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『信じていた坊っちゃん』に裏切られたと嘆く清と、『好きになりかけた男』が肉親を死に追いやったと落ち込む京子を廻元に任せて、俺は二階へ上がった。
見せられている世界と、見えてくる世界のギャップが大きすぎて、かなりきつい。
俺でさえそうなら、俺より鋭いあいつの胸に刺さったものは、どれほど太い杭だろう。
「周一郎?」
「何ですか」
やっぱり、休むつもりなんてなかったのか。
携帯とノートパソコンを忙しく操作している相手を痛々しく見下ろした。いつもより固く強ばった表情は下で見せたほど冷たく見えない。むしろ、追い詰められて必死に道を探そうとしているようだ。
当たり前だよな。
あんなに大事にしていた相手にあっさり切られて。それを弁解もできなくて。その迷いさえ見せられなくて。
ことばも気持ちも何もかも封じられて。
こいつに今一体何が残ってる?
何を信じることができる?
まるで全身切り刻まれて、それでも無理に走っているようだ。
押し入れを引き開けてさっさと布団を敷き延べる。一段落ついたあたりで振り返って声をかけた。
「周一郎」
「だから、何です」
「布団敷けたぞ」
「だから?」
「休むんだろ、寝ろ」
「……」
あなたは馬鹿ですか、とこれはことばに出されなくても呆れ顔でよくわかった。
「何かわかったのか?」
「……いえ」
瞳を伏せて苛立たしそうに別の番号を当たる。だが状況は芳しくないらしい。疲れた顔で通話を切る。
「良紀さんが死んだのは確かですね。状況も京子さんが言った通りだ」
「そんなところから確認したのか?」
「いろいろと伝手がありますから……それに公的発表というのは操作しやすい」
嘲笑するような冷ややかな瞳で見返した。
だが、俺の凝視にすぐに視線を逸らせて、
「『SENS』の情報も確かだ……けれど、わからない、いつこっちのルートを利用されていた……?」
独り言のように呟く顔は険しい。すぐ再びパソコンに向き直り、素早く指を走らせて画面を開いていく。どれほどガキんちょに見えようと、こいつが事実上朝倉財閥のトップなのは揺るぎない事実、それを見せつけるように次々と手配を進めていく。
「日常交易じゃない、だが確かに『SENS』のルートには僕の名前が流れている……『トップ・トランス』のチェックには引っ掛かっていない……フランス側で細工されたか?」
低い声に、珍しく苛立った気配があった。
『トップ・トランス』は周一郎が動かしてる貿易会社の一つだったはずだ。高野は今回はそこがメインで啓一とやりとりしていると聞いた。周一郎のことだ、自分や朝倉家に対する備えは十分にしてきているだろう。だが、今回のように、まさか啓一が自分の身内を使って仕掛けてくるとは思っていなかったのかもしれない。
普段の周一郎からすれば十分に甘い備え。
きっと清、ゆえに。
「……なあ」
「はい」
「お前は本当に関わってないんだな?」
きっとした気配で周一郎は振り返った。
「『SENS』に手を出すなら、僕ならもっとちゃんと手を打ちます」
「そういう問題じゃないだろ」
おかしな文句を言った相手に苦笑し、ちょっと覇気が戻った気配にほっとした。
こういうところが微妙にずれてんだよな、こいつは。
「………僕は薬には手を出しませんよ」
ふ、と気を抜いたような息をついて、周一郎が呟いた。うっとうしそうに肩を竦めながら、
「確かに効果的な集金システムではありますが、リスクが大きすぎる」
さらりと言い放った。
「薬剤依存というのは、考えられてるより簡単に人間を壊すんです。始めは売り捌くだけに関わっていても、遅かれ早かれ末端の人間が侵される…………人間は弱い生き物だから、苦痛をすぐに取り除いてくれるものが間近にあって手を出さないのは至難の技だ」
サングラスの向こうの目は感情が読めない。
連絡が戻ってきたのだろう、かかってきた携帯に応じ、パソコンで確認し、次の連絡先にあたり、指示を与え、小さく溜め息をついて話を続ける。
「そうやって薬に侵された人間が組織に益になるか? とんでもない、害にしかなりませんよ。どんな些細なストレスにも薬に手を出すようになって、しかも回復に時間がかかる。切り捨てても薬のためなら平気で裏切るし何でもやる……どれだけ叩き潰してもどこからか噛みついてくる」
十八にしてはひやりとした冷たい目で俺を見返した。
「欲望で暴走する人間を制御するほど、つまらなくて意味のない仕事はない」
あっさり言ってくれる。つまらなくて意味がない、と来た。
俺が怯んだのを察したのだろう、目を逸らせて、
「……わかるとは思ってません」
掠れた声で吐いた。
ふいに机に向かって正座しながらパソコンを操る姿が、ひどく小さく脆く見えた。
こいつは俺の知らないことをいっぱい知ってて、俺の見てないものをいっぱい見てて、そうやって理解した世界ってのはきっと、さっきみたいに追い詰められて身動き取れなくなるようなものばかりだったんだろう。
そういう世界で生きてきたのに、今さら人の感情なんて求められても、そんなものどこにも持ってない。なのに、それが欠けてるとまた責められて。
一体どう生きればいい?
ことばにならないものが、周一郎の中に吹き荒れている。
「すまん」
「……え?」
「わからなくて、すまん」
振り返った周一郎が不安そうに瞬きする。
「なぜ……」
「うん?」
「なぜ、あなたが謝るんです?」
「いや、何だか……お前がわかってほしかったろうに、わからなくて悪かったなあ、と」
「っ」
ふいに周一郎が見る見る赤くなって、今度はこっちが呆気に取られた。




