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「『SENS』というらしい」
廻元が苦々しい声で口を挟んだ。
「ヨーロッパの若者に急速に広まった薬の一つで、日本経由で広がっていると監視されていたらしいぞ。大体、その『SENS』という呼び名も日本の『扇』が密輸の際に使われているという符丁だということでな」
「ふちょう?」
きょとんとする俺に、
「売買の暗号だ。扇が見たい、そう言えば注文したことになるらしい」
廻元は重苦しい溜め息を吐いた。
「金を払うと扇が届けられる。その扇に描かれた絵の塗料に『SENS』が含まれてて、破いて燃やすと簡易に吸入用ドラッグとして作用するらしい。向こうでは手軽でしゃれた薬と評判だったそうだ」
「坊っちゃん」
清が滲んだ涙をそっと押さえて俯いた。
「お仕事のことはようわかりまへん。そやけど……」
切なく震えた声が訴える。
「小さいころの坊っちゃんは、こんなことに手を染めるようなお子やあらへんどしたやろ?……」
よせ。
「啓一はようおす、けど、京子ちゃんや良紀さんまで巻き込んで、それほどお商売が大事どすか」
もうやめろ。
あんたはそうやって『正しい世界』から、こいつの世界を踏みにじっているんだぞ。
「清っ」
思わず腰を浮かせてしまった。
「さっきからなんですのん!」
俯いた清が聞いたことのないきつい声で遮った。
「悲しい、言うてますのんや、私が大事にお育てした坊っちゃんが、人の情とか真実とか、そんなもん気にもせえへんで、お商売のことばっかり考えるような人になってしもたのが、悲しい言うてますのん!」
「ちが…」
「何が違いますのん! 娘のことかて子供がなかったから坊っちゃんを引き取らはったのやと我慢したんどっせ! きっといつか娘の気持ちも伝わって、坊っちゃんもなじんでくれはるやろうて! どんなねじ曲がった子供でも精一杯尽くせば通じるはず、おてんとさんは見たはるさかい、て、言うて聞かせましたんやで!」
「きよ…」
ちょっと待ってくれ。
今あんたはとんでもないことを言ってるんだぞ?
あの家の中で、誰も信じられなかった周一郎が間違っていたって。それは周一郎が『ねじ曲がっていた』せいで、周囲の人間に落ち度はない、つまりは周一郎こそが厄介の元凶だったって。
けれど、こいつは。
あんたを、信じて。
世界でたった一人、あんたを信じて、ここまできて。
あんただけは大丈夫だと、今の今までそう思ってたはずで。
「いいんですよ、滝さん」
穏やかな声が響いて周一郎を振り返りぎょっとする。
笑っていた。
微かだが、明らかに笑みとわかる形に唇を釣り上げたまま、周一郎がすっと席を立つ。
「馬鹿馬鹿しい」
嘲笑。
おそらくは、清を信じた自分への。
「……何がおかしいん」
その笑みを見とがめた京子が噛みつく。
「人一人死んだのに、何がおかしいんや!」
「今何を言っても信じないでしょう? ………僕には関係ないことだ」
冷ややかに吐き捨てて周一郎は向きを変えた。背中越しに冷え冷えとした声が響く。
「誰が死のうと生きようと」
「…坊っちゃん!」
清が悲鳴のように叫んだ。
「情けのおすえ! 昔のお優しい坊っちゃんはどこに行ってしまわはったん!!」
そのまま立ち去ろうとした周一郎がぴくりと動きを止める。
「そんなにお金が大事どすか! そんなにお商売が大切どすか! 人の命はどうでもええんどすか!」
「………僕がどこに行ったかって?」
僅かに見せた横顔が歪む。
「ずっと、ここに居ますよ」
振り返って凍りついた顔で繰り返した。
「あなたの望む形じゃないだけだ」
動かない表情、けれどその背後に真っ暗な穴のような孤独。
ルトを連れてこなかった。
ふいにその意味に気づいた。
ひょっとして。
お前はひょっとして、騙されたままでいるつもりで。
ルトが居れば、この清の気持ちの裏側は筒抜けになっていたはずだ、もっと早く、もっとはっきり。
けれどそれを見ないつもりで。
なのに、こんな形で。
「周一郎…」
「ちょっと休んできます。連絡があったら呼んで下さい」
「坊っちゃん!」
くるりと身を翻して、周一郎は部屋を出ていった。




