八話
その時、皓月は御史台から戻る途中だった。御史台は六部のある区画から少し離れたところにある。過去に一年ほど監察御史をしていたことのある皓月には勝手知ったる道のりである。
刑部に帰る途中で、皓月は珍しい人に遭遇した。豪華な衣装をまとうその女性は、皓月を見上げて顔をしかめた。
「……お久しぶりです、皇太后様」
「……そうね。わたくしは、会いたくなかったけれど」
五十歳前後ほどに見えるその女性は、皇太后武氏である。女帝美蘭の母親だ。と言うことはもちろん、叡香の母親でもある。
現在、晶皇国は垂廉の政を行っている。いや、実際は皇太后も政治の実権を持っているわけではないのだが、彼女は自分が国を動かせる力を持っている、という今の状況が楽しいのだ。美蘭がまだ経験が浅いため、口出しをしてくる。先代や、先々代の皇帝の時はこうはいかなかった。
そもそも、皇太后は、夫である先々代の皇帝が亡くなった後に別の宮に移るか、出家すべきだった。だが、彼女はそうしなかった。いまだに禁城に住んでいる。過去にそう言う皇太后がいなかったわけではないのだが、珍しいことには変わらない。ちなみに、他の妃嬪はそれぞれ宮を移ったり出家したりしている。身分が低ければ、そのまま市井に返されることもある。
まあ、そのあたりはともかくだ。重要なのは、皇太后が皓月を嫌っていることである。当然と言えば、当然だろう。彼女の息子叡香は、皓月のせいで命を落としたに等しいのだから。
それ以前からも、息子を奪う女として皓月を見ていた節がある。違う意味で息子を奪ってしまったので、皇太后の予見は間違っていなかったことになる。
「ずうずうしいこと。まだ禁城にいるとは」
「私が必要とされる間は、いますよ」
皇太后が皓月を嫌っていても、皓月の首が切られないのは彼女が優秀で、今抜けられると政治に穴が開くからだ。だから、異動させてまで留め置いた。おそらく、榮河が残っているのも同じ理由。皓月たちの価値を知っている者たちが、罷免しないでくれと訴えたのだと聞いた。
まあ、正直今のところ政治に影響はないので、皇太后が禁城に残っていようと構わない。だが、彼女は叡香をかわいがったわりに、美蘭に無関心だ。彼女がそれをさみしく思っていることを、皇太后は気にしたことがあるのだろうか。
叡香のことだって、かわいがってはいたが、親心があったかと考えると首をかしげざるを得ない。皇太后は、そう言う人なのだ。
「空気を読んで出て行けばいいものを」
「空気を読んで、出て行かなかったのですけどね」
皓月にしては嫌味っぽく言う。さばさばした性格だと言われることの多い皓月であるが、こういうところもある。そもそも、本来なら出て行く方は皇太后の方である。
「では、仕事中ですので、失礼いたします」
皓月はさくっと会話を切りあげて一礼し、刑部に戻るべく足を進め始めた。その背中を皇太后がじっと睨んでいる視線を感じたが、ふいっとそらされたので彼女もどこかに立ち去ったらしい。
やはり、皇太后は苦手だ。相手に嫌われていることがわかるから、好意的に接することができないのである。たまに空気を読め! と言われる皓月だが、別に空気が読めないわけではないのだ。
「……どうしたんですか、周侍郎」
刑部に戻ると、目があった官吏に思いっきり引かれた。今、皓月はそんなにすごい顔をしているのだろうか。卯侍郎に人殺してきたみたいな眼ぇしてる、と言われて相当荒んだ表情をしていたのだろうな、と思った。基本的に表情は変わらないのだが、纏う雰囲気が常と違ったらしい。
そんな午前中をすごし、午後。皓月は榮河の襲撃を受けた。彼が来るとたいてい皓月に用があるのだと、最近では新人たちもわかっていて、皓月の名が呼ばれた。が。
「どうした。入ってくるとは珍しいな」
「ん、いや、ちょっとな。皓月、これから時間あるか?」
「ない」
嫌な予感がしたので即答したのだが、卯侍郎が口を挟んでくる。
「なんかあったのか? 持って行っていいぞ」
尚書には俺から言っておく、とまで言われ、皓月は顔をしかめた。これは連れて行かれるではないか。
「すまん。皓月、頼む」
「……」
皓月は無言で立ち上がると、無意味に褙子を翻し榮河より先に刑部を出た。おってきた榮河が尋ねる。
「怒ってるか?」
「怒ってはいない」
ただ、理不尽だと思うだけだ。……これは怒っているのか?
