ける方法。ある人間を確かにその当人だと見極める方法。
くす、と唐突にお由宇が笑った。
「『秘密』があればね」
「は?」
「あなたと周一郎だけしか知らない秘密があれば、それで確かめられるでしょ」
「そんなもの…」
あるかよ、と言いかけて、俺は目を見開いた。
電車がゆっくり入ってくる。周一郎が立ち上がる。振り向いて俺を呼ぶ顔に上の空で頷き、お由宇に手を振って周一郎の側に駆け寄りながら、俺の頭の中を青灰色の小猫が尻尾をくねらせてすり抜けていく。
ある。
あるじゃないか、これ以上ないぐらい、とっておきの『秘密』ってやつが。
「滝さん、早く」
「わあった!」
この前の事件で全てを知っていたルトが、今度もただ一つの真実を教えてくれるかもしれない。
俺は速度を上げ出した心臓を『周一郎』に悟られまいとした。




