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「あれだけ深い目をしておって、あれだけ世の中を拒んでる人間が、お前のような『他人』を側に置くというのはたいしたことだぞ」
ふいに半眼になっていた廻元がつぶやいた。
「?」
何が言いたいのだろうと見返すと、
「なあ、おい、ここに一日一欠片だけ崩れる非常に堅い岩があるとする。他の如何なる力でも崩れぬ」
「はぁ」
なんだ、いきなり?
「その岩は道に立ち塞がっておる。だが、その向こうには花畑があるかもしれん。清水溢れる泉があるかもしれん。豊かな森があるかもしれん。だが、岩で隠れて何も見えん」
「はあ」
それはどきどき心理テストか何かか? 何があるか言ってみると、あなたの隠された性格がわかるとか? 将来の運勢がわかるとか? ………いやだな、それは。
「ただ、その向こうから時々風に乗って、よい薫りと美しい鳥の声と清冽な水音がする。お前はその岩を越えたい。どうする?」
越えたいのか。
「……どうしても?」
「どうしても」
うーむ、どうしても越えなくちゃならないのか。首をひねりつつ考える、とするとこれは結婚運とか?
「………じゃあ……待つ……かな」
いやもっと積極的に攻めなくちゃだめだろう、と自分で突っ込みつつも、それしか思いつかずに応えた。
「ふむ。長いぞ?」
長い。
彼女さえできていない現状では確かに長い。
「でも、一日に一欠片は崩れるんですよね?」
俺は想像した。岩だらけの谷。向うには楽園がある。一日一欠片、岩が崩れていく。
「いつかは全部崩れますよね?」
人の思いはらくだを針の穴に通すとか言わなかったか?
「さあなあ」
「……わかんないのか……」
崩れない可能性まである……ますます彼女運っぽい。
「わからん」
「……じゃあ……うーん……やっぱり待つ、かな」
俺だけの問題じゃないし、と唸る。
「あるかどうかわからない可能性を待つのか」
「いや、そうじゃなくて」
俺は想像の中で崩れた岩を手に取る。まだまだ岩は聳えたち、いつ崩れるかはわからない。
けれど人の気持ちなのだ、俺にどうこうできるはずもない。
俺にできるのは大事にして、丁寧に扱って、大切に受け取ってやることぐらい。
「えーと、その崩れた岩を、岩の根元に並べて積んでいきます」
「ほう?」
「でもって、俺もこっちで畑作ったり水確保したりして、別のところから石とか運んで……」
地道に毎日暮らしていけば、いつか実がなり花が咲く…ってのは演歌だったか。
「で、そうやって待ちながら崩れた岩とかで少しずつ坂を作って、岩の頂上まで上ります」
その頂上に別のやつが待ってるってのはすごくよくあるパターンだが。
正直何度もあったパターンなんだが。
「ふむ………そして向こう側に飛びおりるのか」
頂上。向こうが見えないんだからかなり高いはずだ。飛び降りたら絶対足ぐらい挫きそうだ。
「いや、また一欠片ずつ崩れた岩を今度は向こうに落として積んでいって………そうやって崩れてくうちにこっちの坂も低くてよくなるから、その分の岩も落として、向こうにも坂を作って」
うんうん、いい感じだぞ。
俺は頭の中の坂道を行ったり来たりしてみる。
そうだよな、別のやつが居るにしても、ひょっとしたら何かの時に俺の良さが伝わるかもしれないし。
いつかは安心して俺とつきあってくれるかもしれないし。
俺に笑ってくれるかもしれないし。
俺の側でも眠るかもしれないし。
気持ちを緩めて心を預けて、一番着気に入った場所のように寄り添ってくるかもしれないし。
「で?」
「向こうにいるあいつにこっちも見てみろって言ってみます」
ぽおんと口からそう言ってしまって、あれ、と首を傾げた。
彼女の話だよな?
周一郎の話じゃなかったよな?
