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「ふわぁあああ…」
朝倉家の広大な庭の一角、よく晴れた休日、芝生の上に寝そべりながら、俺は思いきり伸びをした。
「気持ちいいなあ……このまま永久に眠っててもいいなあ」
俺の名前は滝志郎。時に『厄介事吸引器』とも呼ばれる。
俺が厄介事を引き起こしてるんじゃない。いつもそう思う。思うが人はそうは見てくれない。
そもそも俺が朝倉家に入ったのだって、『遊び相手』になってくれればいいと言う住み込みアルバイトに魅かれただけだ。なのに、いつの間にか事件に巻き込まれ、いらぬおせっかいを繰り返したあげく、気がついたら殺されそうになっていた。
俺は静かな生活を望んでる。飯が食えて眠るところがあれば十分だ。だからたぶん、ここでなくても、きっとどこでも生きてはいける。
にも関わらず、また『ここ』へ戻ってきてしまったのは、その『遊び相手』に引っ掛かってしまったからだ。
朝倉周一郎。
頭はいい。年齢十八歳。
見かけはそれよりもっと下、時に十五、六に見えるが、その実、幾つもの銀行と企業を抱える朝倉産業の若き当主だ。今のところは表向きには別の男が代表として立っているが、二十歳になれば名実ともに周一郎が朝倉家を仕切るらしい。
確かに、見かけはどうあれ、周一郎はそれだけの実力は備えている。基本スタイルの三つ揃いのスーツ姿は年不相応に似合っているし、目元に濃い色のサングラスをかけ、表情の読めない顔で淡々と事業内容を明確な論旨で展開する、なんてことも朝飯前だ。
いつもサングラスをかけてるのは『羞明』といって先天性の弱視からくる気分不快や吐き気、めまいなどを防ぐためだが、そのせいで一層近寄りがたく無表情に見える。まあ、それでなくても人を寄せつけたくない、そういう気配が満ち満ちてはいる奴だが。
だが、他の何より不思議で信じ難いのは、周一郎が、飼い猫ルトの目を通して様々な情報を手に入れることができるということかもしれない。
先日まで朝倉家を騒がせていたのは当主大悟亡き後の相続問題だった。連続殺人事件の主犯として謂れのない罪を着せられて、危うく遺産争いの犠牲者となりそうだった可哀想な少年。世間は周一郎をそう見ている。ところが真実は、その仮面を見事に被りおおせて世間を欺き、大人達を影で操ってまんまと一人で朝倉家を手に入れたのが、その『可哀想な』周一郎だ。
そういうことができたのもその能力ゆえだ。
けれど、元々の性格もあっただろうが、そういう優れたあれこれの能力は人の裏側を暴くことにしか役立ってくれなかったみたいで、周一郎は人間というものをからきし信じていない。米粒、いや何ミクロン以下の粒子ほども信じてない。周囲は全て敵だと思い込んでる。
よくない、と思う。
本当のねっこは優しいあいつが、それでいつもひどく傷ついてる、俺にはそういうふうに見えるから。
そう、見えてしまった。
そこに何だか引っ掛かって。
どうにもこうにも引っ掛かって。
離れがたくて。
何とかしてやりたいと思いつつ、いつも今一歩入り込めない。入り込めないまま、あいつの周囲でじたばたみっともなくもがいてる。
それが今の俺だ。
お由宇はそこがあなたのいいところだとは言ってくれる。だが、他の誰の助けも必要じゃない、そういう顔で背中を向け、事実何とか一人でしのいでしまう周一郎を見てると、俺のやってることなんて余計なことなんだろうなとも思う。
まあこうやって、一度は自分で追い出したのを、もう一回雇うぐらいには、周一郎は俺を気に入っているらしいが。
そして、それは高野に言わせれば『とんでもなく珍しいこと』らしいが。
ただな。
それにしてはいろいろそっけないんだよ、あいつは。
あの屈折した性格が、もう少しましになってくれれば言うことなしなんだが……。
「誰が屈折した性格なんです?」
ぎょっとして目を上げると、頭の上に冷ややかな顔をした周一郎が立っていた。
「あ、あはは~」
「こんなところに寝転んで、何をぶつぶつ言ってるかと思えば」
溜め息まじりに肩を竦めて見せる。
「いや、だからさ、春の日ざしは屈折率が高くて目に痛いなーと」
「……あなたにそういう科学的なことが言えるとは思いませんでした」
ほらな、そのあたりが屈折してるって。しかも、屈折してるうえに毒舌家なんだよ、こいつは。本音じゃないくせに。やれやれ。
胸の内で付け加えたことばを聞き取ったようにくすりと笑って、周一郎はゆっくりと隣に腰を降ろした。
あんまり運動したことがないんだろう、男にしては華奢な細い体、眉にかかるぐらいの髪を軽く横分けに流し、カッターシャツにブラウン系三つ揃いスーツに同系色のネクタイ。
あいかわらず年齢からすればとても普段着に見えない堅苦しい格好、大人達とやりとりすることも多いから、勢いこういう格好になっちまうんだろうとは思うけど、それにしても隙がない、なさすぎる。
鉄壁の守り、とか鋼鉄の淑女(?)とか想像しちまう。
それでも今日は久しぶりに仕事の手が空いたのか、珍しく周一郎はぼんやりした顔で抱えた膝に細い顎を乗せた。体を丸くしたせいか、いつもより小さく幼く見える。
こうやって側に来るようにはなったし、時々は今のような無防備な顔も見せるようになったものの、それでも一メートルは距離を置いて座るこいつが、今何を考えているのか、俺にはまだよくわからない。
吐息まじりに起き上がって胡座をかき、俺も同じようにぼんやりとしばらく無言で居たが、ちらちら光る日ざしが動き回るのに気づいて周一郎を見た。
「大丈夫か?」
「え?」
「かなり眩しいぞ」
周一郎の羞明はひどくなると意識を失い倒れてしまう時もある。こういう温かな日ざしに寛げないのは辛いだろうなと思う。
「……大丈夫です」
俺を振り返りもしないで応えた目は遠い。実はサングラスを外すと黒曜石のようにきれいに澄んだ目をしているのだが、そこに無条件の安心や喜びが浮かんだのを、俺はまだ一度も見たことがない。
いつかはこいつの気持ちがほぐれる時が来るんだろうか。
少なくとも仕事から離れた時ぐらい、こいつが楽になれる日が来るんだろうか。
こうしていても、もう一つの視界で、ルトの鋭い視線の奥で、こいつは人の裏側を眺め続けている。たぶん、そこにある敵意や悪意を否応なく見せつけられて傷ついているはずだ。
きりきり張った緊張は生育歴から仕方ないにしても、どこかで緩められるところができればいいのに。
たとえば、そう、俺と居る時ぐらい。
でも、それは俺が決められることでも強制できることでもない。周一郎に俺を信じろと命じたところで冷笑されるのがオチだ。でもって、俺は信頼するに足る人格者かと言うと。
……難しいよな。
我ながら自分にがっかりして溜め息をついたとたん、
「坊っちゃま」
「どわ!」
いきなり背後から呼び掛けられて跳ね上がった。