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「別に、わかってほしかったわけじゃない」
「あ、うん」
「僕はわかってほしかったわけじゃない」
「そうか」
「別にあなたにわかってほしかったわけじゃないんです」
「う、うん」
おい、何をむきになって。
「あなたがわかろうとわかるまいと」
「あ、あのな、もう十分わかったから」
「何をわかったって言うんだ」
「いや、だから、お前が別にわかってほしかったわけじゃないってよくわかったから」
「わかってない」
「いや、だからお前はわかってほしくないってわかったって」
「わかってほしくないってわかってもらっても、そんなの全然わかってな……っ」
「は?」
ふいに周一郎が一気に真っ赤になって口を噤んだ。
あれ?
何か今、ニュアンス変じゃなかったか?
「なあ、周一郎?」
「ちっ」
おお、珍しい、舌打ちなんかしやがったぞ、こいつ。
「とにかく……あなたには関係ないことです」
むっとしたように眉をしかめてパソコンに向き直る。
「僕は忙しいんですから、黙ってて下さい」
「………清、にも?」
「………そう、です」
こちらを向かないままぼそりとつぶやく。
「……あのままじゃ、誤解されたままだぞ?」
「……構いません……それに」
く、と低い笑い声を漏らした。
「今さら信じてもらおうなんて思ってやしません。っていうか、信じてもらってもいなかったようですが」
冷笑。
僕もずいぶん甘かった。
吐き捨てた。
「だから、こんなところに突っ込まれる。事実、僕が関わってたかもしれないんだし」
「けど」
けど、お前が清に向けてた気持ちはどうなるんだよ。
「肝心のことはしゃべらねえのな」
「話しても無駄です」
「そうやって何も話さない気かよ」
「僕に無駄な時間は必要ありません」
「俺と話してんのも?」
「………」
「………そんなことしてたら、回りに誰もいなくなっちまうぞ?」
びく、と周一郎が動きを止めた。パソコンから視線を上げて俺を見返す。
「………どうぞ」
低い声で静かに呟いた。
「出て行きたいなら勝手に出て行って下さい。僕にあなたを、止める権利は、ない」
「いや、権利とかじゃなくて」
「何です」
「俺が出ていったら、お前は悲しいか?」
「……」
「寂しかったりするか?」
「………悲しいわけも、寂しいわけも、ないでしょう」
周一郎はのろのろとパソコンの操作を再開した。
「元から、いなかったと………思えばいい」
一瞬唇を噛む仕草が幼くて、その脳裏に誰が過ったのか透けて見えた気がした。
なんだ、やっぱり。
やっぱり、清に信用されてなかったのが辛かったんじゃないか。
「………ああ」
ふい、と何かを思い出すように、視線を上げた。
「出て行くときにはバイト料の精算をさせますから、ちゃんと早めに伝えて下さい。今日言われて明日というのも困ります、最低でも一週間前とか…………一ヶ月前とか…………」
そのまま少しぼんやりした顔で遠くを見ている。
「………滝さん」
「ん?」
「……………もう、出て行きますか」
静かな柔らかな声で尋ねてきた。こちらを見ずに明後日の方向を向いたまま、
「………今聞いておけば、京都から戻ればすぐに出ていけますよ?」
「あのな」
それほど人を追い出したいのかよ、と続けかけて、相手がじっと答えを待っているのに気づいた。パソコンに触れた指が止まっている。
「まだ………出ていかねえ」
何だかその沈黙に気持ちを呑み込まれたような気がして、思わず言い返した。
そうだ出ていくわけにはいかない。
満身創痍のこいつを放り出せるわけがない。
今俺にも少し見えている、こいつが生きている世界が。
唐突に思い出したのは廻元に尋ねられた岩の話だ。
俺は今きっと崩れた欠片を積んで、ようやく岩の向こうを覗いてみたところなんだろう。
そうして見えた世界は実のところこちらの世界と全く違っているように見えたのに、よく見ると鏡映しのようにいろんなものがそっくりに置かれている。花園があり、泉があり、美しい建物がある。
けれどその花園はこちらの世界で見るように「花がある」というのではなく、その茎や葉や、そこに居る羽虫や幼虫も見える。泉は湧き出してくる場所で砂が舞い上がっているとか、その上を泳ぎ過ぎる魚が流れに巻き込まれてうろたえるのも見える。建物は施された細工がどのように作られたのか、その作業がわかる、職人が仕事をしているからだ。
いろいろなものがその現在だけではなく過去と未来をそこに凝縮させていて、確かに美しい、けれどあまりの情報量に頭も感覚もついていかない。
ただ一つわかっているのは、その光景が何だと断じられないことで。
咲いている花を蝕む昆虫、どちらも命だ。吹き出す水に叩きつけられて傷つく魚、どちらも正しい。建物はどれもまだ未完成だが職人の生き甲斐を提供しているとも言える。
意味は一つじゃない。
片方だけしか見えなければ選択にも責任にも怯まなくて済むが、その両方の世界を突きつけられるということは。
二つの世界を同時に抱えるということは。
周一郎が沈黙するしかないのがわかる。
だからこいつはその狭間で否応なしに引き裂かれてて、自分を閉じるしか身を守る術がない。
けれど、それではもう堪えきれないほど、傷ついていて。
部屋で額に載せてやったタオル。
あれはこっちの世界を封じるってことだったんだなあ。
いや『羞明』そのものが、かけているサングラスが、周一郎を世界から少し隔てて守っているってことか。
じゃあ、俺の役割は?
俺は何ができるんだろう?
坂を造って、二つの世界を行き来できるようにさせてやると、どうなるんだろう?
額に載せてやったタオルみたいに、片方の世界を閉じてしまっても生きていける、そう教えてやることだろうか。
ならば周一郎はそのとき、どちらの世界を閉じるんだろう。
二つ抱え切れないとしたら、俺ならどちらの世界を選ぶんだろう。
「滝さん…?」
促すようにやっぱりこちらを向かないまま、尋ねてきた声に我に返った。
そうだとにかく今は。
「行くとこもないし」
「そう、ですね」
まるで壊れた人形が唐突に直ったように、周一郎はまた忙しく指を動かし始め、小さく吐息をついた。