「向こうにあいつがいるんでしたっけ? いや、これってあいつの話でしたっけ?」
「……おかしなやつだな」
くつくつと廻元は笑った。
「何にもわかっておらんのに、肝心のところは一つも外さぬかよ」
「は?」
「なぜ飛びおりん?」
廻元は妙に真剣な眼になった。
「え?」
「岩を越えるのだから、飛びおりれば簡単だろうが」
「や、でも」
俺はんー、と想像の目を再び上げた。
「俺には俺の作ったものとか場所があるし」
だって、俺の世界はこっち、だもんな?
「飛び下りたら、今度は上るのにまた大変だし、怪我するかもしれないし。向こうは楽園なんだろうけど、それでもどっちか片方しかなくなるよりは、どっちも行き来出来た方が楽しいだろうし」
世界が二倍に広がるってことだ。
「ひょっとしたら向こうに珍しい花の種とかあって、それをこっちに持ってこれるかもしれないし。こっちの畑で作ったものが、向こうだともっとよく育つかもしれないし」
うん、そっちの方が絶対楽しい。
「……境に岩があっても構わぬということか」
「えーと、そうですね、構わない、な。それに」
俺は行き来している自分を見ながら、ふと最近中高生の頃より筋肉は衰えてきたよな、と思った。
「……やっぱり適度な坂とかあって行き来したほうが足腰衰えなくていいかなーとも」
「ぶわっはっは」
いきなり廻元が吹き出した。
「いや、これはたまらん」
「はぁ?」
「さすが、ああいう人間にくっつくやつだ、並み大抵ではなかったな。足腰衰えなくていいか、なるほど」
げらげら笑われてさすがにむかっとする。
「なんだよ、一体」
「………百年かかったらどうする」
「へ?」
ぴたりと笑い止んだ相手がじっとこちらを見返す。
「その岩を越えるのに百年かかったら」
「う……や、もうそれは」
仕方ないだろう。それだけこっちの能力がなかったってことだしなあ、とぼやくと、廻元は優しい目をした。
「一生ものだぞ?」
「……ですね……まあ、そうなったら、百二十ぐらいまで生きるように頑張るかなあ」
そしたら、二十年ぐらいは楽しい思いができるかもしれない。
そう言いかけたとたんに、相手がまた吹き出して俺は口を噤んだ。
「………なんなんだよ、あんたは」
「いや、すまんすまん、わはははは、ひさしぶりに面白いなあ」
「俺は面白くない……」
「……はい……お茶」
眉を顰めたあたりで、京子がお茶を運んで戻ってきた。
「どうしやはったん? ……おじさんと仲良うならはった……?」
「おお、そうだ、意気投合したぞ!」
「え、いつ?」
っていうか、どのあたりで?
上機嫌で頷く廻元に目を見張ると、ふいに電話が鳴った。
こんなボロ寺でも電話があるんだ、文明ってのは凄いなあと呆れていると、受話器を取ってやりとりしかけていた京子がふいにへたん、と座り込む。
「京子ちゃん?」
「嘘……」
「どうしたの?」
「おにいちゃんが……死んだ……?」
「えっ」
息を呑んだ俺をのろのろと振り返った京子がからくり人形のようにことばを続ける。
「朝倉、周一郎…? その人が……おにいちゃんと関わりがあんの……?」
「え、えええっ」
あさくら、しゅういちろうって、あのあさくら、ですかそれ。
頭の中が一瞬にしてひらがな単体になる。
「おい、代われ」
厳しい顔になった廻元が京子の手から受話器をひったくった。よろよろと体を倒した京子が両手を畳について俯いていたのを、何かに呼ばれたようにゆっくりと顔を上げる。真白になった顔が俺を、やがてすうっとずれて俺の背後を見上げていく。
「………おにいちゃん…三条良紀、を御存知ですか、周一郎さん」
掠れた声で断罪するようにそう言った。
「綾野、啓一は……?」
「周…っ?」
慌てて振り返ると、これも京子に負けず劣らず白い顔をした周一郎が俺の後ろで立ち竦んでいた。




