3
不安が募って手を伸ばしたとたん、急にドアが開いて転がるように清が入ってきた。
「滝さん!」
「あ」
「滝さん!! よろしおした、よろしおしたなあ!」
涙をぼろぼろ零してしがみついてくる老婆は周一郎を振り返りもしない。まるでそこには誰もいないかもように、いやそこに誰かはいるのだけれど、そこは見てはいけない場所のように、清は周一郎に伸ばした俺の手を搦めとるように引き寄せ、しがみついてきた。
椅子を立ってベッドの側を離れた周一郎が、すうっと影が吸い込まれるように開いたままのドアの方に後ずさりする。
「あんたはんまでどうにかなってしもてたら、私はもうどうしたらええんのか!」
「き、清、ちょっと」
ちょっと待ってくれ、あいつ、何だかおかしい。
何だろう、まるであいつの周囲だけ全ての音が聞こえないような。
まるでそこだけ世界から切り離されてしまったような。
幻のように輪郭ををぼやけさせながらドアを出ていく周一郎、それだけでも現実のこととは思えないのに、ドアから出る瞬間、こちらを見返した周一郎の瞳がまた微かに笑ってるようでぞっとした。
「周一郎?! 清さん、ごめんっ!」
「あ、滝さんっ!」
なおもすがりついてくる清を邪険だとは思ったがぐいと押し退けて、何とかベッドから滑りおりる。靴を履くとぐらっとしたのを一瞬堪え、すぐに部屋を飛び出した。
「周一郎っ? 周一郎っ!」
いない。
薄暗くなりつつある窓の外、廊下を照らした灯りは煌々としているのに、そのどこにも周一郎の姿がない。
「くそっ」
なぜ?
今出ていったばかりじゃないか。
不安が一気に募った。
「どこ行ったんだよ!」
どこに行けるんだよ。
ぞくぞくする何かが背中を這い上がるのを振り払い、廊下を走り受付を通り抜けかけて、周一郎が通らなかったか聞いたら、傘を渡された。
「?」
「その方ならさきほど外へ……雨が降ってきましたからどうぞ」
「あ、どもっ」
頭を下げて傘を開いて玄関から走り出す。
そこは松尾駅の近く、松尾橋の袂にある病院だった。救急で運び込まれたらしいが、受付もまさかこれほど元気なのが救急患者だとは思っていなかったのだろう、引き止められなかった。
「周一郎っ!」
清はここに来ている。あの家には戻れない。
「周一郎ーっ!」
清はここに来た。ここに周一郎はいられない。
「どこにいるっ!」
雨は次第に強くなってくる。暗さを増す世界に車のヘッドライトが五月蝿い。
誘われるように橋へ向かっていた。
橋を渡れば駅がある。一人でどこに行く気か知らないが、この急な雨では観光地のタクシーは捕まらないだろう。それでも、ここには居られない、そう虚ろな顔が教えていた、ならば、一体これからどこへ。
「周一………あっ!」
傘の波の中、橋の中ほどで一人歩く姿があった。
まるで雨など降っていないような淡々とした足取り、夢遊病者のそれにも似て、迷いがなさそうなのにどこか妙に頼りない。
あんなに濡れて。
慌てて目の前を遮った青い傘を押しやって駆けていく。
「周一郎っ!」
びく、と体を震わせて唐突に相手が止まった。
ほっとして一瞬速度を緩めた俺を、ゆっくりと振り返る。
真っ白な顔、真っ黒に瞳を隠すサングラス、濡れそぼった髪を鬱陶しそうにかきあげて、張りついたジャケットが細い肩をなお細く見せて。
滝さん。
唇が微かに動いた。戸惑ったように不思議そうな顔で首を傾げる。
その周一郎の後ろから、急ぎ足にやってきた男がどすんとぶつかった。よろめいた周一郎が橋の欄干にもたれかかる。銀色の金属製のそれは見えているより丈が低い。のしかかるような動きでそのままふわりと川面を見下ろす周一郎の顔が、一瞬、何かとてもいいものを見つけたように嬉しそうに綻んで、俺は息が止まった。
「周一郎っ!」
待てよ。
何をする気だ。
何をそんなに嬉しそうに。
「こら、ああっ!」
手にした傘を振り捨てて地面を蹴る、手を伸ばして必死に走り寄る、傘を押し退け人を掻き分けて。
けれど、その指先からわずか数十センチ先で、周一郎の体がまるで水底からの見えない何かに引きずり込まれたように欄干を越え、暗い水面めがけて滑り落ちていく。
瞬間、外れかけたサングラスの向こうから、闇のような目が見返してきた。黒い水のような、虚ろで遠い瞳が安堵したように切なく揺れて、次には諦めたような微笑みに閉じられる。
これでいい。
白い唇がそう動くのがはっきりと見えた。
重い水音が車の騒音を越えて響き渡る。
「人が落ちたぞっ!」
「おいっ、誰か警察っ!」
「周一…っ!」
見えない砂に足下を攫われたように力が抜ける。
「く、そ…っ」
悔しいとも悲しいとも言えない気持ちに視界が滲む。助けなくちゃ、そう思っているのに立ち上がれない。慌ただしく走り回る周囲、遠くから聞こえるサイレンの音、脳裏に高野や清、京子の顔がぐるぐる回る。
届かなかった。
もう少しだったのに。ほとんど届きかけていたのに。ほんのわずか遅れたから。自分の直感を、おかしい、そう感じたのを、ほんの一瞬信じなかったから。
ふいに、座り込んでしまった俺の肩にぽん、と何かが当たった。
「……?」
見上げると青い傘が視界を覆った。ついで、白く月のように光る顔。
「志郎?」
「……お由宇…」
「どうしたの? 何があったの?」
「周一郎が……周一郎が」
消えちまった、そう吐いた瞬間に吹き上がってきた涙に俺はお由宇にすがりついた。