榮河が皓月を連れてきたのは後宮だった。その入り口で何故か子俊と合流した。
「……そう言えば用件を聞いていなかったが」
「まあ、それは中に入ってからだ」
と、榮河と子俊が皓月を後宮の部屋の一室に押し入れる。榮河も子俊も一応身分のある男なので、後宮内に足を踏み入れることは可能なのだ。
「お疲れ様ですわ」
部屋の中で笑っていたのは翠凜だった。皓月は腕を組んで首をかしげる。
「で、何だ?」
「主上が行方をくらました」
「探せばよかろう」
「ああ。だから、協力してくれ」
「主上のことだ。禁城の中に……」
「主上は、街に降りられました」
榮河と皓月の会話に突然入ってきた翠凜が衝撃的なことを言ってきた。皓月は眉をひそめる。
「……すまん。今、何と?」
「主上は禁城を出て、街に降りられました」
「……」
にっこりと話す翠凜を見て何となく事情を察した皓月は言った。
「翠凜……手を貸したな? 護衛はつけているのだろう」
「ええ。もちろん」
翠凜が美蘭を禁城の外に出したのだ。たぶん、美蘭に街を見に行きたい、とでも言われて。女官長にあるまじきふるまいであるが、逆に言えば、翠凜が手引きしたのなら護衛がついているはずである。
「ならば、私たちが行く必要はなかろうよ」
美蘭を見放しているわけではなく、翠凜の選んだ武官を信用しているのである。
「だが、心配だろう」
榮河の問いに、皓月は無言で彼を睨みあげた。それからため息をつく。
「……私と子俊ならば、護衛にもなるからな……」
「では決まりですね」
翠凜は皓月の手を取った。無理やり引っ張られて奥に行くと、きらびやかな衣装が……。
「待て。私にこれを着ろと」
「周侍郎以外にだれが着るんですか。柳尚書や魏先生を女装させろと?」
うん。それは見たくないかな。
「いやしかし。別に女装する必要はないだろう」
「おい。おとなしく着替えとけ」
衝立の向こうから子俊の声が聞こえた。そのまま彼の声が続ける。
「世の中世知辛いんだぜ……親切心で声をかけても、誘拐だ変態だって騒がれんだからな……」
「……」
切実だった。実体験があるからだ。実を言えば、その実体験には皓月も関わっている。
まだ叡香が生きていたころのことだ。叡香は時折、街に降りてきてはいろんな店をのぞいたり見世物を見たりしていたのだが、ある時彼は、迷子らしい子供に声をかけた。
もちろん、親切心からだ。だが、それを見ていた通行人やその子の親は誘拐だと思ったらしい。大騒ぎになった。
この時、一緒にいたのが子俊と榮河である。皓月は別件で不在にしていたのだが、騒ぎにあわてて駆けつけて間を取り持った覚えがある。
言っておくなら、叡香も榮河も子俊も、顔立ちは整っている方で悪人相ではない。しいて言えば子俊が精悍な顔立ちをしているが、誘拐犯に間違われるほどではないと思う。
それでも、間違われたのだ。駆けつけた皓月も、例によって男装だったのだが、思いっきり怪しまれたし。官吏だと名乗ってようやく信用してもらえたくらいだ。確かに、世の中世知辛い。
「……そうだな。わかった」
男たちの中にも、女が一人いるだけで怪しさが下がる。それはさすがの皓月にも理解できた。まさか、翠凜を連れ出すわけにもいかないので、皓月が女装した方が早い。もともと女の皓月が女装する、と言うのも変な話だが。
しかし、皓月は一般的な成人男性より背が高い。彼女が着られる女のものなどあるのだろうか、と思ったが、余計な心配だったらしい。翠凜が楽しげに言った。
「では決まりですね。任せてください。月の女神も裸足で逃げ出すほどの美女に仕上げて見せます」
「……それはちょっと遠慮したいな」
目立つから。翠凜なら本当にできそうだし。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これほんとにありますよね。男の人が声をかけると不審者に思われるやつ。




