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その日の夜。
「……おにいちゃんの持ってた手帳に」
清の家で、真っ青になっている京子と清、それに腕組みをしている廻元と俺達は、重苦しい空気の中で向かい合っていた。
京子の話してくれていた「父親の仕事先の人」というのが清だったというあたり、それを知らされた瞬間、周一郎は真っ白な顔になって俺を見た。
滝さん、僕は。
掠れた声で呟いたのを恥じるように、その後は一言も口を開かなくなってしまったが。
「『朝倉周一郎氏注文、特別誂えの扇』てメモがあったそうです」
滲みかけた涙をこらえるように一旦口を噤み、京子は周一郎を睨みつけた。
「警察の人が、おにいちゃんは……覚醒剤の密輸に関わってて、こっそり持ち込もうとしたのを空港で見つかりかけて、慌てて逃げようとして逃げ切れなくて、飛び下り自殺したって」
「……」
周一郎は無表情に京子を見返した。
「今少しずつ調べています、言うてはったけど」
京子はきゅ、と唇を引き締めた。
「うち、ここでどうしても聞いときたい。おにいちゃんに『特別誂えの扇』をフランスから運んでくるように指示したの、周一郎さんなんですか」
「え、いや」
「滝さん」
それは違うぞ、こいつはむしろ巻き込まれた方で、と言いかけて、寸前で周一郎に制された。
「や、だって」
「黙っててくれませんか」
冷ややかに封じられて振り向き、相手の瞳が一瞬ちらりと清に動いたのにはっとした。
そうか。
周一郎をここへ呼びつけたのも、扇の受け取りを命じたのも、綾野啓一だ。当たり前に考えれば、啓一が密輸に関わった可能性の方が高い。
だが、その啓一は清の実の息子でもある。周一郎が大事に守ろうとしている優しい乳母の大切な子供、だ。
清が京子を大事にしているのは一目瞭然、真実と誠実を守って生きているのも歴然、けれどその子供の綾野啓一は周一郎の居場所を虎視眈々と狙っている。
そのことについて清が何もこだわりがなかったのか、俺は今まで気にしていなかったけれど、周一郎は意識していただろう。だからこそ、京都へ来ることが罠かもしれないとわかっていても、自分を大切にしてくれていた乳母が変心していないか、確認に来ずにはいられなかったのだ。
清は変わらず周一郎を迎えた。周一郎は自分の好きなものが整えられた食卓や清の応対に安堵した。
安堵していた、のだ。
けれど、この、展開。
告げるな、と周一郎は言っているのだ。自分の息子が、大切に育てた相手を追い落とすようなことをしているのだと知らせるな、と。
それは清の中にある誠実を崩壊させる。自分が手塩にかけた子供達がそれぞれに社会の裏に生きていたと言うことを知らないままに生きている、この穏やかな人の世界を突き崩してしまう。
「けど」
「あなたに関係ないことでしょう」
殺されても構わない、そこまでの信頼を傾けた相手だからこそ、知らせたくないものもある。
確かに、そうだが。
でも、だって。
それじゃお前はどうなるんだ。
口を尖らせた俺から突き放すように視線を外して、周一郎は再び京子に向き直った。
「もし、そうだとしたら?」
「うち………」
くしゃくしゃと顔を歪めて京子が俯く。
「周一郎さんを許せへんかもしれへん」
「坊っちゃん」
さっきから思い詰めた顔でじっと体を固めていた清が、堪えかねたようにぽつりと言った。
「何か、隠してはることおへんか」
微かに周一郎の体が揺れる。
「ないよ」
「ほんまに?」
「……ああ」
周一郎の表情は動かない。まるで他人事のように静かな応対、それに京子が苛立ったように顔を上げる。
「ほな、なんでおにいちゃんの手帳に周一郎さんの名前があったん? おにいちゃんがフランスで、啓一さんとこで働いてるなんて知らんかったけど、それでも元気でやってるて………」
う、と堪えかねたようにぼろぼろと京子が涙を落とす。
「何か知ってんのやったら教えて。おにいちゃん、覚醒剤の密輸なんか、する人やない、もん。きっと何か理由があって、何か間違ってて…………おにいちゃん知らんかって巻き込まれたんや」
「…………良紀さんも京子ちゃんも、いい子ですのんえ」
清が辛そうに呟いた。じっと周一郎を見つめる目が潤んでいる。
「こんな年寄りのこと、いつも気にかけてくれたはって……」
一途な視線は息子を疑わない。良紀を疑わない。
自分の世界の清廉さを疑わない。
けれど、それは同時に悲劇の原因を他に求めることでもある。
「……」
続く清のことばを察したように、周一郎は黙っている。
「坊っちゃん。何か知ったはるんやないですか?」
「………」
「なんで、良紀さんの手帳に坊っちゃんの名前がありましたん? 啓一は坊っちゃんが扇を注文しはった、言うてましたえ。フランスで新しいデザインを考えたのを見てもらうことになった、言うて…………ひょっとして、その扇て、まっとうなもんやなかったんどすか?」
「………」
「坊っちゃんは何をしたはったんどす」
思い詰めた声が響いた。
「道子のことかて…」
言いかけて口を閉じた清に、周一郎が緩やかに目を伏せる。
「あの子、優しい子でした……確かに坊っちゃんのことはようお世話せえへんかったけど」
道子、というのは前妻、啓一の妹か。
「坊っちゃんにかて非があったん違いますの」
おい。
思わず呆気に取られる。
なんだよ、それは。
「……坊っちゃんのこと、血が繋がってへんけど大事にしてました。そやけど坊っちゃんは打ち解けてくれへんかった、人を見下したように見るばかり、妙な子供で気持ち悪い、母親の私にはそう言うてくれましたけど、坊っちゃんにはちゃんと、そういうことは見せへんかったはずです」
大事に。
それを大事にしていた、と言うのか?
そんなもの、周一郎には筒抜けだったはずだ。
「清…さん」
「なんですの」
まっすぐに見返す老女の目に揺らぎや不安はこれっぽっちもない。自分が今どれほど酷いことを口にしたのか、一切わかっていない顔。自分の信じている世界こそが真実であると疑わない目。
その目の一途さにことばが出なくなる。
気づかない、ということはこういうことなのか?
あの屋敷の中でずたずたに傷ついていた周一郎の傷みも苦しみも、清にはちゃんと見えていなかった。その中でどれほど周一郎が清を求めてすがっていたか、全く気づいていなかったということになる。
そして、その「まっとうな世界」の仕組みから見れば、今回のことも周一郎が『特別誂えの扇』を求めたのに啓一が応じて、それを届けに来たのが三条良紀、しかもその扇は覚醒剤の密輸に使われてたってことになるのか?
「それ、って」
「……」
ぎら、と殺気を浮かべて周一郎が俺を睨んだ。
浮かんだ絶望に俺は胸が苦しくなる。




